第4話「衝突! 現実と非現実!」Cパート

 ツタの張り巡らされた外壁、割れたままの窓、表札のない郵便受けに、荒れ放題の庭。


「これはまた、いかにもな……」


 写真で見るよりも数倍あやしい外観に、僕はつい声を漏らした。「だろ?」と、グリーンが誇らしげに胸を張る。僕はシールドを上げ、眼鏡の位置を直してからもう一度見上げた。はっきりとした視界でも、あやしい空き家はあやしいままだ。


 その空き家は、町の川沿いにどんよりと建っていた。道路の反対側には河川敷が広がっているが、周囲には民家や古いビルが建ち並んでいるばかりで、人通りも多くない。大きな庭と広い間口には威圧感があり、敷地全体が近寄り難い雰囲気を放っている。攫った人間を隠してください、と言わんばかりの佇まいに、『フツージン』の面々はやや気圧されていた。


「確かに、町内会で問題になっとったのはここだ。すっかり忘れてたな」


 総司令が苦々しく言う。その隣に立つピンクは、黒ずんだ屋根を見上げてため息をついた。


「グリーンさん、すごいです。私もここのこと知ってたのに……」


 僕はピンクの横顔を見る。グリーンを称賛する柔らかい声には、いつものような勢いがなかった。グリーンはフン、と鼻を鳴らして答える。


「オレも聞いたの忘れてたけど、このへん捜してみたらすぐ見つかったよ。ここだけすげぇ寂れてたし」


「でもこれ、どうするんですか? 入って確かめるしかないんですかね」


 イエローが総司令を見る。総司令は「うむ」と難しい顔でその視線を受け、錆びた装飾つきの立派な玄関を指差した。


「突入するしかないだろうな。窓からも中は見えそうにない。だがなに、本当にここに佐藤くんがいるとは限らん。誘拐されたのかどうかもまだ分からんのだしな。落ち着いて冷静に、全員で一列になって入ろうじゃないか」


 総司令を先頭にして、僕、グリーン、イエロー、ピンク、ブルーの順に並ぶ。僕らは振り向き合い、覗き込み合って目配せしてから、庭の雑草を掻き分けて玄関に向かった。玄関扉のドアノブを掴むと、総司令は真剣な表情で振り返る。


「行くぞ」


 全員が頷きを返す。総司令は丸い肩を一度上げ下げして、ゆっくりとドアノブを回した。ガチャ、と古い金属の音がして、開いたドアの向こうから、埃っぽいにおいがこちらに流れ出る。


「お邪魔します!」「お、お邪魔します」「それ言う必要あんのかよ?」「っす」「おっ、お邪魔しまーす……!」「お邪魔、します……」


 順番にドアをくぐり、ひとりひとり靴を脱いでいく。玄関から続く廊下の幅は広く、不気味な空気に満ちていた。全員が廊下に上がったところで、総司令が一歩後ずさる。それに合わせて僕も後ずさると、グリーンのヘルメットに背中がぶつかった。


「おい、何下がってきてんだよ」


「ご、ごめん。どうしたんですか総司令」


「……がある」


 総司令が、いつになく潜めた声で言う。「え?」と訊き返すと、総司令はまた僕らを振り返った。シワの深くなったその表情には、さきほどとは違う深刻な歪みが加わっている。


「足跡がある」


 低く放たれた一言に、僕らの周りの空気が凍った。恐る恐る足元を見ると、埃の積もった床板に、僕のものでも総司令のものでもない足跡がくっきりと残っていた。スニーカーのゴム底のような、波の模様が刻まれている。


 爪先からさっと血の気が引いた。まだ新しく見える足跡から目を離せないでいると、


「総司令、後ろ!」


 イエローの声が飛んできた。僕はとっさに顔を上げる。振り返ろうとする総司令。その頭頂部めがけて銀色の物体が落下し――


 ――くわぁあん!


「んがッ!?」


 間の抜けた金属音、そして短い悲鳴と共に、総司令が視界から消えた。ハッと視線を下げると総司令は頭を押さえて仰向けに倒れていて、その隣には銀色のタライが転がっている。


 ――タライ落とし!?


 驚愕に目を剥く僕。背後から「総司令!」とピンクの叫び声が聞こえ、同時にグリーンが怯えた声をあげた。


「ちょっ、誰かいる!」


 総司令から目を上げて、今度は廊下の先を見る。天井の梁のすぐ下に、真っ黒な人影が佇んでいた。その影はくるりと僕らに背を向けて、一目散に走りだす。影のいた足元にはロープの先が丸まっており、もう一方の先は銀のタライに繋がっていた。


「逃げる気だ」


 そう呟くや否や、ブルーは駆け出した。男の消えた廊下の角へ、床板を軋ませ走っていく。続いてピンクも走りだし、僕も一瞬ためらってからあとを追う。イエローとグリーンの足音も背後に連なり、「おい待て焦るな!」という総司令の声が耳に届くが、勢いづいた僕らはもはや止まることができない。


 数メートル先を行くブルーとピンクの向こうで、黒い影は走り続けている。走りながらチラリとこちらを振り返り、またすぐに前を向いた。グリーンが僕とピンクとブルーを追い抜いて、「げっ」と潰れた声を出す。


「お前ら、なんでそんな遅いんだよ!」


「日頃の運動不足が……」


「というか、グリーンさんがすごく速いような……」


「大人ならもっと頑張れよ! オっオレ、先頭とか絶対いやだかんな!」


 語尾を震わせて速度を落とし、僕の背後まで後退するグリーン。「あぁ、ちょっと」「グリーンさん~ッ!」「うるせぇうるせぇ!」三人の声が廊下に響き、僕の後ろからは、イエローの荒い息が聞こえてくる。僕は鈍い足を必死に動かしながら、脳に不安が充満するのを感じている。


 あやしい空き家。倒された総司令。謎の人物。連絡のつかない佐藤。


 僕の乏しい推理力が、フィクションめいた光景を想像に描き出す。


 あの黒い影の行く先に、縄でぐるぐる巻きの佐藤が転がっている……。


 ガン!


 硬い音に鼓膜を叩かれ、僕は我に返った。廊下の脇に置かれたバケツを、影が蹴倒したらしい。バシャ、と液体がぶちまけられ、勢い余ったブルーがその水たまりに足を突っ込む。と、


「うわっ!」


 彼らしからぬ悲鳴をあげて、ブルーは足を滑らせた。踏み出した足を上にして、空中でぐるりと身体が回転する。水たまりの上に転倒するブルー。するとその肩に、ピンクの足の甲がぐにゃりとぶつかった。


「きゃっ!?」


 すぐさまピンクの甲高い悲鳴。バランスを崩したピンクはブルーの隣に倒れ込み、また「わッ!」と声を漏らした。続く僕は慌ててのけ反るが、どうにも勢いを殺しきれない。


 影は平然と逃走を続けている。もうすぐそこにブルーとピンクが倒れている。「え、え、え」と細かい音が唇をすり抜け、それでも僕の足は止まってくれない。あと五歩、あと四歩、三、二、一、


「えぁッ!」


 締まらない気合いと同時に、僕は思い切り床板を蹴った。ふわ、と身体が宙に浮き、脂のようなにおいが一瞬、鼻をかすめていく。片足が床に着地したときには、ブルーとピンクは僕の背後に倒れていた。グリーン、イエローも続いて二人を飛び越え、僕らは三人で影を追う。


 長い廊下にもいよいよ終わりが見えて、突き当たりでは半開きのドアが僕らを待ち構えている。ドタドタギシギシ、足音と床板の音が連続する。影と僕らの距離は縮まらないまま、ドアはいよいよ影のすぐ目の前に迫る。


 影の手が、錆びたドアノブに伸ばされる。僕はその背中に手を伸ばす。細い背中の向こうから、ガチャリと冷たい音がする。僕の手が空を掴み、歪んだドアが押し開かれ、その奥に広い部屋が見え、そのさらに奥の台所に……何かが転がっている。


 どくん、と心臓が鳴る。


 影が居間に入る。遅れて僕らもドアをくぐる。板間を通り抜け、カビ臭い台所に入る。


 流し台の脇に、ひとりの男が横たわっている。


 縄でぐるぐる巻きの佐藤は、存在感の薄い目を思いきり見開いて、僕の姿を見つめていた。


「おい、そいつ……!」


 僕の隣につけたグリーンが、佐藤を指差して言う。僕は頷き、それと同時に、またドアの開く音がする。台所の奥、勝手口のドアを開けて、影が外へ飛び出していく。


 僕は思わず立ち止まり、影の背と佐藤を見比べた。すると背後から、


「追いかけてください」


 弱々しい声がした。振り返る。よたよたと追いついたイエローが、佐藤の横にぺたりと座り込んでいる。


「この縄、あたし解いとくんで。追いかけて」


 ひゅうひゅうとした息の隙間から、イエローは僕に言った。グリーンは影を見ながら数回その場で足踏みをし、「あぁもう!」と泣きそうな声で飛び出していく。僕はイエローを見、佐藤を見、影を見、もう一度佐藤を見てから、勝手口に向けて駆け出した。イエローの苦しげな呼吸音が、糸を引くように遠ざかっていく。


 勝手口の先には狭い裏庭があり、その先はもう歩道だ。既に歩道に出ている影は、すぐそこに建つビルの角を曲がっていく。グリーンがそれを追い、僕はさらにそのあとを追う。


 ブーツを脱いできた裸足を、裏庭の雑草に細かく傷つけられる。痛む足でアスファルトの歩道に降り立ち、疲れの出始めたふくらはぎをどうにか動かしながら、僕もビルの角を曲がる。


 曲がった先は細い路地だった。僕と同じく裸足のグリーンは、走りにくそうにしながらもやはり速い。やや失速した影との距離を着実に詰めていき、引き離されるばかりの僕とはまるで対照的だ。黒の背中と緑の背中は徐々に重なっていき、やがて……


「づぁッあ!」


 グリーンの声が路地に響いた。ヘルメットの額を押さえてうずくまるグリーン。どうにか速度を上げて駆け寄ると、彼のかたわらには一台のスマートフォンが転がっている。手に取ろうとする僕に向けてグリーンは、「いいから追っかけろよバカ!」といよいよ涙声になった。顔を上げると、黒い影はまたしても角を曲がらんとしている。僕はグリーンにさっと頭を下げ、また影を追いかける。


 とはいえ、両のふくらはぎはもう鉛のように重い。角を曲がっても影の背中は遠く、傷ついた足の裏は地面に張りつくようになってバランス感覚を狂わせる。影の速度はさらに落ちているが、僕はもうそれ以上の低速、ことごとく疲労困憊だ。一歩、また一歩、足は重く、影は遠くなっていく。


 ――もう駄目だ。


 血の行き渡らない脳みそが、そんな言葉を浮かび上がらせる。もう駄目だ。追いつけない。敵わない。足が痛い、ふくらはぎが重い。呼吸が苦しい。立ち止まりたい。そもそも、どうしてこうまでしてあいつを追わなくちゃならないんだ? あいつを捕まえたところでどうせ、警察に突き出せるというくらいなのに。


 深い溝に吸い寄せられるように、思考が落ち込んでいく。ひとけのない路地の風がヘルメットに吹きつける。徐々に、徐々に、景色の流れがスローになっていく。


 佐藤の顔を思い出す。十年来の、唯一の友人。僕が危険に晒してしまったかもしれない、大切な友人。僕たちに助けられたら、嫌な顔をするかもしれない友人。


 ――ここであたしたちが活躍したら……。


 耳鳴りが始まった鼓膜の奥に、イエローの声がうっすらと蘇る。耳鳴りを押しのけて聴覚を集中させてみると、彼女の声はかすかに、しかしハッキリと聞こえてきた。


 ――ここであたしたちが活躍したら、『フツージン』を好きになってもらえるでしょ。


 どくん、と、心臓がまた脈打つ。


 ここで活躍したら、ここであいつを捕まえたら。ここで、力をふり絞って走ったら。


 佐藤は『フツージン』を、僕のしていることを、認めてくれるかもしれない?


「ああ、クソ!」


 思わず漏れた声を上下の歯ですり潰して、僕は爪先にせいいっぱいの力を込めた。爪先で地面を押し返し、できる限りの前傾姿勢になって、つんのめるように走りだす。ぺたぺたぺたぺた、情けない足音が辛うじて加速していく。足の裏は痛いまま、ふくらはぎは重いまま、耳鳴りは止まないまま、景色の流れだけがスピードを増していく。空き家の廊下を走りだしたときと同じくらい、いや、それ以上に!


 ――そうだ、僕はもうヒーローなんだ。


 ぐるぐる回るような視界の中、血の回らない脳みそが確信する。うだつが上がらなくたって、フレッシュさに欠けていたって、僕はヒーローになれているんだ。なれている、はずなんだ。


 厳しい現実の世界から、ワクワクだらけの非現実の世界を、覗いてもらえるはずなんだ。


 ひとつくらいは、覗き穴を開けてやれるはずなんだ。


 一歩、また一歩、影の背中は近づいてくる。よく見るとそいつはもう疲れきっていて、両腕の振り方だってめちゃくちゃになっていた。真っ黒な影が振り返る。黒いパーカーに黒いジャージのズボン、そして黒いニットキャップ。マスクとサングラスで顔は分からないが、僕にはそいつが焦っていることが分かる。勢いのついた僕の足はもう、止まろうとしたって止まれない。


 影の背中まであと三十歩、二十歩、五歩、四歩、三、二、一、


「うおぉぉぉぉ!」


 気合いと同時に地面を蹴って、目の前の影に飛びかかる。「ウッ!?」背中に抱きつくと、そいつは呻いてうつ伏せに倒れた。高い身長と低い声からして、こいつは恐らく男だろう。ひょろりとした腹に腕を回したまま、僕も四つ這いの格好になる。身体を激しく揺らす男にしがみつきながら、僕はかすれた声で叫ぶ。


「も、もう観念しろ! 抵抗は無意味だ!」


 とは言うものの、僕の体力ももうぎりぎりだ。苦し紛れの強がりだったが、意外にも男の抵抗は弱まった。ホッとして僕も思わず力を緩めたその瞬間、


「いッッッてぇ!」


 僕の尻に、いきなり鈍い痛みが走った。とっさに尻を押さえて振り返ると、伸びていたはずの男の右膝が曲げられている。その先の足にはスニーカー。肛門付近の痺れとその状況から、僕は尻の穴を蹴り上げられたのだと悟った。未知の激痛で耳は遠くなり、目頭に涙が滲む。と、


「ぅおわッ!?」


 今度は男の背中が急に浮き上がった。しまった、という言葉が追いつかないうちに、男は僕をふり落として立ち上がってしまう。起き上がろうと慌てて地面に手をついたが、男は数十秒前よりもいくらか回復したスピードで走り去る。


 待て、とかすかな声が出る。後ろ姿に伸ばした片手は、またも虚しく空を掴んだ。





 三列シートのワゴン車に、ぞろぞろと乗り込む。佐藤を家まで送るべく、総司令が空き家の前まで運んできた車だ。二列目の中央に佐藤を座らせ、その両脇を僕とブルーが固めた。僕の足の裏と尻の穴はまだ痛み、ブルーのコスチュームにはべったりと油ジミが残っていた。


 男三人が並んだシートで、佐藤は居心地悪そうに肩を縮めている。佐藤に正体がバレないか、僕は内心気が気でない。佐藤と幾度となく会話してきた僕は、迂闊に声も出せないのだ。席の隅にはベージュのトートバッグが無造作に置かれていて、そのせいでさらに窮屈に感じられた。手に取ってみると、表面には可愛らしいクローバーのワッペンが縫いつけられている。ハルカさんのバッグだ、と直感的に確信し、僕はバッグを丁寧に畳んで隅に戻した。


 ワゴンは、ゆっくりと走りだす。


「佐藤くん、怪我はないか?」


 運転席で心配する総司令の目が、ルームミラーに映る。佐藤は「え……」と戸惑いを露わにしてから、いつもよりも低く小さい声で答えた。


「大丈夫、です。歩いてたらいきなり腕引っ張られて縛られて連れてかれて……あと、スマホを取りあげられて。そのくらいなんで……ていうか、どうして俺の名前知ってるんですか」


「えっ? あ、ああ! それはぁー、その、おれはこの町のことなら何でも知っているからな。わは、わははは」


 総司令が硬い声で笑う。そのぎこちなさを誤魔化すように、三列目のグリーンが佐藤のほうへ腕を伸ばした。その手には、あのとき投げつけられていたスマートフォンが握られている。


「取りあげられたのって、これ?」


「あ……うん。俺のだ。……ありがとう」


 佐藤はおずおずとスマートフォンを受け取った。グリーンは無言で腕を引っ込めると、忌々しそうに額を撫でる。


「それにしても、あの人は何だったんでしょう?」


 助手席に座るピンクが、誰にともなく言った。三列目のイエローが反応する。すっかり息も整った彼女は、いつも通りの気だるげな雰囲気を取り戻していた。


「目的が分かんないですよね。佐藤さんも、殴られたりはしてないんでしょ?」


「ま、まぁ、そうですね……会話もほとんどしてないし」


「強盗、というわけでもなさそうだしなぁ」


 首を捻る総司令。すると後ろから、グリーンの拗ねた声がした。


「オレたちへの嫌がらせだったんじゃねぇの?」


「嫌がらせ?」


 総司令が訊き返す。うん、とグリーンは続ける。


「オレたちの任務を、わざと邪魔したんだと思う。オレたちをそいつと会えなくするためだけに、そいつのこと誘拐したんだよ」


「うぅむ、なるほど……」


 唸る総司令。グリーンの推測には確かに納得感があったが、佐藤は黙っていなかった。


「え、え? 最初から、俺と会う予定、だったんですか」


「むッ」


 総司令が声を詰まらせる。ピンクが慌てて佐藤に振り向き、ぼかした説明を加えた。


「そ、そうなんです! その、ヒーロー活動の一環として、佐藤さんにお会いできたらなーと思ってたので!」


「はあ……ヒーロー活動、ですか」


 佐藤は俯く。それから少し間を空けて、走行音の響く車内に歯切れ悪く切り出した。


「みなさん、って、『現実戦隊フツージン』、ですか」


「ええ、そうですよ!」


 ピンクが溌溂と答える。佐藤は総司令を目だけで見上げた。


「で、そちらの方は」


「総司令だ!」


「総司令……」


 ぽかんと口を開いたあと、佐藤はきまり悪そうに唇を結ぶ。ズボンの膝を握り込み、離し、また握り込んでから、彼は感情を押し殺したような声で言った。


「……どうして、ヒーローをしてるんですか?」


 ピンクがまた振り返り、総司令もルームミラー越しにちらりと佐藤を見た。ブルーもわずかに顔を向ける。僕も、佐藤を見ている。


「ヒーローだなんてそんな、非現実的な……みなさんお仕事とか、学校、も、あるんですよね?」


 佐藤は、伏せた目を忙しなく動かしていた。わずかに開いた足の間で、組んだ指をくるくると回す。神経質な仕草で、けれどもその唇は、あくまでも自然に閉じられていた。


「佐藤さんは、ヒーローになるのは嫌ですか?」


 ピンクが悲しげに訊くと、佐藤は小さく息を吐いた。


「嫌、っていうか。なりたいと思っちゃいけないかな、っていうか」


「どうして?」


「どうしてって……もう、大人だから。だからどんなに辛くても、現実見て、受け止めるのが大人なのかな、って。そうじゃなきゃ、馬鹿にされそうで」


「そんなに辛いのか」


 総司令が、いつになく物腰柔らかな声で問う。佐藤は首を掻き、口を小さく尖らせた。


「まぁ、人並みには」


「人並みじゃあ分からん、君の悩みを訊いとるんだ。言ってみなさい」


「……」


 ぐっと深く下を向いて、佐藤は黙った。車内には、再び走行音が充満する。空が曇り始め、モノクロめいた景色が窓の外を通り過ぎていく。


 赤信号で車が止まり、青信号で動き出したところで、佐藤はようやく口を開いた。


「俺、特別になりたかったんです」


 十年来の友人の声は、僕が触れたことのないやるせなさを孕んでいた。


「中高生くらいのとき、そういうのに漠然と憧れてて。芸能人とか、漫画の主人公とか。けど俺は、その頃からずっと冴えなくて。特技もないし、友達もできないし……漫画なら、そういう奴が特別な力に目覚めて、ヒーローにもなれるじゃないですか。でも、現実にはそれは起こらないから」


 そうか? と総司令が口を挟み、そうですよ、と佐藤が返す。ぎこちなく細められた佐藤の目には、曇った町の薄暗い色がそっくりそのまま映っていた。


 僕の腹に、肺に、吐き出せない空気が戻ってくる。


「だから俺、クラスの人気者とか、ちょっと一目置かれてる奴とか、それを目指そうかなって思ったんです。明るく振舞ってみたり、目立つクラスメイトの真似してみたり、そうすれば、『特別』に近づけるのかなって。でも結局、どれも中途半端で。同じくらい地味な友達と一緒にいるのが、一番落ち着いたし。……けど、大人になってみて自然と気づいたんです」


「何にですか?」


 ピンクがこわごわと尋ねた。僕の心臓が、何かに押し潰されるように痛む。


 ずっと垣間見えていて、それでも気づけていなかった、佐藤の直面する『現実』。


 聞きたくない、と直感的に思った。友人としても、ヒーローとしても、僕は彼のことなんて、何一つ理解できていなかったのだ。息が苦しい。身体が、空気で膨らんでいく。


 佐藤は少し躊躇ってから、自嘲するように声を震わせた。


「本当は、誰も特別になんかなれないんだ、って。みんな、その現実を受け入れて生きてるんだ、って」


 非現実を覗いてもらうなんて、最初からできるわけがなかったんだ。非現実への覗き穴を、ただ開けたって意味がなかったんだ。


「だから俺も、現実見てやっていこうと思ったんです。現実から目を背けちゃいけないんだと、思って」


 ――その覗き穴を、佐藤は自分で塞いでしまうから。


 するとそのとき、雰囲気にそぐわない軽快なメロディが車内に響いた。「わっ」とグリーンの声がして、佐藤がズボンのポケットを探る。


「す、すみません、電話が」


「構わんよ。出るといい」


 総司令にさっと頭を下げて、スマートフォンを取り出す佐藤。いたたまれない、という顔で画面を見て、彼はピタリと固まった。


「……知らない番号だ」


 着信メロディによって緩みかけていた場の空気が、またぎりりと引き締まった。佐藤のスマートフォンは、一度あの男の手に渡っている。ブルーが腕を伸ばし、佐藤の手からスマートフォンを引き抜いた。


「俺が出ます」


 手袋を脱ぎ、ブルーは手際よく画面を操作する。やがてメロディが途切れ、ブルーの低い声だけがワゴンに残った。


「もしもし。……はい……そうですが……は? どうしてそんな……ま、待ってください、なんでわざわざ……」


 ときおり漏れ聞こえていた男の声が消え、ブルーはスマートフォンを離す。グリーンが後部座席から顔を出した。


「だ、誰から? 何だって?」


「さっきの男から。……河川敷のグラウンドに来い、と」


「河川敷ぃ? ついさっき離れたところだろうが!」


 総司令が声を上擦らせる。ピンクが車内を不安そうに見回した。


「一回逃げたのに、どうしてまた呼び寄せるんでしょう?」


「それ、罠なんじゃねぇの?」


 グリーンが怯えた声を出す。佐藤にスマートフォンを返しつつ、ブルーが深刻な声を出した。


「分かりません。当たり前ですけど、理由も言ってくれなくて……ただ、来い、とだけ」


「もしかすると」イエローが独り言のように言った。「はじめから、あたしたちをそこに集めるつもりだったのかも。佐藤さんのことでおびきだして」


 佐藤の顔がさっと青ざめる。


「そ、それ、行かないほうがいいんじゃ……」


「行くぞ」


 佐藤の声を遮って、総司令が決然と言う。「え、マジかよぉ」とグリーンが悲鳴をあげるが、総司令は動じなかった。「怖けりゃ大人しく塾に通うんだな」の一言で、グリーンをあっさり黙らせる。


「全責任はおれが負う。ここまできたらもう退かんぞ」


 ルームミラー越しの両目は、揺らぐことなく前を見つめている。


「おれたちは、ヒーローだからな」


 僕らを乗せたワゴン車は、ぐんと音を立てて加速した。

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