蜘蛛の糸?

平成18年度の始まりの日、そして、僕の新しい職場である長崎の支所に着任して初めての日でした。


とりあえず意味も分からないまま掛かってきた電話を取り、おっかなびっくり応対し、昼食を注文し、周りの人たちの過ごし方を真似しながら、自分も事務所の職員らしく振舞ってみたものの、やはり初日は興奮気味なのでどうしても疲れます。昼休みにちょっと気晴らしに外の空気を吸いにふらりと事務所の周辺を歩いて回ることにしました。


なるほど、ここが最寄りのコンビニエンスストアになるのか。ここに銀行がある。お金を下ろすならここまで来ればいいのか。おや、ここに郵便局がある。けっこう便利なところだな。へえ、いろいろよく分かった。今日はこのぐらいにして明日は逆方向を歩いてみよう。そう思って引き返そうとしてとき、少々尿意をもよおしました。横断歩道を渡って事務所まで帰ってもよかったのですが、公園の公衆便所がすぐ近くに見えたので、そこに行くことにし、僕はとことこと公園に歩いていきました。


公衆便所は小便器一つと、和式の大便器一つの男女共用の小さなものでした。小便器の方をタクシーの運転手さんが使っていました。僕は、もともとそんなにおしっこをしたくてたまらないわけではなかったのですが、入るや否やおしっこできるものだと思っていたので、もう心と体が今にも出すための状況になってしまっており、タクシーの運転手さんを待てずに大便器の方のトイレブースに入りました。しかし、結局のところ、振り返って施錠したり、普段の生活でめったにないことですが、ファスナーを開けて出して、和式便器の前で適度に座り込んで、と、タクシーの運転手さんを待っていたほうがましだったのではないだろうかというぐらい手間がかかり、その間必死でこらえました。


やっとおしっこをし始めたときに、誰かからドアをノックされました。しかも、ノックは乱雑なうえ、それと同時にドアをガチャガチャと開けようとする、ならば一体何のためのノックなのかと思うほどのかなりあせった感じでした。面倒くさがらず施錠しておいてよかった。していなかったら今頃変な格好でややしゃがんでいる後ろ姿を見られるところだった。そう思いながら、とりあえず、ノックて自分の存在を知らせようと考え、背中の後ろにあるドアをノックするために体勢をやや後ろ向きにしようとしました。そのとき、慣れない体勢で慣れないことをしようとしたため、おしっこの方向に払っていた注意が逸れ、おしっこの照準が逸れました。慌てて照準を元に建て直し、今度は、照準も含めて全てに細心の注意を払いながら、上半身だけやや後ろを向きながら、ノックをすることに成功しました。ドアの向こうの相手はドアを開けようとするのはやめましたが、すぐ外で僕が終わるのを待っているようでした。よほど切羽詰まっているんだなと思いました。


やっと変な体勢のおしっこも終わり、立ち上がりながらズボンのファスナーを閉めました。そして、ちょっと逸れたおしっこを次の人のためにせめて拭き取っておこうと思って、トイレットペーパーを引っ張りました。ペーパーホルダーはカランと音がしてちょうど紙は終わってしまいました。最後の紙で、照準がずれて便器を汚してしまった部分を拭いて、僕は外に出ました。外には六十歳ぐらいのおじさんが沈痛な表情で待っていました。おじさんは僕が出た後、狭いトイレの中で擦れ違いざまに素早く中に入り込みました。


事務所の前の横断歩道を渡ったときに気付きました。まずい。あの様子からして、あのおじさんは間違いなく紙が必要だ。しかし、紙は、僕の不徳の致すところで使い切ってしまった。あのおじさんを助けなくては。待てよ。おじさんも大人だし、命にかかわる事件ではない。どうにかなるのではないのか。いや、違う。おじさんが困るのは僕のせいだ。やはり助けないといけない。しかし、どうやって助けたらいいだろうか。助けを求めるのを待って、紙を渡そうか。それとも、ノックして紙を渡そうか。おじさんを助ける一番いい方法は何だろう。とにかく、助ける方法は考えながらでもいいから、まずは紙をどこかから持ってこなければ。


僕は支所のトイレに駆け込み、トイレブースからトイレットペーパを一つ掴んで、駆け出そうとしました。トイレの中を二歩走ってふと急ブレーキを掛けて立ち止まりました。いや、違う。これはダメだ。これは、支所の紙だ。僕は支所の紙を持ち出そうとしている。こういうことをしてはいけないのではないのか。いや、でも、これは使っていいだろう。人が困っているんだ。助けて何が悪い。よし。もう一度駆け出そうとしてもう一度一歩踏み出したとき、ちょっと待った。トイレットペーパーを手に持って横断歩道を渡る僕は明らかに変だ。怪しまれるのではないのか。かといってポケットにも入らないし。他に紙はないだろうか。


・・・・あ、そうだ。こないだ、駅前を歩いていたら、携帯電話会社がキャンペーンとか言って、パンフレットとティッシュを袋に入れたものを配っていたのをもらって、カバンに入れたままだった。あれがちょうどいい。僕は、強く掴みすぎてやや歪んでしまったトイレットペーパーをトイレに戻して、職場の席に走り出しました。席にたどり着き、カバンからパンフレットの入った袋ごと取り出して、公衆便所に向かって全速力で走りました。


横断歩道を渡り、公衆便所につきました。トイレのドアは閉まっており、中にはまだ人の気配がしました。走りながら、救出方法は決めていました。ティッシュをトイレブースの中に上から投げ込んで、すぐ立ち去るという方法です。こうすれば、突然天からティッシュが降ってくるのはおかしいしびっくりするかもしれませんが、とにかくおじさんは助かり、なおかつおじさんは誰からも顔も見られずにすみます。僕はパンフレットの入った袋からティッシュを取り出し、トイレブースの中にちょうど落ちるよう、バスケットのシュートのように放り投げました。ティッシュを持ったとき、その違和感に「ややっ」と思いましたが、もう戻ることはできなかったので、とにかく投げ込みました。ティッシュは、僕から見えた限りでは、さながら『プロゴルファー猿』の必殺技、『旗包み』の様に、壁の隅に当たり、そこからすとんと真下に落ちていきました。おじさんに当たったり、便器に落っこちたりもしない、最良の放り方でした。空から降ってきた、さながら蜘蛛の糸のような助けにおじさんはきっと救われているはず。


ティッシュを放り投げようとしたときにその重量感に違和感を感じていたのが気になり、手元のパンフレットを見たら、そこには『オリジナル超さっぱりフェイシャルペーパー』と書いてありました。・・・果たして僕がやったことは正しかったのか。ちょっとその場で考え込みそうになりましたが、お尻が超さっぱりするかもしれないけど、とにかく僕ができることはやった。もう早く立ち去らないとおじさんと顔を合わせてしまうと思い、いくらか心残りもありましたが、そのまま支所まで駆け抜けました。

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