第5話 小笠原へ

「大変なことになったわ。」

 洋一と茜はこのニュースを海洋科学センターの深海調査船「小笠原」の上で知った。2人は幻のバクテリアを探し求めて、同センターの潜水調査のミッションに加わっていた。

「一体日本政府は何を考えているのかしら。議長国の日本が議定書を批准しなかったら、そもそもこの議定書自体が反故になってしまうわ。」

 茜は怒りを露わにして強い口調で言った。一方の洋一は落着いてこのニュースを受け止めていた。総理との極秘会議の後、いつかはこうなるであろうことを予想していた。ただ、事態は洋一の思惑よりもはるかに早いスピードで進んでいた。

「とにかく、こうなったら1日も早く幻のバクテリアを探し出さなきゃ。あれがあれば全ての問題は解決する。」

 洋一と茜は、自分たちの宝探しがとてつもなく大きな使命を帯びてきたことに、言いようもない緊張と興奮を覚えていた。

 船は黒潮のうねりを蹴散らすように南を目指す。水平線のかなたまで雲1つない青空が広がり、大海原からは心地よい潮風が吹きつけてくる。まだ3月というのに、小笠原の陽射しはもう初夏を思わせるかのように肌に焼きつく。2人は後甲板に並んで座ると、久しぶりの海の香りを胸一杯に吸い込んだ。

 海は人の心を開放的にする。ここにいると一切の嘘や隠しごとは通用しない。洋一は、すぐ隣で大の字に寝転がっている茜の方にチラリと目をやった。タンクトップからはみ出した茜の両肩は、陽に焼けて早くも赤く染まり始めていた。ふっくら膨らんだ胸の下には、間違いなくロンドンで見たものと同じビーナスが隠されていた。あれは単なる幻だったのか、それとも。

「茜、今度の仕事が一段落したら、結婚しよう。」

 洋一は頭上に広がった青空を見つめたまま、呟くように言った。

「えっ?」

 茜は突然の洋一の言葉に仰天した。無論洋一とはもう赤の他人ではない。自分でもいつかはこんな日が来ると思っていた。答えは「YES」しかないはずであったが、何故かその一言がすぐには出て来ない。

「わっ、私。」

 洋一の人差し指がそっと茜の唇に触れようとしたその時、無情にも茜の次の言葉を掻き消すように船内放送が流れた。

「エンジン停止。全乗組員は後甲板に集合。繰り返す…。」


 翌日早朝。

「よーし、オーライ、オーライ。もう少し右。」

 後甲板では潜水艇を海面に下ろす作業が始っていた。船の底が両側に開き、潜水艇は後甲板の上に渡された鉄製のトラスから直接海中に吊り下げられる仕組みになっている。

2人は言いようもない胸の高まりを覚えながらその作業を見守っていた。小型深海潜水艇「くろしお」は全長約5メートル、ずんぐりした卵型の船体には丸い小窓が4つと移動用の小さいスクリューが前後左右に1つずつ付いていた。側面には「くろしお」という文字が描かれ、赤い日の丸が鮮やかに輝いて見えた。2本の太いケーブルに支えられた潜水艇はゆっくりと左右に揺れながら、徐々に下ろされてゆく。

「今回の調査では全部で八回の潜水が予定されています。津山さんのチームには1回目と5回目にスケジュールを入れておきましたから。」

 洋一と同期入庁の山口主任が笑顔で2人に近付いてきた。山口裕、二十九歳、現在気象庁地震観測局の主任の地位にあった。海底の地殻変動の調査のため、半年に一度はこの潜水艇に乗り込んでいるこの道の大ベテランである。洋一と茜は公式ルートを通さずに、山口主任を通じて非公式に深海潜水艇への乗り組みを依頼していた。

「潜水艇の定員は4人、お2人の他に操舵手と助手が1人乗り込みます。潜水艇は1分間に約10メートルの速さで降下します。千メートルを降下するのに約2時間かかります。上昇するときも同じです。ゆっくりと時間を掛けて減圧しながら浮上します。一気に浮上しますと潜水病になったり、最悪の場合は命にかかわることもありますから。」

 命にかかわると聞いて、2人は思わずゾクリとした。千メートルもの深海まで潜るのである。危険のないはずがない。万一海底で何かが起こっても、2時間は戻って来れないのである。2人の表情が険しくなったのを見てか、山口主任は笑って説明を続ける。

「あっはは、ゴメンナサイ。でも心配しないで下さい。この潜水艇は最大三千メートルまで潜れるように設計されています。艇内のタンクには八時間分の酸素と、それに万一の場合に備えて3時間分の予備タンクが備えられています。仮に海底で何か起こっても余裕を持って帰還出来るようになっています。潜水艇の操作はここにいる操舵手にお任せください。もう200回以上潜っているベテランです。それに潜水艇は海上からも遠隔操作が出来るようになっています。」

 山口主任が話している間にも、くろしおの船体は上部のハッチの部分を残してスッポリと海の中に消えた。

「では用意が出来ましたので、どうぞ。」

 操舵手が先に立って2人を先導する。2人は恐る恐るステップに第一歩を乗せると、ゆらゆらと揺れる潜水艇の天井部に移った。ハッチは直径五十センチ程の円形で、人1人がやっと通れる大きさであった。深海での強烈な水圧に耐えるためには入口は小さい方がよい。そう分かってはいても、やはりこの閉ざされた密室に入っていくのは鬱陶しいものである。2人はかわるがわる大きく深呼吸し、最後の空気を胸の奥底まで入れ込むと、ゆっくりと梯子を艇内へと下りていった。

 潜水艇の内部は外から見るよりもさらに狭かった。3畳ほどの広さの中は大人4人が入ると一層狭くなる。潜水艇の前方部分には丸い小窓が2つ、それに両側面にも1つずつ、計4つの窓があった。窓は丁度海水面下の高さにあり、海面が揺れる度に太陽光が散乱されてキラキラと輝いて見えた。

「どうぞ、適当にお座り下さい。」

 操舵手は2人に声を掛けると、自らはさっさと操縦席に座り込んだ。操縦席の前には様々な計器類が並び、赤や緑のランプが点滅している。これらの1つ1つが、潜水艇の状況を逐一知らせてくれる命綱である。2人は、訳が分からないまでも、好奇心の塊となって操舵手の一挙一動を注視していた。程なく、助手が乗り込んできた。

「今回お2人の調査をお手伝いさせて頂きます中井と申します。宜しくお願いします。」

 中井助手はペコリと頭を下げた。見るからに律義そうな青年である。

「い、いえ、こちらこそ宜しくお願いします。」

 2人は緊張した面持ちで中井助手に挨拶した。この人がこれから数時間の間、この密室で自分たちの調査のサポートをしてくれる。良くも悪くも、同じ船に乗り合わせた同士、まさに運命を共にするパートナーである。中井助手が乗り込むとすぐにハッチが閉じられた。先程まで艇内に流れ込んでいた外気はピタッと遮られ、外の喧騒も完全にシャットアウトされた。いよいよ出発である。

「空気圧正常、排水装置異常なし、通信感度良好。」

 次々と計器を点検する操舵手の声が艇内に響く。

「潜行開始、では良い旅を。」

 インターホンから山口主任の声が聞こえた。ガクンという軽い振動とともに潜水艇は水面下へと降下した。コポコポという気泡の音が聞こえたかと思うと、すぐにその音はコーンコーンというソナー音に切り替わった。2人は、ゆっくりと潜行していく潜水艇の小窓から海中の様子を覗き見た。時折、目の前を魚の群れが通り過ぎて行く。キラキラと白く光るその一団を見ながら、2人は躍動する生命の息吹を感じずにはいられなかった。

「海底に着くまで2時間ほど掛かります。その間にアームの使い方でもご説明しましょう。」

 中井助手は2人をアームの操作パネルの方に促した。

「操作は簡単です。アームを伸ばす時はレバーを前に倒し、縮める時は手前に倒します。あと、レバーに付いているボタンを押せば向きを変えることが出来ます。上向きにしたい時は上方向のボタン、左向きにしたい時は左方向のボタンです。アームの状況は、このモニター画面に映し出されますので、それを見ながら操作します。テレビゲームよりはずっと簡単ですよ。」

 中井助手はそう言いながら、アームの操作の仕方を実演して見せた。なるほどこれであれば素人でも操作出来るかもしれない。2人は少しホッとしながら、中井助手の説明に真剣に聞き入っていた。

「あと、サンプルを採取する時は少し難しくなります。アーム伝いにスロットを打ち出して引き上げるのですが、打ち出す角度や強さを間違えるとうまく行きません。最初は私がお手伝いしますので。」

 中井助手がそこまで説明した時、艇内に操舵手の大きな声が響き渡った。

「深度300フィート、異常なし。」

 もう水面下300フィートも下がってきた。いつしか小窓の外は黄昏時のような淡い光に包まれていた。この深さまで来ると、もう太陽の光はほとんど届かない。これから先は巨大な漆黒の闇が待つばかりである。その闇の底へと潜水艇はまだまだ何千フィートも下っていくのである。夕闇の訪れとともに、心なしか艇内の温度も下がったように感じられ、洋一と茜は思わず身を縮めた。コーンコーンというソナー音だけが、静かな艇内に殊更大きく響く。そんな重苦しい沈黙を破ったのは、茜だった。

「マリンスノーだわ。」

 マリンスノー、海中の微生物の死骸である。何も無いように見える海水の中にも、無数の目にみえないバクテリアやプランクトンが棲みついている。それらの微生物が死ぬと、深い深淵に向って海の中を何日もかけて沈降していく。そんな微生物の死骸に光が当たると微かに白く見える。その様が、まるで冬の夜に津々と降り積もる粉雪のように見えることから、この名が付いた。

「マリンスノーを見るのは大学院の実習の時以来、ホント久しぶり。きれいだわねー。」

 茜は、一時の海の中の芸術を楽しむかのように呟いた。洋一も初めて見る不思議な現象に感動を覚えながら、茜とともに小窓の外を見やっていた。

 その間にも、潜水艇はどんどんと深度を下げていく。周囲は完全に真っ暗となり、潜水艇から発せられるサーチライトの届く範囲だけしか見えなくなった。深海の世界は殊のほか暗い。地上であれば、どんな山奥でも1つや2つは明かりが見える。例え人家がなくても、見上げれば空には星が瞬いている。しかし、ここにはそれすらない。壁1つ隔てた外にあるのは、完全な闇の世界と何百気圧という海の水だけである。この地球上にも、未だこのように人知れぬ世界がある。それ自体が不思議でもあり、不気味でもあった。

 その時である。

「キャーッ。」

 茜の絶叫が艇内に響き渡った。一体何が起きたのか。ギョッとして他の3人が茜の方を振り返ったその時、小窓の外をゆっくりと巨大な魚体が過ぎていくのが見えた。アクアノプロテウス、いつか下田の漁港で見たあの不気味な深海魚、それも生きた実物がほんの数十センチしか離れていない目と鼻の先を通り過ぎていった。まるで侵入してくる者を威圧するかのように、長い尾ひれをくねらせながらゆったりと闇の中に消えていった。

「深度3650、間もなく海底です。」

 潜行を始めて約2時間、潜水艇は深海底に近付いた。程なくゴクンという軽い振動とともに、エレベーターが停止するように潜水艇の沈降が止まった。窓の外にもうもうと白い泥煙が上がった。パウダーのように細かい海底の汚泥がゆっくりと時間をかけて沈降すると、窓から深海底の様子が姿を現した。一面真っ白な泥の平原がどこまでも続く。まさに死の暗闇が果てしなく続いていた。

 しかし、よく観察すると、この死の世界にも生き物がいた。泥の平原の上をごそごそと這いずり回っているその生き物の姿形はエビのようにも見える。外の世界は1000気圧、光さえ届かないこんな過酷な環境の中にも生物がいることすら不思議であった。

「オクトノオイローパ、原始的なエビの一種ね。世界でもこの海域にしか棲んでいないと言われている。光が届かないので、色素がなくなり体は透けて見えている。目も退化してしまっているわ。」

 流石に海洋生物学者である。自信たっぷりに説明する茜の講義を、洋一と中井助手は感心しながら聞き入っていた。茜がさらに講義を続けようとしたその時、操舵手が話を遮った。海底での作業時間は約2時間、今は1分1秒を惜しむべきである。3人は、すぐさま作業に移った。

 中井助手に言われたとおり、2人はアームを伸ばして海底の泥の採取を始めた。説明を受けた時は簡単そうに思えた操作も、いざ実演するとなると難しい。洋一と茜はかわるがわるアームを操作するが、モニター画面を通しての操作は思うようにはゆかない。レバーの動かし方が悪いのか、アームはなかなか海底の方向に伸びてゆかない。見かねた中井助手がサポートを申し出た。中井助手がレバーを握ると30秒も経たないうちにアームは所定の角度にセットされた。中井助手は得意気に笑って見せると、2人に声を掛けた。

「はい、じゃあこの当たりでいいですか。ではスロットを打ち出しますよ。」

 中井助手がスロットの発射ボタンを押そうとしたその瞬間、異変は起きた。潜水艇の下部からドスンという鈍い音が響いたかと思うと、潜水艇全体がグラリと大きく振動した。

「何だ、今の音は。」

 中井助手の甲高い声が艇内に響く。一瞬にして緊張が2人にも伝わる。次の瞬間、今度は操舵手が叫んだ。

「左舷より浸水、エアーリーキング。繰り返す、左舷より浸水、エアーリーキング。」

 その声と同時に潜水艇の駆体が大きく傾き、乗っていた全員がどっと床に投げ出された。コポコポコポという音とともに傾きはどんどん大きくなっていく。全員が床をずり落ちるように、折り重なって壁際に倒れ込んだ。全面の小窓を通して見えていた海底の泥がふっと消え、代わってもうもうと舞い上がる白い霧に包まれた。

「姿勢制御、姿勢制御。緊急事態発生、緊急事態発生」

 操舵手の絶叫が続く中、ズーンという音とともに潜水艇は完全に横倒しとなり、洋一と茜は肩と腰の辺りを激しく壁に打ち付けた。次の瞬間、明かりがふっと消え、艇内は真っ暗闇に包まれた。

「茜、大丈夫か。」

 洋一は手探りで茜の体を探り当てた。

「私は大丈夫。それより一体何があったの。」

 茜は打ち付けた肩を擦りながら上体を起こした。中は真っ暗でお互いの顔すら見えない。2人は死を覚悟した。ここは海の底3000メートル、海上とは隔絶された閉ざされた空間である。このような場所で事故など起きたら一たまりもない。暗闇の中で、2人の頭の中には、二度と青い空を見ることが出来ないのではという思いが過ぎった。

「うーむ。」

 その時、鈍い呻き声とともに、もう1人が上体を起こした。声の様子からどうやら中井助手のようである。

「だ、大丈夫ですか。」

 洋一が尋ねる。

「ええ、どうやら。」

 中井助手は力ない声で返事をした。2人は中井助手が無事だったことで、とりあえず大きな安堵の嘆息を洩らした。洋一は手探りで中井助手が起き上がるのを助けながら声を掛けた。

「一体何があったんです。」

「いえ、私にもよくは。こんなことは初めてです。」

 中井助手は大きく息をついて、座り込んだ。一頻り呼吸を整えていた中井助手は、ようやく我に返ったかのように呟いた。

「とにかく、補助電源を入れなければ。」

 中井助手は4つん這いのまま、操舵席の方に進んだ。停電のため操舵席のモニターも真っ暗になり、そこにいるはずの操舵手の姿も見当たらなかった。唯一、補助電源のスイッチを示す赤ランプの表示だけが、暗闇の中で異様に明るく輝いていた。中井助手がボタンを押すと、モニターパネルが点滅し、室内に仄かな明かりが戻ってきた。

「良かった、補助電源はやられていなかった。」

 中井助手はほっと安堵の声を洩らした、が次の瞬間。

「キャーッ。」

 茜の叫び声が響いた。ギョッとして、洋一が目をやったその先に操舵手の体が横たわっていた。

「村本さん、村本さん。大丈夫ですか。」

 中井助手が操舵手を揺り動かそうとするが、ピクリとも動かない。腕に力を入れて上体を回転させたその瞬間、一筋の赤い血が潜水艇の床にツーッと流れた。どうやら先程の衝撃で頭を打ったらしい。中井助手がいくら呼んでも意識が戻る様子はない。ほっとしたのも束の間、艇内に新たな緊張が走った。その時である。

「こちら司令室、こちら司令室、どうかしましたか。レポート願います。レポート願います。」

 インターホンを通じて山口主任の声が聞こえた。この時、洋一は潜水前の山口主任の話を思い出した。確か潜水艇の状態は海上の母船からもモニター出来ると言っていた。恐らく海上の方でも何か異常をキャッチしたのに違いない。中井助手は操舵席のマイクを握り現状報告を行う。

「よくはわかりません。でも潜水艇の左舷に浸水、今船体は横倒しになっています。それと操舵手の村本さんが負傷、意識がありません。」

「よーし、了解。緊急浮上する。後は当方に任せてくれ。」

 再び山口主任の声がインターホンから聞こえた。艇内の一同はほっとした。操舵手がいなくても遠隔操作で潜水艇は浮上させることが出来る。後は山口主任に任せておけば、2時間後には海の上である。3人はようやく気を取り直して、操舵手の応急手当に当たった。茜は艇内に備えられていた救急キットから包帯を取り出すと操舵手の頭にしっかりと巻いて止血した。脳内の出血がどの程度あるか分からないため体を大きく動かすのは危険である。手当ては慎重に進められた。

 その時、再びインターホンが鳴り響いた。

「悪い知らせだ。」

 山口主任の重苦しい声が聞こえた。悪い知らせとはどういうことだろうか。安堵の色が広がっていた艇内に再び冷たい空気が流れた。

「潜水艇の状態をチェックした。左舷に大きな亀裂が入って、そこからエアーリークが起きたらしい。原因がよくわからない。酸素残量は約20パーセント、あと1時間分ほどしか残っていない。」

 全員が絶句した。海上までは2時間の道程である。それなのに1時間分の酸素しかないとは一体どういうことだ。

「補助タンクは?」

 中井主任が聞き返した。洋一と茜は山口主任の説明を思い出した。万一に備えて補助タンク内に3時間分の酸素が入っている。これを使えば余裕で帰還できるのではなかったか。

「その補助タンクもやられた。横倒しになった時に供給管が折れたようだ。」

 茫然自失。何という失態か。万一の時に備えるはずの補助タンクが、バックアップにならなかった。3人の耳に再び絶望の囁きが聞こえ始めた。

「何といっていいか。とにかくすぐに引き上げます。諦めないで下さい、絶対に助けますから。」

 山口主任は少し上ずったような声で話し掛けるが、3人の耳にはもう何も届かなかった。海上まで2時間掛かるというのに、1時間分の酸素しかない。小学生の子供でも結果は計算できた。暗い海の底で息が詰まって死ぬのは一体どんな心持ちだろう。じわじわと苦しい思いをするくらいなら、いっそのこと今ここで手首でも切って…、洋一がそう思いかけたその時、山口主任の説明の声が聞こえた。

「1時間で引き上げます。減圧時間を短縮しながら引き上げるので体に異常が起きるかもしれません。しかし、今考えられるのはそれしかありません。とにかく動かないで。動くと酸素の消費量が増えますから。しゃべるのも止めて下さい。いいですか。」

 その声と同時に、ガクンという振動が潜水艇に伝わった。どうやら引上げ作業が始まったらしい。横倒しになっていた潜水艇はゆっくりと持ち上り、今まで床になっていた左舷の壁が元の位置に、そして床が元の床の位置に戻った。3人は操舵手の体を抱きかかえるようにして床の上に静かに横たえると、夫々も壁に背をもたせかけた。

「深度3500。」

 コンピーター音声による深度の読み上げが始まった。3人は互いに顔を見合わせたままじっと息を殺して安静にした。動くと酸素消費量が増えるという山口主任の説明を思い出し、茜は思わず息を止めた。息を止めている間は少なくとも酸素は消費されないであろう。文字どおり息の詰まるような瞬間が1秒また1秒と過ぎていく。

「深度3000。」

 確かに早い。沈んだ時の倍のスピードで浮上が続いていた。水圧計もどんどん目盛りを下げていく。3人はしだいに手の平がしっとりと濡れていくのを感じた。その時。

「あっ。」

 茜が小声を上げた。茜の手の甲に一滴の赤い液体がポタリと落ちた。続いてまた一滴。その液体は間違いなく茜の鼻孔から落ちてきた。減圧の影響がもう出始めたようである。減圧スピードが早すぎると人の体内圧がその変化についていけず、体のあちらこちらに異常を来たす。鼻の粘膜に無数に巡らされた毛細血管の一部が破れたのは、そうした異常の序章に過ぎない。このまま浮上を続ければ、体中の至る所の毛細血管が破れ非常に危険な状態になる。

「司令室、司令室。こちらしんかい。鼻血が出ました。少しスピードを落とせますか。繰り返します。鼻血が出ました。」

 中井助手がマイクに向って叫ぶ。しかし、その質問に対してはすぐに答えがなかった。代わりにインターホンを通してザワザワという議論の声が返ってきた。その間にも、浮上は同じペースで続いていく。やがて洋一の鼻孔からも赤いものが滴りはじめた。頭がのぼせたような感覚が走り、軽いぬまいが襲ってきた。

「こちら司令室。浮上スピードを30パーセント落とします。浮上スピートを30パーセント落とします。」

 インターホンから新たな指示が来た。3人はやれやれといった風に胸を撫で下ろした。しかし、それも束の間、新たな試練の伝令が入った。

「安全のため浮上スピードを30パーセント落としました。これにより、浮上までの時間が20分ほど長くなりますが、これがギリギリです。」

 山口主任は済まなさそうに説明を続ける。先程返事に時間を要したのは恐らくこの計算をしていたためであろう。浮上スピードを落とせば酸素がもたない、酸素をもたせようとすると減圧のスピードを上げるしかない。大きなジレンマであった。どちらの道を選んでも行き着く先は同じである。海上とはほんの数百メートルの距離である。その距離がこれほど遠く感じられのは、潜水艇の上に覆い被さる何千トンという海水の所為であった。人間という生き物の何と情けないことか。茜は深海魚になって壁の外に泳ぎ出したいという気持ちになった。

「深度1500。」

 コンピューター音声が冷たく艇内に響く。ようやく半分少しまで上がってきた。浮上スピードを落としたお陰であろう、先程までダラダラと垂れていた鼻血が止まり、ズキズキとした頭の痛みも消えた。しかし、そのことは何の問題の解決にもなっていなかった。この付けは必ず最後の10分に襲ってくる。結局、生き長らえる時間が少し延びただけではないのか。ここを生き抜いても、最後には酸欠という生き地獄が待っている。3人はわずかに残った酸素の味を確認するかのように大きく深呼吸した。その時、コンピューターのビープ音がけたたましく鳴り始めた。

「酸素残量2パーセント。後10分で酸素が切れます。酸素残量2パーセント。後10分で酸素が切れます。」

 中井助手は、洋一と茜の顔をゆっくりと見回すと、そっとビープ音をオフにした。計算違いはなかった。海上まではどんなに早くても後30分はかかる。逆立ちしても酸素はもたない。後はもう運を天に任せるしかない。

「深度1000。」

 わずか1000フィート。歩けば5分もかからない距離である。この距離がこんなに恨めしく思えたことはない。3人は迫り来る死の恐怖にじっと身構えた。意識のない操舵手だけが何の遠慮もなく、ゴーゴーというイビキ音を立てて酸素を胸一杯に吸い込んでいた。この1人がいなければ酸素は何分延びるだろうか。3人は操舵手の口と鼻に目をやって、思わず顔を見合わせた。その時。

「警告、酸素残量ゼロ。警告、酸素残量ゼロ。」

 ついに酸素が切れた。後はこの密室内に残っているわずかの酸素だけである。一体あと何分もつのか。そして海上までは後何分か。3人は息を殺してこの時間との競争の結末を待った。小窓の外の暗闇の色が微かに変わったように思えた。窓の外をマリンスノーが上から下へと猛スピードで流れていく。酸素濃度が下がってきているはずだが、不思議と息苦しさは感じない。それどころか体全体がフワフワして奇妙なほど温かく感じる。酸素の不足により意識レベルが低下し始めたようであった。

「深度500。」

 コンピューターは確かにそう言った。しかし意識が朦朧としてその意味を考えることすら出来ない。洋一はそっと茜の手を握り締め、空ろな目で小窓の外を見やった。外はいつしか黄昏色に変わっていた。黒から深い濃紺に、そしてその間を縫うように淡い光が差し込んでくる。ついにお迎えが来た。洋一は全身が温かい光に包まれていくのを感じた。


「おーい、しっかりしろ。」

 洋一と茜は、遠くで呼ぶ声に揺り動かされた。体がフワフワと揺れて何とも心地よい。ついにあの世とやらに着いたかと思ったその時、強烈な光が目に入ってきた。大きく開いたハッチから流れ込んでくる潮風が頬を打つ。助かったのである。洋一はようやく正気に返って、茜を揺り動かした。隣で中井助手もゆっくりと上体を起こした。どうやら全員無事に帰還したようである。フワフワとした感触は、海に浮かんだ潜水艇の揺れだったのである。

「危なかった。後5分遅かったら低酸素脳症で良くて植物状態になるところだった。」

 梯子を下ってきた白衣姿の医師が起き上がろうとする2人に手を貸した。洋一はボンヤリした意識の中で、最後に覚えていた記憶を呼び覚ました。

「そう言えば、村本さん、操舵手の村本さんが。」

「大丈夫です、命には別状なさそうです。間もなく海上保安庁のヘリで八丈島の病院へ搬送します。」

 医師が操舵手の怪我の具合を説明すると、2人はようやくやれやれという表情になって梯子に手を掛けた。2人はゆっくりとハッチの外に出ると胸一杯に大海原の空気を吸い込んだ。何もない大海原がこれほどありがたく、そして温かく感じた瞬間はなかった。暗く冷たいトンネルを長い時間を掛けて潜り抜け、今生まれ変わったような気持ちになった。ハッチの外では、当惑した表情の山口主任が済まなさそうに2人を出迎えた。

「一体何があったんです。」

 洋一はまだ少しクラクラする頭に右手を当てながら、山口主任に尋ねた。

「それは船体を調べてみないと何とも。でも私も長いこと潜水調査をやっていますが、こんなことは初めてです。全くお2人は運が悪かったというか、それとも運が良かったというべきか。」

 2人がそんな話をしている間にも、ウインチの回る音がして、潜水艇の駆体はゆっくりと後甲板上に吊り上げられた。


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