社会人として

思わず出発してしまいました。不安でしたが、戻ることはできませんでした。第一、戻ることができるようならこんなことでは不安にならないでしょう。


社会人になって、一ヶ月、ゴールデンウィークの終わりでした。社会人になった僕に何かと必要だろうし、要らなくなったからちょうどいいということで従姉の姉ちゃんがくれることになった十数年もののミラパルコをもらいに佐世保から長崎の実家に帰りました。


六年前に自動車の運転免許を取得して以来、一切運転したことがないペーパードライバーだった僕は、父親にミラパルコに一緒に乗ってもらって飯盛町だとか、神の島だとか、中途半端なところに何回か練習に出かけました。なかなかうまくならず、車庫入れができないまま連休の最終日を迎えて、いよいよ佐世保への長い長いドライブへ出発することになりました。独り立ちできる状態ではないのに迫る時間に無理からに独り立ちさせられる心境と状況でした。


さあ、出発するぞ。いやいや、お茶飲んでからにしよう。よし、出発するぞ。待て待てこのテレビ見てからにしよう。なんだかんだで朝出発するつもりが昼過ぎになっていました。これ以上引き伸ばすと道中暗くなるのが心配になり、心の準備ができていないのに背中を押されるような感じで車に乗り込みました。


キーを捻ってエンジンを掛け、オートマのギアをドライブにし、アクセルを踏み込みました。サイドブレーキを解除するのを忘れていました。慌てて押し込みました。とにかく僕の運転するミラパルコは弱肉強食の交通社会に放たれました。 学生時代、オートバイには乗っていたのですが、自動車はオートバイとは全然違い、幅もあり、困っても降りて押していくこともできないため、おそろしく不安でした。


どうにか左折、右折を繰り返しながら一本道に出ました。あとはしばらく流れに乗って直進するだけになり、少しほっとしました。信号待ちのとき、ギアをニュートラルにしてサイドブレーキを引くような余裕は一切なく、ずっとハンドルを十時十分に持ったままブレーキを踏み続けていました。また、出発するときにラジオのスイッチを入れるのを忘れていましたが、信号待ちでもなんだか余裕がなくてスイッチに手をのばすというたったそれだけの動作もすることができず、車内は静かで孤独な空間でした。緊張で喉が渇いている自分には気が付いていたのですが、コンビニエンスストアの駐車場に車を停めてジュースを買うなんてとてもできないのでとにかく佐世保の寮に着くまでは我慢するしかないと思いました。


国道を着実に時津町、西彼町と抜けていきました。西彼町の長さにうんざりしました。西海町に入りました。一瞬雨が窓に当たったような気がしました。降るのかなと思い、ワイパーを動かそうと思いました。ああ、なんてことだ。自分の情けなさに愕然としました。ワイパーのスイッチがどこにあるのか知りませんでした。六年前の自動車学校でも雨の中の教習はなかったし、父親との練習も雨が降ったら中止にしていたので全く使ったことがありませんでした。よく考えたら、ライトの付け方も知りませんでした。六年前の自動車学校でも夜の教習はなかったし、父親との練習も、昼間出掛けてすぐ帰るようにしていたので使ったことがありませんでした。


もし、雨が降り出して、薄暗くなったらどうしようと考えると、ただでさえ汗びっしょりだったハンドルを握る手がさらに汗ばんできました。次の信号で停まったときにスイッチを探さなくてはと思いました。しかし、そう思ったときに限ってどうしてなかなか青信号に恵まれて停車する機会がありませんでした。


やっとのことで赤信号停車して、足でブレーキをなぜか妙に力一杯踏んでハンドルやメーターの周辺をいろいろ押したりしました。いきなり窓の前からピュッと洗浄液が飛び出しました。でも肝心のワイパーが分かりませんでした。このまま青信号になったら大変だと焦っているうちにライトが点きました。どうやらライトの使い方は分かりました。分かったという表現を使いましたが、後日これは、ハイビームという、対向車や前の車にはとても迷惑なものだというのが別途分かりました。


とりあえずライトは元に戻し、ワイパーのスイッチを探してごちゃごちゃ触っているうちにワイパーがすごい勢いで洗浄液を押しのけました。レバーを反対側に戻すとワイパーは止まりました。とりあえずこれでいい。やっとほっとしました。しかし残りの信号待ち時間でライトとワイパーの復習をしているときふと大変なことに気が付きました。ガソリンのメーターの針が、『E』を指しかけていました。


そうか、車はガソリンで走っているんだった。そう改めて気付きました。ガソリンがなくなったらどうしよう。オートバイと違って、押してどうにかなるものでもない。急に不安になりました。あまり新しいことに立て続けに挑戦したくなかったのですが、道の真ん中でガス欠を起こしたときのことを考えると、勇気を出してガソリンスタンドに入らなければと思いました。 いつガス欠になるかとひやひやしながら進んでいくうちに、道路の左側にあるガソリンスタンドを見つけました。方向指示器を早めに点滅させて、ゆっくりとガソリンスタンドに入っていきました。


威勢のいいガソリンスタンドのお姉さんが、今給油している車の後ろに誘導しようとしていました。その車の反対側は空いているのになんで後ろに並ばされるんだと思って、早く給油して安心したい僕は誘導を無視してその反対側につけようとしました。お姉さんが必死の形相でこっちこっちとどうしても給油中の車の後ろに連れて行こうとしたのでなんだか腹が立ちながら誘導に従いました。後日、給油口のついている場所の都合上そのお姉さんの行動は当然のことだったと知りました。


前の車が出て行ったので、オーライオーライの誘導にしたがって車を少し進めて停めました。エンジンを切り、鍵を抜きました。ホッとしてふと気付くと、お姉さんが運転席のほうに回ってきていて窓を一生懸命叩いていました。あ、そうか。注文しなければいけないんだったと我に返りました。窓を開けようとして、窓のスイッチを一生懸命いじくりましたが窓が開きません。仕方がないのでドアロックを解除してドアごと開けました。後日、パワーウィンドウというものは車の鍵が抜かれた状態では開閉しないということを知りました。


ガソリンの注文の仕方はオートバイのときと一緒なので知っていたので、


「レギュラー、現金、満タンで。」


そういってお姉さんに車の鍵を渡しました。お姉さんは、


「え?何でしょうか?」


と、きょとんとしていたので、何のことだか分からないまま僕は、


「ああ、ああ。いやいや。間違いです。すみません。」


と謝りました。しばらくすると、またお姉さんが窓を叩いていました。今度は何だと思いながらドアを開けると、


「あのー、タンクを開けていただけませんでしょうか。」


と言われました。だからさっきダンクを開けるための鍵を渡そうとしたじゃないかと思った瞬間、あ、そうか、と気付きました。タンクはオートバイと違って鍵で開けるのではなくて、そういえば、運転席の下のあたりのレバーで開けるのを見たことがある。僕は大変な勘違いをしていた。そう思って、


「ああ、ああ。すみません。今、開けます。」


と、必死で座席の下をまさぐりました。なかなかそれらしいものは見つかりませんでした。 六年前の自動車学校にはガソリンスタンドはなかったし、父親との練習も、ちょっと出掛けてすぐ帰るようにしていたのでそんなレバーは使ったことがありませんでした。お姉さんが心配になったらしく、


「見つかりませんか?」


と、訊いてきたので、


「ちょっと、分かりにくいですねえ。この車。」


と、困っているくせに見栄を張って強がりを言ういつもの癖が出てしまい、意味もなく他人事のように車のせいにしました。そんなことを言いながら内心相当焦っていて手は必死でした。やっとのことでレバーを見つけました。あった、と思ってレバーをグイッと引きました。運転席が、バターンと倒れました。倒れた運転席の上で僕は、昔テレビで宣伝していた健康器具、『スタイリー・スタイリー』のように、ビヨーンと伸びたような滑稽な体勢になっていました。 お姉さんが驚いて心配そうに、


「あの、だ、大丈夫ですか?」


と、訊くので、僕は、また強がりの癖が出てしまい、体勢はどう考えても不自然だったのですが、何食わぬ表情を作って、


「ああ、大丈夫ですよ。」


と。まるで、こういうことが起こることを予想していたような落ち着いた感じで、でも、予想していたならなんで避けなかったのかの説明がつかないので、設定としては、あれあれ、またなっちゃったか、この車ちょっと最近ガタがきてるから時々こういうことあるんだよね、レバーの場所も分かりにくいし、この車にも困ったもんだ、と、この手のトラブルに慣れた感じの雰囲気を出しながら答えました。

起き上がろうとしましたが、起き上がり方が分からず、もがいている姿を見られたくないので、起き上がるのはこっそりあきらめて、スタイリー・スタイリーの伸びた状態のまま、引き続きやはり何食わぬ表情で、別のレバーを必死に探しました。

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