第三章 ②

「............ぉ......ん」


 夢か現かはっきりとわかっていない状態で、遠くからそんな声が聞こえてきた。

 かなり、かなり遠い。

 俺はその声にじっくりと耳を傾けてみる。

 すると、だんだんその声は俺に近づいてきて.........


「詩遠! 朝はとっくに過ぎてるよ!!」

「はいっ!?」


 ......思いっきり、俺の耳を劈いた。

 キンキンと痛む耳を押さえながら、声の主だと思われる人物の方を向く。

 起こされてから約五秒しか経っていないが、もう目はばっちりと覚めているので、その人物が誰かは一瞬で判断することができた。

 真っ黒いスーツをビシッと着こなす女性。それに合わせて凛とした目つきと、肩よりも少し下くらいまで伸びた茶髪を持っているので、電車などで見かけたらバリバリのキャリアウーマンにも見えるのではないだろうか。

 ......まあ、常日頃から子供として一緒に過ごしている俺から言わせると、そんなのは見かけだけだけど。

 ってなわけで、俺を起こしたのは俺の母である環雛だった。


「......あんた、学校はどうしたの?」


 そして、母さんは俺から布団を丁寧に引き剥がしながら、そう問うてくる。

 まあ、当然の疑問だろう。子供が朝も起きてこずに、さらに一言もなしに学校を休むなんて。

 だがしかし、俺は俺で母さんに一言も言わないでいた理由があるのだ。


「母さんこそ、今日仕事は? クビにでもなったの?」


 そう。さっきも述べたように、母さんは俺を育てるために、毎日のように働いてくれている。そして、これまたさっきも述べたように、母さんは毎日朝早くに家を出ていくから、てっきり今日もいつもみたいにとっくに仕事に出たのかと思っていたのだが......


「違うわよ。今日はちょっと.........用があってね。有休をとったの」


 母さんはそう理由を話すが、一瞬言葉に詰まった部分があった。何か詳しく言えない用事なのだろうか。

 ......まあ、母さんがそう言うんだから別にこれ以上追及するつもりはないけど。


「っていうか、私のことは今いいのよ。......それで? どうしたの? まさか超健康体のあんたが風邪を引いたとか言わないわよね?」


 俺は少し考える。......正直、これに関しては自分でもよくわかっていないんだよなぁ。確かに頭は痛いしほんのりと浮遊感はあるけど、それが本当に風邪によるものなのかは俺も判断しきれない。感覚的には、昨日の一件が関係していそうな気がする。

 そんなことを考えていたらまた頭痛がぶり返してきた。


「......詩遠、いつも言ってるでしょ? だんまりは権利の放棄よ。まあ、その様子から察するに、私の予想から当たらずとも遠からずって感じね」


 俺は黙って首肯しておく。

 すると母さんは俺の部屋をくるりと見渡す。何かを探しているのだろうか。

 と思っていると、母さんの視線は一点に固定されていた。思わず俺もその目線を目で追った。そこにあったのはアナログ式時計だった。時刻は丁度八時を指している。


「ふわぁ......」


 思わずあくびがこぼれる。......予想外の邪魔が入ったが、もうひと眠りくらいするか。

 そう思い、母さんが引き剥がした布団を奪い返して、ベッドに寝転がる。

 そして掛布団をかけて、俺は寝ようとする。.........だが。


「ねえ母さん。何でここにいるの?」


 母さんからの......というより、誰かからの視線があっては、落ち着いて寝ていられない。

 さっさと立ち去ってはくれないだろうか。


「......いちゃダメ?」

「駄目に決まってるだろ」

「そ、そんな即答しなくてもいいじゃない。.....................ねえ詩遠」


 ここで、母さんの声音ががらりと変わった。

 今まではいつも通りの、容姿からは想像もつかないほどの元気で明るい声だったのだが、最後俺の名前を呼んだときの声は、何かを心配するような、どちらかと言えば暗い声音だった。そんな真面目な雰囲気に俺は気圧され、黙り込んでしまう。


「何か、あったの?」 


 母さんはベッドに背を預けるようにして座り込み、そう聞いてくる。

 俺はやはり、だんまりを貫いてしまっていた。

 あまり、あのことについて思い出したくなかったのかもしれない。......しかし、その軽率な行動は逆効果だった。


「......やっぱりなんかあるんでしょ」


 何も答えないままにそっぽを向いてしまったので、要らぬ誤解を招いてしまった。

 いや、誤解ではないのか?

 ......まあ、何でもいい。俺はもう話は終わりだと言わんばかりに、布団を頭までかぶった。

 そして、強く目を閉じる。

 ......しかし。

 いつまで経っても、ドアが開閉する音は聞こえない。 

 聞こえてくるのは、非常に静かで落ち着いている息遣いと、アナログ時計のカチカチという音だけだった。

 少しだけ布団から顔を出して様子を見てみる。


「......母さん、用事があるから有休とったんじゃないの?」


 俺は、すっかりベッドの横に座り込んでいた母さんを見て、呆れながらそう聞いた。

 すると母さんは、優しい目をしながらこう答える。


「そうよ。......けど、お母さんは詩遠のことが心配なの」


 齢十七にもなって親に心配をされる自分が、少しだけ情けなくなった。


「あんたが知ってるかは知らないけど、一昨日の夜とか凄かったんだからね? 一晩中うんうん唸って」

「え.........?」


 知らなかった。

 一昨日と言えば......ああ、紫水とあのファミレスに行った日か。

 確かにあの日の夜に見た夢は決して良いものだったとは言えないなあ。

 ......っていうか、一階で寝てる母さんにまで聞こえるような唸り声ってどんだけ大きな声出してたんだ俺......


「ねぇ、詩遠。......聞かせてくれない? どんなに些細なことでもいいから」


 そんなこと、言われてもなぁ.........

 俺は母さんに向けていた目線を天井へと移し、少し考える。

 もし俺が今起こっていることを話して、本当に信じてくれるのだろうか。......もし俺が逆の立場だったら、絶対に信じられないだろう。

 しかし、このままの状態で生活を続けるとなると、俺の精神が壊れかねない。......現に今も、相当しんどい。

 やらなくて後悔するくらいなら、やって後悔しろってよく言うけど、結局のところはどうなんだろうか。俺は現実を背けるように、そんなどうでもいいことに脳をはたらかせた。

 前者の後悔は、『行動を起こしたらきっと違った結果になった』といった後悔。

 後者の後悔は、『行動を起こしても思った結果にならず、きっと行動を起こさなかったり、違う行動を起こしたら、また違った結果になった』といった後悔。

 そう、この言葉はどちらの選択を取ったとしても、後悔をするという前提で作られた言葉だ。まあ、結局のところ、森羅万象を司る神様でもない限り、どっちがいい結果かなんてわからないだろうけどさ。

 ......だったら俺は、どっちを取る......?

 どうせ後悔するなら、俺は——


「笑い話だと思って聞いてもらった方がいいかもしれない」


 俺は今日初めてのぎこちない笑みを浮かべながら、口を開いた。

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