第56話 思いを胸に
誰もいないコロシアムだが、弦義が国を出た後にも何度か使用されたのだろう。フィールドの各所に血痕が残っている。それは罪人の阿鼻叫喚であり、この世に存在した証明だ。
控え部屋を通り過ぎ、弦義はただ一人でフィールドに立った。
夕刻を迎えて空は赤く染まり、弦義の姿を橙に染め上げていく。
「弦義」
「那由他」
声のした方を振り返れば、一段高い場所にある客席に、仲間たちの姿がある。大きく手を振る白慈と、控えめなアレシス。そして那由他が立ったままこちらを見下ろしている。
「那由他、彼らは?」
「あっち」
顎をしゃくって那由他が示したのは、彼らがいるのと反対側の客席だ。丁度、和世が何人かの男女を客席に案内して来たところだ。
和世が弦義たちに気付き、真面目な表情のまま頷く。彼に導かれて来たのは、このアデリシア王国で現在大臣や将軍職にある者たちだ。亜希と直士の姿も見える。
少し怯えているのか、皆表情が硬い。遠目にそれを見て、アレシスが苦笑する。
「……和世、脅して連れて来たのかな?」
「そうでもしなければ、動いてもらえなかったんだろうね。決して傷付けないでと頼んだから、それは守ってくれたようだけど」
大臣たちを席に座らせるまでの間、和世の手は常に腰の剣にあった。それは、抵抗すればいつでも斬り捨てる、という記号になる。おそらく、和世は剣を抜くつもりなど一切ないが。
苦笑いしか出来ない弦義に向かって、那由他が問う。
「……だが、よかったのか? あちら側の味方を呼んで」
「うん。というか、そうしなければいけないんだ。向こうに口実を与えないために、彼らには証人になってもらう」
弦義が勝った場合は、野棘の政権が終わることの。もしも野棘が勝てば、彼の支配が続くことの。それぞれを彼らの目で見てほしかった。
しばらくして、敵側の客席から和世が戻って来る。少し緊張感が先行する彼に、弦義は「お疲れ様」と声をかけた。
「面倒な役目を押し付けて、ごめん」
「気にしないでくれ。身分のある人たちに応対するのは、少し緊張するんだ」
「……。そうか」
和世の中で、自分は緊張せずに話せるほど身近な存在になったのか。弦義は場違いながら、それが嬉しかった。
「弦義、あれ……」
日が西の空に沈もうとしていた時、白慈が指を差した。彼が示す先を見て、弦義は緊張感が一気に増していくのを感じた。一つ意識的に呼級し、待ち望んだ男の襲来を迎えた。
「……野棘」
「弦義・アデリシア。国賊として追われる身分であるはずのお前が、何故この場にまで戻って来た? しかも刺客は全て殺さずに退け、我が手を汚さねばならなかったではないか」
「わずかな望みに賭けたが、無駄だったか」
弦義は、幾度も刺客に命を狙われた。全て返り討ちにしたが、命までは奪っていない。メッセンジャーを頼んだ者たちの他は国に戻らず逃亡することを願ったのだが、野棘は彼ら全てを何らかの手段で殺したのだ。
つまり、もう一度殺しに来ると言った
「……どうして、殺した」
「どうして? そんなものは理由などない。――我が意に反するものは、この国に存在を許さない。それだけだ」
絞り出すような弦義の問いに、野棘はすらすらと答えてみせた。最早、問われることすら煩わしいとでも言いたげに。
「……ならば、僕もお前の質問に答えよう」
悔しさが胸を塞ぐ。自分のせいでたくさんの人々が命を失ったかと思うと、手足が縛りつけられるような感覚に陥る。それでも、弦義は立ち止まることなど出来ないのだ。
「何故、ここに戻って来られたか。それは、お前の蛮行を止めるためであり、協力してくれる人たちがいたからだ」
共に国を出た那由他。野棘への復讐心を持って仲間になった白慈。国王の命で弦義を評価するためについて来た和世。面白そうだからという理由で共に旅したアレシス。彼らの存在なしには、弦義は旅を続けることなど出来なかった。
更に、各国の国王が手を差し伸べてくれた。ロッサリオ王国の
ロッサリオ王国の
彼らの思いに報いるため、弦義はここに立っている。
「だから――、必ずお前を倒す」
「笑止」
弦義は剣を抜き、鞘を那由他に預けた。同様に野棘も抜き身の剣を手にしている。
野棘の剣から滴り落ちるものを目にし、弦義はわずかに目を伏せた。それが隙になるとも思わずに。
「ぐっ」
「相変わらず注意散漫だな、殿下」
「何を……かはっ」
野棘の拳が鳩尾に叩き込まれ、弦義は呼吸を止められる。そのまま壁に向かって吹き飛ばされ、背中を打ち付けた。
倒れそうになる足を叱咤し、弦義は次に来た野棘の剣を弾き返す。反動でバランスを崩しかけるが、壁を蹴って前に出た。
「はあっ!」
「チッ」
踏ん張り、跳んで野棘の上を取る。日の援護は期待出来なかったが、弦義は落ちる勢いを利用して思い切り剣を叩きつけた。
キンッという音がして、二つの刃の間に火花が散る。削り合うような攻防の後、一定の距離を取る。
そして、再び斬り合いが始まった。
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