2 月と太陽
扉を開け放つと、むわっと熱気が漏れ込んでくる。澪は桃子を連れて、屋上に足を踏み入れた。危険なまでに焼けたコンクリート。三百六十度空しかない景色を見ると、キメラの監視から逃れられている気がして、少し落ち着く。
私は、事務所の裏を知ってしまった人間として、無関係の社員を守らなくてはいけない。だがそれは、本当に難しい所業だった。土方たちを摘発したくても、事務所から犯罪者を出たとなれば、その汚名が善良な社員に支障をきたす。それを防ぐために、キメラ構成員をリストラして事務所社員の肩書きを奪ったあとに、刑事告発する。だがこれまた途方もない手間がかかる。勝率もまだまだ低く、イタチごっこにすらなっていないかもしれない。
澪がこうして風に当たりに来るのは、無意識的に、すり減った神経の修復を欲しているからでもあった。
「……あのさ、澪」
背後から桃子の声がかかる。いけない、また気を抜いていた。
「私を呼び捨てするなんて何様のつもり!?」
演技のコツはオーバーリアクション。役の特徴を割り増しして、嫌味ったらしい女になりきるのよ、澪。
「そういうの、もうやめにしよう」
一瞬たじろいた。なんだかいつもの桃子と違う。思慮深く落ち着き払い、それでいて強い意志を感じさせる瞳。
桃子を傷つけるのが、怖い。
「はっ何が? あなたどうしちゃったの?」
ほんとよ澪、あなたどうしちゃったの。
言葉だけではダメだと思ったのか、桃子が私の手を取る。澪は、無下に抗えなかった。
「私はずっと前から、キメラのことも、事務所との裏協定のことも知ってる。だから教えて。澪は今まで、キメラに対抗してきたんだよね? 正義を貫いてきたんだよね?」
ドクン、と心臓が爆発した。なんで、なんで桃子が知っているの。私の演技も、事務所の裏側も、私たちを取り巻く事の事実を――
「なになに、ちょっと怖いんだけどぉ」
真相を隠せ。感情を抑えろ。これ以上、桃子を闇に近づかせてはならない。キメラからも、キメラの標的になった私からも、いますぐに逃がすのよ。
台詞に思いあぐねていると、桃子が強く手を握った。
「お願い、友達として聞いて。私ははじめ、澪の方がキメラ総帥だと誤解していた。だから、まさに今日この日、あなたを殺す計画を立てていた」
「えっ……」
頭が真っ白になる。私は今日、桃子に殺される運命だった。本能的に身がよだつ。澪は、反射的に桃子の手を振り払った。
後ずさり、ネイルの長い爪を手のひらに食い込ませる。
恐怖と同時に湧き上がる、驚愕と罪悪感。私の嫌がらせが、そんなにも桃子を追い詰め、犯罪に手を染めさせたなんて。私が、桃子を狂わせてしまった。
何を馬鹿な。
桃子を憐れむつもりか。この役柄がそんなことを考えると思うか。演じ続けなさい、澪。まだ幕は降りていない。いや、一生終演を迎えない舞台に、あなたが立つとを決めたのでしょう?
私が演じている間は、桃子を、かけがえのない大親友を守れるから。
……なんて、私のうそつき。
澪は膝から崩れ落ちた。役は壊れ、澪のメッキは剥げ落ちた。代わりに、身も心も軽くなった。
「ごめん、ごめんね桃子。私の演技じゃ、あなたを笑わせられなかったのね。桃子は何も悪くないわ。本当に、本当にごめんなさい」
澪は今にも、額をコンクリートに擦り付けんばかりであった。桃子が慌てて立ち上がらせる。
「責めているわけじゃないの。ただキメラと戦う正義心があったのに、どうして嫌がらせをしたのかが、分からないだけ」
桃子はしゃがみ込み、澪に視線を合わせた。もう一度そっと手を取る。澪は、おそるおそる顔を上げた。
「……それはキメラ側に、桃子が私の親友だって知られたくなかったからなの。組織との対立に桃子を巻き込まないように。本来なら事務所の外まで逃がすべきだったんだろうけど、そうすると私が桃子を守る名目がなくなってしまう。ならばせめて、いつも手の届くところに、って……本当に酷いエゴだったわ」
澪がまた「ごめんなさい」と言った。桃子はふるふると首を振って、「もういいよ」「こちらこそ」と返した。
それからもう一度ずつ、互いに「ごめんなさい」を言って、「もういいよ」も言うと、最後に「ありがとう」と笑えた。初々しすぎて恥ずかしいけれども、子供じゃないからこそ、こういう愚直さを忘れてはいけないのかもしれない。
屋内に戻る前にもう一度と、澪が大きく息を吸う。桃子がその隣に並んだ瞬間、太陽と昼の月を、汽車が繋いで駆けていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます