第3話 野望

 2週間後、洋一のデスクに課長が血相を変えて駆け寄ってきた。

「津山君、大変だ。局長がお呼びだ。」

「何かあったんですか。」

「俺にもわからん。大至急局長室に来てくれとのことだ。」

 洋一は驚いた。局長が一担当者を直々に呼び付けるということは、厳然たる階級社会の残る役所では異例であった。訳の分からぬまま、2人は廊下を局長室へと急ぐ。

「お前、また何かやらかしたのか。」

 課長の顔に不安の色が走る。洋一は無言のまま課長に付き従った。局長室は気象庁の七階にあった。緊張の面持ちで課長が先に部屋に入る。洋一もその後に続いた。

「いやー、津山君。この前は済まなかったね。失礼なことを言ってしまって。」

 洋一が部屋に入るなり、局長は妙にへりくだった調子で切り出した。

「実は、君のあの話、ほら氷河期が来るっていう、あれ、畠山総理が是非聞きたいとおっしゃってね。いやー、大変なことになったよ。」

 局長は興奮した声で話す。いよいよ来るものが来たと、洋一は直感した。駐米大使に続いて今度は総理である。明らかに政治の臭いが漂い始めた。総理は一体どういう意図でこの話を聞きたいというのであろうか。まさか、例のCIAの極秘レポートが既に日本政府の手元にも入ったのであろうか。駐米大使が緊急帰国したというのもその辺りのことがあったからかも知れない。洋一の脳裏に葛城桂子の顔が浮んだ。

「津山君、よくやった。いや、私は最初から彼のレポートは高く評価しておりまして。」

 黙っている洋一を差し置いて、課長が半歩前に進み出た。

「君は黙っていたまえ。とにかくこんなことは気象庁始って以来、前代未聞だ。とにかく粗相のないように10分に事前準備をしてくれたまえ。時間は明後日の午前10時、いいね。」

 局長は誇らしげに言った。気象庁の人間が総理官邸に足を運ぶなど滅多にないことであった。恐らく東海大地震の予報が出された時くらいであろう。しかも名もない一研究員が総理に直々にプレゼンをするなど通常では考えられない。

「いやー、津山君、本当に済まなかったね。俺は嬉しいよ。君のような優秀な部下を持って。とにかく全力で頑張りたまえ。」

 局長室を後にした課長は、エレベーターに乗り込みながら猫撫で声で洋一に話し掛けた。洋一はそんな課長を無視するかのように閉扉ボタンを押した。傍らでほくそえむ課長とは正反対に洋一の心は冴えなかった。この前の駐米大使といい、今回の一件といい、桂子が自分の前に現れて以来、事態は自らの意思とはかけ離れたところへとドンドン進んでいくような気がした。それにロンドンで見たあの極秘レポートのこともあった。どんな話が飛び出すか全く予測がつかなかった。


「そう、すごいわね。今度は総理。総理が直々に話をというのはきっと余程のことね。」

 電話の向こうの茜の声は明らかに上ずっていた。

「どうだか。この前のこともある、面倒なことにならなきゃいいんだけど。ところで君の方はどうなの。幻のバクテリアの件。何か分かりそうなの。」

「今、いろいろな文献を当っているところなんだけど、なかなか手掛かりになりそうなものは出て来ないわ。そんな簡単に見つかるものだったら、とっくの昔に誰かが見つけてるわよね。」

 茜は受話器に向って深いため息をついた。それもそのはずである。何人もの世界中の著名な生物学者が長年追い求めてきた幻のバクテリアである。一介の若手研究員の手におえるような代物ではなかった。この先一生探し続けても見つからないかもしれないのである。

「まあ、焦っても仕方ないよ。温暖化の問題も今日明日を争うものでもないし。たまには気分転換した方がいい。どう、今夜当たり久しぶりに食事でも。奢るよ。」

 洋一は茜を夕食に誘った。そう言えば、ロンドンから帰って来て後、お互い忙しくてしばらくゆっくりと話しもしていなかった。あまり根を詰めてもいい発想は浮びそうになかった。


 夕方6時半、洋一は気象庁1階のホールで茜を待った。

「あーら、津山さん。誰かをお待ちになってらっしゃるの。」

 洋一がその声にふと振り返ると、そこには桂子の姿があった。

「ええ、まあ。」

 洋一はチラリと時計に目をやりながら、曖昧な返事をした。

「津山さん、総理に呼び出されたんですってね。」

 桂子はそっと耳打ちした。

「ど、どうしてそれを。」

「庁内で噂になってるわ。一研究職の人が総理に直々に面談なんて、まずありえないですもの。でも気を付けた方がいいかもね。アメリカが京都議定書に調印しなかったことで、日本国内でも大騒ぎ。日本はどっちに付くんだってね。」

 桂子は平然と答えた。洋一は直感的に桂子が何かを隠していると思った。知っていて、わざと洋一に近づき、そして駐米大使とのアポまでセットした。ロンドン大学で見たあの極秘レポートは恐らくもう日本政府の手にも渡ったのであろう。だとすれば総理が自分を呼び出した理由も説明が付く。でもどうして桂子はわざわざ洋一に警告めいたことを言うのであろう。親切心、それとももっと他の意図があるのか。洋一は何と答えていいのか言葉に窮した。その時。

「ゴメンナサイ、待ったー?」

 茜がエントランスのドアを開けて入って来た。ベージュのコートに身を包んだ茜は、仕事の持ち帰りであろうか、A4大の封筒を小脇に抱えていた。

「あーら、そういうことでしたの。これはとんだお邪魔虫でしたこと。」

 桂子は茜の姿を上から下へと嘗め回すように睨み付けると不遜な笑みを浮かべた。

「また、あなたね。一体何が目的で先輩に近付くの。」

 茜は洋一の前に立って威嚇した。

「別に他意はないわ。津山さんが総理にプレゼンされるって聞いたので、ちょっと励まして差し上げただけ。それじゃあ。」

 桂子は横目で茜を制しながら軽く洋一に向って頭を下げると、スカートの裾を翻すようにエレベーターの中へと消えて行った。

「何よ、あの態度。外務省のキャリアか何か知らないけど、気取っちゃって。」

 茜は、あかんべー面で桂子の後姿に刺すような視線を送った。茜は桂子のことになると殊更にむきになった。まったく女の嫉妬心にはかなわないと思いつつも、そんな茜の姿を見つめる洋一の心のうちは満更でもなかった。

「今夜は寿司でいいかな。築地の近くのいい店を知ってるんだ。」

 洋一は素早く話題を変えた。

「ええ、何でも。」

 場所については元より洋一に任せるつもりであったが、茜は内心嬉しかった。仕事柄、海の幸には縁が深かったが、このところ仕事優先で「食」の方からはすっかり遠ざかっていたからである。本当に久しぶりの寿司屋であった。

 2人は築地駅で下りると、表通りを回り込みやや人通りの少ない静かな裏通りへと入った。洋一は茜を先導してその通りを進むと、やがて「寿司政」という暖簾の上がった小ぢんまりとした店に入った。

「へい、らっしゃーい。」

 威勢のいい声が店内に響く。2人はコートを脱ぐと、カウンターのやや奥まった場所の席に着いた。ここならゆっくりと話もできる。目の前のガラスケースの中には今朝築地の市場から仕入れたばかりの新鮮なネタが並んでいる。ほどなく、箸と湯呑みが並べられた。2人は冷たくなった両手を湯呑みに当てて暖を取りながら、ネタ探しを始めた。

「何しやしょう。」

「じゃあ、最初はマグロから。」

「へい、マグロ一丁。」

 またもや威勢のいい声が響き渡る。

「お寿司屋さんって、いつ来てもいいわね。」

 茜は嬉しそうにガラスケースの中を覗き込みながらネタの選定に熱中した。タコ、イカ、マグロから、ウニ、イクラ、アワビに至るまで新鮮な海の幸が所狭しとばかり、ケースの中に並んでいた。

「さっきは何の話だったの。」

 茜はケースの中を覗き込みながら、洋一に尋ねた。

「さっきって?。」

「あの人よ。葛城桂子さんっていったかしら。」

「ああ、今度の総理との面談、気を付けた方がいいって。警告かな。」

「よく言うわね、自分が仕掛人のくせに。」

 洋一は苦笑した。茜はどうして桂子のこととなるとこうもムキになるのであろう。女というものは本当に嫉妬深いと思わずにはいられなかった。しかし、茜の勘は当っているのかもしれない。確かにあの葛城桂子という女は底知れぬところがあった。少し距離を置いた方がいいというのは同感であった。

 イクラ、ハマチ、赤貝…、次々と注文は続く。2人は久しぶりに仕事のことを忘れ、食事と会話を楽しんだ。

「もうお腹一杯、そろそろ終わりにしましょうよ。」

「そうだね。じゃあ最後に穴子で締めくくり。スミマセン、穴子お願いします。」

 洋一は大きな声で注文を出した。

「スイヤセン、穴子切らしてましてね。このところ活きのいい穴子が入らないもんで。」

 板前は済まなさそうに謝罪した。

「珍しいですね。穴子を切らすなんて。一体どうしたって言うんです。」

「ええ、このところ穴子の水揚げが落ちているらしくて。漁協の話じゃ、何でも海ナマズの仕業じゃないかって。」

「海ナマズ?」

 聞き慣れない言葉に、洋一は思わず聞き返した。

「ええ、あっしもよくは知らねえんですが、何でも深海魚の一種らしくて。普段は深い海の底にいて滅多に人の目に触れることはねえらしいんですが、こいつが最近よく網にかかるらしいんですよ。穴子が好物らしくて、人間様のお口に入る前に、こいつがパクリっていうところですかね。こちとら大弱りでさあ。」

 板前は本当に困ったという表情で説明してみせた。

「へえー、そうですか。」

 洋一は何とはなしに板前の話を聞いていたが、茜のこめかみがピクリと動いた。

「それって、どんな魚ですか。」

「いえ、あっしも直に見たこともないんで。でも漁師の話じゃ、体長は二メートルくらいあるヘビみたいなヤツで、穴子なんか軽く一呑みしちまうらしい。こいつは固くて、煮ても焼いてもとても食えたものじゃないって。網にかかれば他の雑魚どもと一緒につぶして肥料工場行きだそうでさあ。」

 板前の話にじっと聞き入っていた茜は、やがて思い出したように呟いた。

「それって、アクアノプロテウスかもしれない。」

「アクアノプロ…?」

 洋一は思わず聞き返した。

「そう深海魚の一種ね。普段は千メートル以上の深海に棲んでいて、まず人の目に触れることはない。肉食性で、ノコギリのような歯で自分と同じくらいの大きさの魚でもバリバリと噛み砕いて食べてしまう。」

 洋一は目を丸くして茜の話を聞いていた。そんな化け物みたいな魚がなぜ漁師の網にかかったりするのか。茜はさらに話を続ける。

「多分海水温のせいね。ほら深層海水の温度が下がってるでしょう。海水温の変化で深海の食物連鎖が変わり始めているのかもしれない。エサが足りなくて、水温の高い層まで浮んで来たのよ。穴子はきっとその犠牲になったのね。」

「へえー、お客さん、詳しいんでやんすね。」

 板前は一頻り感心したように、握る手を止めて茜の話に聞き入っていた。そんな板前に茜は質問した。

「それで、そのアクアノ、いえ海ナマズなんですが、どこで取れるのかしら。」

「南の方ならどこでも。この近くじゃ、そう下田あたりかねえ。」

 板前は再び忙しそうに手を動かし始めた。

「おあいそ、お願いしまーす。」

 2人は、結局腹八分目のまま店を出た。

「あんなこと聞いて、どうするつもり?」

 店を出ると、洋一は茜に尋ねた。

「一度下田に行かなきゃ。あの板さんの言ってたことをこの目で確かめるのよ。」

 茜は快活な調子で答えた。茜の胸のうちには何か期するものがあるようだった。


 2日後。洋一と気象庁長官それに地球気候局局長の3人は総理官邸に向う車の中にいた。

「津山君、今日は頼むよ。何しろこんなことは前代未聞だ。何を聞かれるかも聞かされていない。もちろん想定問答もなしだ。」

 長官の緊張した声が後部座席に響く。助手席に座っていた洋一からはその表情を窺い知ることは出来なかったが、声の調子から長官の緊張が洋一にも伝わった。

 車はやがて総理官邸のゲートをパスすると、車寄せに横付けされた。3人はゆっくりと車を降りると、エントランスに入る。迎えの人に先導され、3人は緋色の絨毯を踏みしめながら官邸の廊下を奥へと進んだ。

「ここでしばらくお待ちください。」

 3人は総理執務室に通ずる控え室で待つように指示された。控え室の窓からは先程入って来たメインゲートが見える。3人は、長官、局長、洋一の順に並んで座り呼び出しの時を待った。5分、10分と時が過ぎる。

「遅いな、一体いつまで待たせるんだ。」

 局長がイライラした様子で席を立ってドアのところへ進む。そしてドアノブに手を掛けようとしたその時、ガチャリとドアが開いた。

「ご用意が出来ました。こちらへどうぞ。」

 3人は秘書官の誘導で総理執務室へと進んだ。部屋の中は厚い絨毯が敷かれ、部屋の中央には恐らく総理のデスクであろう、黒光りのする巨大な机が置かれていた。そのデスクとは別に十人ほどが着席できる楕円形のテーブルが窓際に置かれていた。恐らく簡単なミーティング等に使われるのであろう。3人は指図されるがままに入口に近い席に順に並んで座った。さらに待つこと5分、ドアの開く音がして総理が小走りに入って来た。3人は一斉に起立する。

「いやー、お待たせ、お待たせ。」

 総理は片手を上げながら、快活な笑顔で3人を迎えた。畠山茂、内閣総理大臣である。洋一にとって直に総理の顔を見るのは無論初めてであった。テレビで見るよりは意外と小柄で、その素顔はとても一国の主とは思えないような柔和な表情であった。続いて、村山外務大臣、田中環境大臣が入ってきた。いずれもテレビでお馴染みの顔であった。そして最後に、洋一がおやっと思う人物が入ってきた。防衛庁長官、佃一郎であった。なぜここに防衛庁長官が。洋一の背筋に一瞬嫌な予感が走った。

 総理は窓側の中央の席にどっかと着座する。続いて3人の大臣が次々と席を占めたのを確認して気象庁の3人も椅子に座り直した。

「早速だが、林駐米大使から話を聞いてね。面白い話をするやつが気象庁にいるって。それで、私も是非その話とやらを聞いてみたくなってね。」

 洋一はやはりと思った。出所はやはり駐米大使だった。大使は恐らく洋一と極秘に面談した後、総理に注進したのであろう。

 洋一は心の隅に桂子の警告が引っかかったが、そこは自分の専門分野である。駐米大使の時と同じように順序立てて、ヨーロッパに氷河期が訪れるメカニズムについて総理に説明した。一頻り頷きながら聞いていた総理は、洋一が話し終わったのを確認すると、徐に議論を切り出した。

「不思議なことがあるもんだ。地球温暖化が原因でヨーロッパに氷河期が来るとはな。環境大臣どう思うかね、この話。」

 総理は田中環境大臣の意見を求めた。

「はい、駐米大使の報告の通りかと。」

「そんなことは言われんでも分かっとる。それよりこれをどう解釈するかだ。」

 環境大臣の平凡な受け答えに少しムッとして、総理は自らに向って疑問を発した。

「仮にだ、仮にこの話が本当だとして、その場合、我が日本国は一体どうなるんだ。」

 洋一はどう答えていいものやら少し戸惑ったが、理論に忠実に予想されることをそのまま陳述した。

「仮に地球全体の平均気温が5度下がると仮定すれば、海水面の高さは50メートルから最大100メートルは下がると思われます。」

 地球の気温が下がると、海から蒸発した水は厚い雪と氷の層となり陸地に覆い被さる。この結果、海にたまった水の量が減って、海水面の高さが下がるのである。地球温暖化により海水面が上昇するのと全く反対のことが起きるのである。

「ふーん、それで。」

 総理は興味深そうにさらに洋一の意見を求める。

「海水面が下がりますと、我が国周辺の大陸棚のかなりの部分が干上がると思われます。海岸線は大きく後退し、沖縄の近海、それに小笠原の近海には四国ぐらいの大きさの島が出現するでしょう。」

 この一言に総理は一瞬ポカンと口を開けたまま押し黙った。しばらくしてクックッと笑い始めた総理は、やがてカラカラと高笑いを始めた。

「おい、聞いたか。日本の領土が倍になるぞ。こんなに手っ取り早く領土を広げる方法があったとはな。戦前の帝国陸軍にも聞かせてやりたかったな。アッハハハ。」

 島国日本にとっては国土面積が広がることは悪いことではなかった。もはや東京湾を埋め立てて人工の島を作る必要もない。資源開発も思いのままである。仮に気温が低下することで北海道全体が厚い氷に覆われたとしても、それを補って余りある国土が南方の海上に出現するのである。海水面が下がって誰も損をすることはないように思えた。

「諸君、我々は今大いなる決断をする時に直面した。これは我が日本国の百年、いや千年の大計になるやもしれん。この局面において日本がどこへ進むべきか、君たちの英知を出し合ってもらいたい。」

 総理の1人演説を聞きながら洋一は震えが止まらなかった。この男は日本を道連れにするつもりだ。あのアメリカと同じ舟に日本を乗せる気なのだ。どの道アメリカとの間には安保条約がある。アメリカが世界中を敵に回すとしても、日本はどこまでも付いていくしかない。洋一は今ようやく防衛庁長官がこの席に呼ばれていた理由がわかった。気候変動がいよいよ領土拡大の野心に使われる日が来ようとしていた。居合わせた全員が押し黙る中、ただ1人総理だけがいつまでもカラカラと笑い続けていた。



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