ココロ
心は家に置いている。
比喩的表現では無く僕は毎朝出社前に心をソファに置いて家を出る。
僕は虚な目でデスクワークに勤しんで上司からの叱言を聞き流して一日を過ごす。
そして家に帰り、暗い部屋にただいまを一言言ってからソファーに置いていた心を胸に押し込み僕は僕を取り戻し眠りにつく。
僕は子供の頃、いじめに遭っていた。
彼らは、肉体的ないじめよりも、精神的に僕を追い詰める傾向にあった。肉体よりも精神を狙う方が証拠が残らず済むから。という理由を学校を卒業するときに知った。
そんな僕は、いつの日かから、防衛本能として、いじめを正面から受け止めずに済むように考えた。
最初のうちはいじめられているのは自分じゃない別の自分だと言い聞かせることにしたが、自分を騙している事が自らの中で羞恥となり、悔しくて、情けなくて、泣いた。
それから少しして自分はなぜ泣いているのか?なにがそこまで自分を悔しくさせているのか?なにが情けなくさせているのか?なにが恥ずかしかったのか?考えた。
いじめは終わらない。なら、一層の事、悔しいと感じる心を、情けないと感じる心を、恥ずかしいと感じる心を……取ってしまえばいい。そう考えたのだ。
その結果、心を家に置いて外出する様になった。
慣れてしまえば簡単なもので、楽な姿勢で呼吸を整え、最後に深めのため息を長く吐く。
すると僕の心はコロッと外れ簡単に取り外しが可能になるのだ。
心は丸い玉の様な形をしていて宝石の様に美しい。色は赤みがかっていて、丁度、ルビーの様なそれをしている。
心を抜くと思考が一つ上の段階に上がる。
更に言えば、物事がどうでも良くなる。
一見やる気を無くしている様にも見えてしまうが、俯瞰して物事に対処できるため効率は非常に良くなる。
僕は人付き合いが苦手だ。
上手く人と話すことができない。
人の話を聞くのも苦手だ。
インタネットが発達した現代で人付き合いほど面倒臭いものはない。大抵のことはパソコンとPCそれにタブレットが解決してくれる。知りたい情報を欲しい時だけに得られればそれでいい。相手のご機嫌を伺う必要もないし、余計な勘繰りをされることもない。
相手がいるシュチュエーションは、僕にとってストレス以外の何者でもない。
正直、人付き合いが無い方が生活しやすいのでは無いだろうか。と、さえ思う。
心を抜いた僕は話を聞き流し、適当に返事をする。無視をしているわけでは無く、あくまでも心がある時の僕よりも相槌を的確に打つことができる。
それでいい。
相手も僕に興味など鼻からないのだ。
ただ事務的に、ただ社交辞令の一環で、ただ表面的なやりとりをする為だけに僕に話しかけている。
だから僕のそれらに対する対応は往々にして間違っておらず双方共に良好とは言えずとも、険悪になることもない。
たまに影でヒソヒソと、「あの人本心で何考えてるのか分からないわよね」。と、聞こえることがあるが、そもそも心が無いのだ、僕に本心など鼻からある訳がない。
今日も僕はいつもと変わらず、長めのため息をついて心を取り出して職場へと向かった。
揺れる満員電車。
知らない人の肩が触れ、暑苦しい。しかしそれも心があるから生じる感情。僕はただ流れに身を任せ身体を揺らすだけ。
職場に就くなり仕事の溜まったデスクが見える。
僕は自らの席へと座りいつもの通り作業を始める。
途中上司が僕に叱言を言いにやってきた。
僕は「すいません」「気をつけます」「承知しました」の三つを内容に応じて使い分けて返答した。
上司は、ひとしきり話したと思うとお気に入りの女性社員が出社したのに気づき足速に僕の前を後にした。
僕の人生はこれから先もきっとこんな平坦な毎日が続くのだろう。
誰かに求められることもなく、誰かを求めることもない。ただ毎日が風景の一部として流れ、僕自身も誰かの見る風景の一部でしかなく、ただただ日がな一日を繰り返す。
歳を取って、何を成すでもなく、人生を振り返った時残るものは何もなく、僕を一言で現すなら、虚しさ、虚無、空虚、空っぽ……なんて言葉が妥当だろう。
人に期待する事をやめ、人に期待される事を嫌い、人を嫌悪し、自分だけの城を築く。
僕は自分の手の届く範囲のものだけを欲しがりそれ以上は望まない。
だから今日も家に帰って心を胸に押し当てて、自分が生きている事を実感する。いくら心がない事を望んでも、1日以上心と体が別々にあると生命の危機を感じる。実際に24時間以上、心と体を別々にしたことがないから分からないが、心と体は強く結び付いている為、1日以上離れてしまうと身体が冷えて徐々に動きが鈍くなる。そして、これは僕の憶測だが、鈍くなった体は心の臓まで止まり、死に至るのだろう。
人間が快楽を得るのは意外にも命の危機に瀕した時が多い、耳掻きが気持ちいのも脳がそれ以上、奥を掻くのは危ない。という危険信号を上げているからだ。
心を長時間抜いた時の僕も似た感覚に陥る。
いや、それ以上の快楽だ。
冷え切った身体に温かい心がゆっくりと浸かり、自分が、今、この瞬間、この時を生きている。と、生を実感する。
この瞬間がなんとも言えないほど堪らない。
だがその日、家に帰ると心が無かった。
「えっ」と、驚くにも心が無いのだ。
僕は心を無くした事に焦る心すら持ち合わせていなかった。
僕はどうすればいいのか一度考えようといつものソファに腰を掛けた。
ソファーが僕の自重によりゆっくりと沈む。
それと同時に僕の思考もゆっくりと沈んでいく。
いけない。心を長時間抜いている所為か、思考が追いつかなくなってきた。
恐ろしいほどの睡魔が僕を襲う。
ダメだ、今寝てしまったらきっと取り返しのつかない事になる。
本能が告げている。
けれども僕の身体は鈍くなる一方で、徐々に徐々に瞼が重く落ちていく。
薄れていく意識の中で考える。
僕の心は一体どこへいったのか?
僕に嫌気が差して、足でも生えて逃げ出したか?
いや、まさか。泥棒にでも入られたのだろうか?
心は宝石の様な形をしていたからな。
まったく……心無い奴がいたもんだ。
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