第4話 深海からの贈り物

 1週間後、下田の魚市場。

「はい、5万2千円、5万2千円、あとないか…。」

 威勢のいい競り売りの声が響く。洋一と茜は眠い目を擦りながら底冷えのする市場の中をウロウロと「海ナマズ」を求めて歩き回った。広い市場の中にはあちらこちらに新鮮な魚の入った発泡スチロールの箱がうずたかく積まれ、大勢の買付人達が次々と競り落としてゆく。箱の中には裸電球に照らされて青黒く光る魚の背中が並んでいるのが見えた。やがて2人は市場の片隅に無造作に並べられた奇妙な形をした魚を見つけた。

「これだわ。」

 茜は宝物を発見して喜ぶ子供のように不気味な魚の傍らに駆け寄った。体長は80センチメートル位であろうか、思ったよりは小さかったが、細長くヘビのように延びた尾ひれまで入れると優に2メートルはあろう。ヌメヌメした黒光りのする魚体は、なるほどナマズというに相応しい。顔半分くらいあろうかと思われる巨大な口が半開きとなりノコギリのようなギザギザな歯がのぞいていた。あの歯に挟まれると、人間の手首も簡単に食いちぎられそうであった。深海から引き上げられたせいか、白い腹は風船のように異様に膨れ上がり、グロテスクな様相を増していた。

 茜は、忙しく立ち働く競売人の1人をつかまえると大声で尋ねた。

「この、海ナマズいくらでしょうか。」

「えっ?」

 男は茜の方に耳を向けて聞こえないという素振りをして見せた。茜の声はうるさい競売りの声にかき消されて男の耳に届かなかったようである。茜はさらに声を張上げて同じ質問を繰り返す。

「あんなもん買ってどうすんだ?」

「いえ学術研究です。」

「へえー研究ね、いいよ、持って行きな。どうせ肥やしにしかならねえんだし。」

 男は気前よく言った。これだけ図体が大きくても肥料にすればせいぜい数百円にしかならない。解体の手間賃も出ないのであろう。男は一言言い残すと、せわしなく次の持ち場へと去って行った。茜は何かを探すかのようにキョロキョロと辺りを見回していたが、やがて大きな木製のテーブルを見つけた。

「先輩、ちょっと手伝って。」

「一体どうするつもり。」

「あそこの台の上に載せるの。少し重いけど2人で持ては何とかなるわ。」

 2人は海ナマズの尻尾を掴むとズルズルと台の下まで引っ張って行った。台は3メートル四方くらいの大きなもので、おそらく魚の解体に使われるのであろう、ところどころ血糊の跡と思われる黒い染みが見られた。2人は海ナマズを抱えると台の上に載せようとするが、ヌルヌルとした手触りで手が滑る。危うくずり落ちそうなるのを、腕で支えながら2人は何とか魚体を押し上げた。目線が高くなると、海ナマズはさらにそのグロテスクな表情を増した。ギロリとした目は既に空ろになってはいるものの、半分以上眼窩から飛び出し落ちこぼれそうになってる。普通の魚にはない生臭いニオイが鼻を衝いた。

「こんな所に載せてどうするんだい。」

 洋一は茜に尋ねた。

「今からここで解剖して、胃の内容物を確認するの。」

「えっ?」

 洋一は仰天した。見ているだけでも気持ちの悪いこの魚をこの場で解剖する? 洋一は茜が気でも違ったのではと思った。しかし、茜は真剣であった。持ってきた鞄の中から解剖用のキットを取り出すと台の上に並べ始めた。そして白いマスクとビニール製の手袋を着けると、洋一にも同じ物を着けるように促した。

「お、おれはいいよ。」

 洋一は小声で言った。

「先輩、何びびってんの。魚を3枚に下ろすと思えばいいのよ。」

 大した度胸である。なるほど海洋生物学者ともなれば、これくらいのことは日常茶飯事なのかもしれない。洋一は渋々茜の指図通りマスクと手袋を着けた。

「でも、胃の内容物を調べてどうするの。」

「この魚は深海から浮かび上がってきたのよ。しかも貪欲で何でもかんでも呑み込むの。ひょっとして幻のバクテリアも一緒に呑み込んでいるかもしれないわ。」

 洋一は漸く茜の真意を知って納得した。その間にも、茜はキットの中から鋭い解剖用のメスを取り出した。2人の間に緊張が走る。洋一は魚の解剖など初めての経験であった。せいぜい魚屋の店先でサンマを開くところくらいしか見たことはなかった。しかし、ここにいるやつは大きさといい形といい、サンマとは比較にならなかった。黒光りのするグロテスクな姿を間近に見るだけで背筋が寒くなる。

 茜は手慣れた手つきで胸ヒレの下当たりにメスを突き立てると、一気に下腹まで切り下げた。白い腹が割れて中からピンク色の肉がのぞく。茜はメスを抜くと、さらに今一度開いた創口にメスを刺し入れ、奥深くへと切り込んでいく。水揚げしてもう何時間も経っているはずであるが、血液とも体液ともつかぬ赤茶けた液体がダラダラとテーブルの上に流れ出る。茜は脂がついて切れ味の悪くなったメスを取り替えると、3度目でようやく厚い肉が切り開かれ創口は腹腔に達した。茜は創口に両手を差し込むとエイッとばかりに両脇に押し広げた。大量の液体とともに、巨大なピンク色の肉塊がダラリとテーブルの上に流れ出た。周辺には生臭い悪臭が一層強烈に立ち込めた。

「おえー。」

 洋一は見ていられなくなり、テーブルに背を向けると側溝の上にしゃがみ込んだ。

「ちょっと、先輩、しっかり押さえててよ。」

 茜は洋一に命令する。しかし、洋一はとても真っ直ぐには立っていられそうになかった。それどころか、側溝の上にしゃがみ込んだままゲーゲーと喉を鳴らしていた。

「もう、だらしないんだから。」

 茜はぶつぶつ言いながら1人で作業を続ける。フットボールが5つ位も入りそうな巨大な胃袋を開くと、持ってきたガラス瓶に内容物を詰め始めた。この魚は本当に貪欲で、ありとあらゆる物を呑み込んでいた。半分ほど消化された魚の骨やら貝殻、カニの甲羅、それに石ころの類まで入っていた。

「終わったわよ。」

 茜はマスクと手袋を外しながら洋一に声を掛けた。対する洋一は、まだ蒼ざめた表情でゼーゼーと肩で息をしていた。このような場面に強いのは、どうやら女性の方のようであった。男は存外気が弱いものである。

「必要なものは頂きました。有り難うございました。」

 茜は先程の競売りの男をつかまえると、軽く頭を下げた。

「あいよ、お疲れさん。後はあのままにしておきな。昼過ぎには業者が回収に来るから。」

 2人はようやく白みかけた早朝の魚市場を後にした。


「先輩、ちょっと研究所まで来れないかしら。」

 3日後の昼過ぎ、茜から電話が入った。先日持ち帰った海ナマズの胃の内容物の調査結果が出たというのである。茜の声は明らかにいつものトーンと異なっていた。何かを見つけたのであろうか。洋一は取るものもとりあえずオフィスを後にした。

 東京海洋大学の研究所は浦安にあった。気象庁のある大手町からは地下鉄で20分程度の距離であったが、今日の洋一にはその時間がとてつもなく長く感じられた。研究所は東京湾に面した広々とした海浜公園の隣にあった。モダンな建物はどこか水族館を連想させる。洋一はエントランスで茜の名を告げると、ソファに腰を下ろして茜を待った。3階まで吹き抜けになった巨大なエントランスホールには座頭クジラの剥製が飾られていた。待つこと5分、茜が下りてきた。

「先輩、ありがとう。大至急見て欲しいものがあって。」

 茜の声はやはり興奮に震えていた。その興奮はすぐさま洋一の心臓にも伝わった。エレベーターに乗って上に上がる間にも、洋一の胸はドキドキと動悸を打ち始めた。茜の研究室は3階の海に面した側にあった。全面ガラス張りの大きな窓からは東京湾が一望でき、明るい陽光が差し込んでいた。壁側の棚には奇妙な形をした海の生物の標本がホルマリン漬けの瓶に入れられて並んでいた。ずらりと並んだデスクの上には、顕微鏡やパソコン、その他諸々の実験器具が所狭しと並んでいた。

「これよ。」

 茜は洋一に顕微鏡を覗いてみるよう促した。洋一は緊張した面持ちで恐る恐る目を近づけた。丸い画像の中には、ゴツゴツした黒色の物体に混じって小さな白い球状の粒が無数に光るのが見えた。

「こ、これ、ひょっとして。」

 洋一は期待と緊張で声を引きつらせながら、かろうじて茜に尋ねた。洋一は直感的にこれが幻のバクテリアではないかと考えたのである。しかし、そんな洋一の淡い期待は、すぐさま否定された。

「残念ながら、バクテリアじゃないわ。」

 無論そうであろう。そんなに簡単に幻のバクテリアが発見出来るのであれば誰も苦労はしない。洋一は期待に膨らんだ風船が一気にしぼんでいくような気がして、ガックリと肩を落とした。しかし、茜の話しにはまだ続きがあった。

「これ、固形メタンよ。顆粒状の固形メタンは自然界には存在しないわ。こんな粒状のメタンを合成できるとしたら、何らかの微生物しかありえない。」

「そ、それって。」

 茜の一言に、消えかかっていた洋一の好奇心に再び火が灯った。

「そう、この固形メタンは幻のバクテリアが存在する可能性を示すものよ。バクテリアは生きてゆくためのエネルギーを得るために海水中の二酸化炭素を分解する。その時の副産物として出来る固形メタンが体内に蓄積されていくの。バクテリアの死後も、固形メタンは分解されずに残る。これはあくまで仮説だけど、今洋一が見ている固形メタンは、バクテリアが海ナマズの胃袋の中で消化されて、その後に残った残留物の可能性が。」

「す、すごい発見じゃないか。もしそれが事実ならノーベル賞級の発見だ。」

 洋一は興奮して茜の話を途中で遮った。

「いいえ、だめよ。まだ確たる証拠がないわ。この固形メタンが本当にバクテリアの生成物だということを証明するには、どうしても生きたバクテリアのサンプルが必要だわ。」

 茜はあくまでも慎重であった。もしこの固形メタンが全く別の理由で自然界に存在するものであったとしたら、とんだ勘違いになる。確証を得るためにはとにかく生きたバクテリアを採取するしかない。

「そのためには深海まで潜れる潜水艇が必要ね。少なくとも二千メートルまでは潜れる潜水艇。それで深海底の泥を採取して調べるの。でも問題は、そんな潜水艇をどうやってチャーターするかね。」

 茜は途方に暮れたように天井を見上げた。二千メートル級の深海潜水艇は我が国には二隻しかない。海洋資源開発公団と海洋科学センターが、大陸棚の資源開発と海洋性地震の観測の目的でそれぞれ所有していた。いずれも簡単には利用できるようなものではない。

「俺達だけでは無理だな。気象庁の公式ルートで使用許可申請を出そう。」

「ダメよ。公式ルートで申請すれば当然理由を聞かれるわ。そして万一バクテリアが発見されたとしても、それは日本政府の管理下に置かれる。バクテリアをどのように使うか、政治判断の入る余地が出てくるわ。」

 茜の研究者としての勘であろうか。万1日本政府がバクテリアの存在を不都合と判断すれば。洋一は、「領土が2倍になるぞ。」という総理の言葉を思い出していた。もし日本政府がアメリカ側に付くとすれば、氷河期の到来を食い止める可能性のあるバクテリアの出現はむしろ不都合である。

「この調査は極秘に進めなければならないわ。そしてもしバクテリアの存在が確認されれば、それは人類共通の財産として世界中の人が共有しなければならない。」

 洋一は舌を巻いた。茜はそこまで計算していたのである。

「ゴメンナサイ。海洋生物学を専攻していると、どうしてもこうしたことを考えてしまうの。歴史を振り返ってみても、一国の我がままな判断で絶滅に追いやられた生物も少なくないわ。」

 洋一はなるほどと思った。過去には人間の乱獲によって絶滅した動物も数多くいる。このバクテリアもどのように使われるか分からない。貴重であるがゆえに政治的に利用されないとも限らないのである。しかし、洋一はハタと困った。公式ルートを通さずに深海潜水艇を利用するなど到底無理な相談であった。洋一は頭を抱えたまま、しばらく絶句してしまった。何かうまい方法はないものか。

「そうだ、山口君に頼んでみよう。ほら、君も知ってるだろう、地震観測局の山口君。彼が定期的に小笠原海域の深海底の調査をしてるって聞いたことがある。彼に頼んで何とか次回の調査に同行出来ないか聞いてみよう。」

 洋一の提案に茜は即座に反応した。

「先輩、お願い。何としてでも潜ってみたいわ。」

 茜は懇願するように洋一の手を取った。

「大丈夫さ。俺に任せて。」

 洋一は自信たっぷりに茜の両手を握りかえした。


 しかし、1ヶ月後世界情勢は一気に緊迫の度を増した。

「昨日発表されました第3四半期のアメリカの化石燃料消費量は、前年の同じ時期に比べて八パーセント増加しました。自動車などの禁輸措置に踏み切って以降も、一向に事態の改善が図られないことに、EU諸国は揃って非難の声を強めています。イギリスは既にワシントン駐在の大使を召還するとの意向を表明しており、ドイツ、フランスなどもこれに追随する見込みです。アメリカとEU諸国の対立が決定的になったことで、議長国である我が国は極めて難しい立場に立たされることになりました。今後の日本政府の対応が注目されます。」 

 総理執務室に備え付けられた大型テレビの画面からは臨時ニュースが流れてくる。そのニュースを聞きながら、畠山総理以下、関係する諸官庁の大臣が打ち揃い、対応策の協議が続けられていた。

「いよいよだな。で、どうする? 我が国は。」

 ニュースが一区切りしたのを確認した畠山総理は徐に口を開いた。

「今はとりあえず静観するのがよろしいかと。この問題はアメリカとEUの間の問題でもありますし。」

 村山外務大臣は火の粉が降りかかるのをかわすかのように中立策を打診した。

「いや、それでは済まんだろう。現にアメリカは空母インディペンデンスを横須賀から出向させると通告してきた。行く先は恐らく北大西洋か地中海だろう。アメリカは本気だ。」

 総理は、意見を求めるかのように佃防衛庁長官の方へ視線を向けた。

「万一欧州で有事ともなれば、日米安全保障条約に基づきアメリカは我が国に後方支援を求めてくるでしょう。アフガニスタンでの前例もありますように、我が国としての立場を明確にせざるを得なくなるかも。」

「それは無理だろう。今の法律で欧州まで自衛隊の艦艇を派遣するなど、到底国民が納得するはずがない。」

 防衛庁長官の説明に青木官房長官が膝を前に進めて具申する。黙ってその様子を聞いていた総理は、やがて意を決したように自らの思うところを述べ始めた。

「いや、私が欲しいのはそうした目先の事務手続きの話ではない。もっと大所高所の議論が必要だ。今回の問題は、地球温暖化が氷河期入りのトリガーになるということに端を発している。我々が考えている以上に根が深い。目先のことにはとらわれず、何が真に我が国の国益に叶っているかを見極めなければならない。これほどに我が国の将来を大きく左右する政治判断は、恐らく真珠湾以来、いやそれ以上の重みがあるというものだ。どうだ? わかるかね、諸君。」

 総理は腕組みをしたまま、じっと沈思黙考に沈んだ。その場に居合わせた閣僚全員も、併せるかのように押し黙った。緊張の時間が過ぎていく。やがてゆっくりと腕を解いた総理は一言はっきりとした口調で全員に自らの意思決定を告げた。

「我が日本国は、アメリカと運命を共にする。」

「そ、総理。」

 閣僚全員が一様に驚いた様子で、総理の方に視線を向けた。

「前にも言ったが、歴史的に見ても我が国は国土の狭さに大きなコンプレックスを抱いて生きてきた。それが、戦前は太平洋戦争を生み、戦後は貿易戦争を生んだ。そして未だに資源小国としての悲哀を味わい続けている。いつまでたっても欧州諸国の後塵を拝したままだ。諸君、こんなチャンスは滅多にない。氷河期が来れば、海水面が下がり我が国の国土面積は今の倍になる。大陸棚に眠る資源の開発も思いのままだ。アメリカを抜く大国になることも夢ではなくなるぞ。」

 閣僚一同は唖然として総理の1人演説に聞き入っていた。何という恐ろしい野心であろうか。国益のために、アメリカと一緒になって世界の気候を変えてしまおうという選択肢を、今総理は提案しようとしているのである。それがどのような帰結をもたらすことになるのか誰にも予測できない。まさに国運を左右する重大な意思決定であった。

 総理が話し終わっても誰も口を開く者がいなかった。1分、2分…、長い、長い沈黙の時間が流れてゆく中、ようやく1人が口を開いた。

「分かりました、総理。総理がそこまでお考えなのであれば、我々としましては着いてゆくのみです。」

 青木官房長官であった。もはや誰も反対する者はいなかった。そして1週間後、日本政府は公式に京都議定書を批准しないことを発表した。


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