第4話「衝突! 現実と非現実!」Bパート

『その一! 運命の曲がり角大作戦!』


 ダン! テーブルに叩きつけられたコピー用紙を思い出す。


 火曜日。佐藤の通勤ルート、から枝分かれする角。佐藤の出社時刻は、普段の僕とほぼ同じだ。


「これ、本当にあたしでいいんですか?」


 セーラー服の襟を直しながら、イエローが言う。朝七時三十分。仕事道具や勉強道具をワゴンに置いて、制服姿のイエロー以外は、みんな着替えを済ませている。たとえ隠密任務だろうと、変身だけは欠かさないのがヒーローの誇りらしい。


「イエローさんが適任だと思います! 私、中学と高校の制服は処分しちゃいましたし……」


「別に、制服くらいなら貸しますけど……まぁいいか」


 ピンクに向けて眉を下げ、イエローは細い首を掻く。不安げな顔の彼女に、総司令はビニール袋を差し出した。袋の中には一枚の食パンが入っている。


「よし、そろそろくわえておけ。噛みちぎって落とさんようにな」


 頭を下げて受け取るイエロー。ガサガサとパンを取り出すと、躊躇いがちに口にくわえた。「ギャハハ、ほんとに漫画みてぇ」指差して笑うグリーンを、彼女はジロッと睨んで威嚇する。


 僕は角から頭を出した。遠くに佐藤の姿がある。グレーのスーツと青いネクタイは、僕と会うときよりもパリッとして見えた。


「来てるか?」


「来てます」


 総司令に応えつつ、頭を戻す。入れ替わって、今度は総司令が頭を出した。


「来るぞ、来るぞ、そろそろ来るぞ、来るぞ、来るぞ、もう来るぞ……」


 呪文のような声に合わせて、イエローが後ずさっていく。パンをくわえた彼女の顔には、緊張感と使命感がみなぎっていた。その表情を眺めていると、不思議と僕まで緊張してくる。来るぞ、来るぞ、いよいよ来るぞ。


 リズムに合わせて身体が揺れる。心音が、ドラムのように軽快に響く。


「行けっ!」


 号令を出し、素早く身を引く総司令。ローファーで強く地面を蹴って、弾丸のように駆け出すイエロー。電柱の陰に素早く隠れ、僕らは見守り役に徹する。


「きゃっ!」


 ドン! という音の直後に、短い悲鳴が耳に届いた。普段の彼女からは想像できないような、華奢な少女の声だった。そのままわざと大袈裟に尻餅をつき、食パンを手に移動させる。


「いてててて……」


「だっ、大丈夫!?」


 ぶつかられた佐藤が、イエローに手を差し伸べる。「す、すみませぇん」と手をとって、イエローは立ち上がった。佐藤は顔面全体で困惑を表現している。


「ごめん、怪我はない?」


「大丈夫です、すみませぇん」


「う、うん。気をつけなよ」


 食パンをチラチラ気にしながら、佐藤は逃げるように去っていった。イエローは丁寧なお辞儀でそれを見送り、かったるそうにスカートを払う。


「イエローさん、迫真の演技でした!」


「『キャッ!』って、いつもと違いすぎだろ」


 ピンクとグリーンが所感を述べる。落ち着いていく心拍数の余韻に、僕の指先は温まっている。





 とはいえ、現実は続く。


「あ」


 自宅でひとり、がっくりと項垂れる。風呂の栓を閉め忘れたせいで、張ろうとした湯をすべて流してしまった。普段はシャワーで済ませるところを、たまにはゆっくり湯に浸かろうと思っていたのに……。日頃から大切に節約していた安月給を、この水道代でどのくらい消費してしまっただろう。キュ、と蛇口を締め、腹の底からため息を吐き出す。


 水の音が止むと、居間からスマートフォンの震動音が聞こえてきた。電話だ。バタバタと風呂場を出て、座卓の上のスマートフォンを手に取る。『母』と画面表示。


「もしもし」


『あ、もしもしー?』


 電話越しに聞く母親の声はいつも、印象よりも年老いている。「急にどうしたの」と訊くと、母は相変わらずのんびりとした口調で答えた。


『あのねぇ、ご近所のケンくんいたでしょ? あんたの二つ年上の。でねぇ、あの子が今度結婚するっていうんだけど、あんた宛ての式の招待状がこっちに届いちゃったのよ。今の住所知らなかったのねぇ』


「ああ」


 ケンくん、というあだ名は覚えている。小さい頃に遊んでもらった記憶もあるが、顔はどうにも思い出せない。そういう存在が近くにいたな、というくらいだ。


『それで、どうする? 結婚式。ほら、出欠出さないといけないから。出る?』


「いや、やめとくよ。……最近、仕事忙しいし」


『あらそう? じゃあ欠席で出しちゃうわねー』


 仕事が忙しい、という嘘に反応して、母親の声が明るくなる。礼を言い、通話を切り上げようとした僕の「それじゃあ」に、言葉をかぶせてくる。


『お仕事、頑張ってるのねぇ。どう? 営業成績? っていうんだっけ、上がってるの?』


 スマートフォンを持つ手が、血管の内側から冷えた。


「まぁまぁだよ」





『その二! 町角に伝説大作戦!』


 作戦その一の二日後、木曜日。六月が終わって七月。佐藤の帰り道、から枝分かれする角。残業で不規則な佐藤の退社時刻は、僕がどうにか聞き出した。夜九時、イエローとグリーンの未成年組は、今日はお留守番だ。


「こんな感じで……大丈夫ですかね」


 大きいサイズの紙袋から、ブルーが一本の剣を取り出す。もちろん本物ではなく、おもちゃの剣だ。おもちゃ屋の中で一番ワクワクするデザインのものを総司令が選び、ブルーに託したという。ブルーの役割は、その剣を「伝説の剣」に変身させることだった。


「おお……」


「わぁっ、すごい!」


「ブルーお前、本当に自分でやったのか!」


 取り出された剣の姿に、僕らはそれぞれ声をあげた。はしゃぐピンクに悔しさが募るが、その出来には感嘆せざるを得ない。塗料でわざと汚された剣は、まるでどこかの遺跡から持ち出されたようだ。刃の赤錆も柄の色落ちも、何もかもがリアルだった。


「はい。結構、頑張って。楽しかったです」


 ヘルメットの頬を掻くブルー。悔しい。


 僕らは角から飛び出して、相談しながら剣を置いた。歩道の脇の街灯の、ちょうど真下で照らされる位置だ。丸い光に囲まれて、「伝説の剣」は神々しい異質さを放っている。


 僕らが角に引っ込むと、すぐに佐藤がやって来た。背中を丸めた歩き方は、僕が見たことのないものだ。一歩、二歩、三歩、伝説の剣に近づいてくる。


 自分の胸が高鳴っている。緊張もあれば、ワクワクもあった。僕らの暮らすこの町の、灰色に沈む歩道の上で、「伝説」が白く輝いている。


 佐藤の視線がふと固まった。街灯の下、伝説の剣をはっきり見ている。視線の向きに引かれるように、佐藤は剣に近づいていく。光の縁で足を止めて、腰をかがめて剣を眺める。


 眺めはじめて五秒ほどが経つ。佐藤は恐る恐る、伝説の剣に手を伸ばす。ギリギリまで伸ばして、やめる。ポケットからスマートフォンを取り出して、構えて、仕舞う。首を傾げる。もう一度首を傾げる。歩き出す。二、三回振り返りながら、僕らのいる角を通り過ぎる。


「ッカー、手に取らんとは嘆かわしいな!」


「俺としては、ホッとしたかも……」


「でもとっても気にされてましたね!」


 僕は角から顔を出して、佐藤の後ろ姿を眺めてみる。佐藤はまた首を傾げている。ヘルメットの下で、僕は思わずクスリと笑う。





 そして、現実も続く。


「冴えんねぇ、君は」


「え?」


 製品説明を遮られ、僕は顔を上げた。左手でカタログを立てたまま、貼りついた笑顔で固まる。取引先の課長は、仏頂面でふんぞり返っている。


「君は、本当に冴えんね」


 低く繰り返され、意識が飛びそうになる。パーテーションで区切られた応接スペースから、自分の呼吸以外の音が消える。


「も……申し訳ございません」


「うん、謝る必要はないけどね」


 僕の謝罪を手のひらで押し返して、課長は鼻息を漏らした。謝ることもできなくなり、僕は自分の置かれている状況が全く掴めなくなる。

 何を求められているのか、どう対処するのが正解なのか。ただ一つ分かるのは、これは良くない流れだ、ということだけだ。


 課長は、筋肉のついた首をコキコキと鳴らす。薄い前髪を指で払うと、咳払いして続けた。


「いやね、身だしなみに文句つけてるわけじゃないんだよ。前からうちに来てくれてるけど、いつも清潔感はあるしね。ただねぇ、君にはいかんせん、フレッシュさがない」


「フレッシュさ、ですか」


 逸れそうになる視線を必死に留めつつ、僕はカタログを閉じた。課長の目元に、皺が二本増える。


「ほら、その反応ひとつとってもね。ハッキリしないというか、暗いんだよな。君くらいの若さなら、私なんかよりももっとエネルギーがあるはずなんだから。若さは武器だよ? 経験が浅いぶん、将来性を感じさせるようなパワーがなくちゃ」


「……」


 僕は何も言えなくなる。フレッシュ、エネルギー、パワー。どれも僕には引き出せないものだ。仮に今ここで引き出せたとしても、きっとそれは、無意味だ。


「君を見てると、なんかイライラするんだよな」


 課長の右頬が、痙攣するように上がる。


 表情をつくることも、無表情でいることも、僕には許されていない。





『その三! ヒーローが君を守る大作戦!』


 日曜日。佐藤のアパートから映画館へ続く道。休日に映画を見ようと、僕が佐藤を呼び出した。僕、ピンク、ブルー、イエロー、グリーン、総司令。『現実戦隊フツージン』、オールスターでの待ち伏せだ。


「……来んなぁ」


 エプロン姿の総司令が、苦々しい声で言う。ブルーが頷き、イエローとグリーンはぼんやりと空を見上げている。「飲み物でも買ってきましょうか?」とピンクがスカーフを探り、「あ、車にお財布置き忘れたんでした……」と肩を落とした。僕らが着替えを済ませたワゴンは、少し先の駐車場に停めたままだ。総司令は腕時計を確認して、文字盤をペタペタと叩く。


「もう四時だぞ。会議で決めた時刻だと、『映画館での集合時間』が三時じゃなかったか? レッドお前、間違えて連絡したんじゃなかろうな」


「間違えてはいない、はずですけど」


 フレッシュさのない答えを返しながら、僕はスカーフからスマートフォンを取り出す。アプリを開くと、記憶通りのやり取りを確認できた。


『日曜、映画でも観に行かない? 三時集合で』


『時間決めるの早くね? いいけど』


『おー。ありがと』


『そういや今週、変なことあったからそれも話すわ。会ったとき』


『変なこと?』


『なんかめっちゃ変。変すぎて、ちょっと怖い』


 メッセージはそれだけだった。佐藤の言う「変なこと」というのは、僕らの作戦のことだろう。ワクワクどころか恐怖を与えていたのかと落胆したが、まぁそうだろうな、とも思った。何にせよ、総司令にはとても伝えられそうにない。


「お昼寝でもしてらっしゃるんですかね?」


 ピンクが言い、僕は画面から顔を上げた。


「それはない、と思うんですけど。律儀な奴なので」


「電話、かけてみたらどうですか」


 ブルーの提案を受け、「そうですね」と受話器のマークをタップする。プルルルル、プルルルル……。長い長いコール音のあと、『現在、電話に出ることができません』と女の声。


「……出ません」


「どうなっとるんだ!」


 総司令が空に怒鳴った。その声量に、イエローとグリーンがびくりと肩を跳ねさせる。


「せっかく、ヒーローが悪の手先から匿ってやろうというのに! みんなで悪の軍団の設定まで考えたんだぞ? この努力が無駄になったら悔しいだろうがぁ!」


「もしかしてさぁ」


 ヘルメットの上から大袈裟に耳を抑えながら、グリーンが口を開いた。


「マジで攫われちゃったんじゃね? 悪の軍団に」


「何!?」目を見開く総司令。「悪の軍団は『いるフリ』で済ませるという話だったろう」


「じゃあ悪の軍団じゃなくて、ホントの不審者に攫われたのかもな」


「それはもう警察沙汰じゃないか!」


「い、いやでも、攫われるような年齢じゃないでしょう。単に道に迷ってるのかもしれないし」


 僕の言葉に被せるようにして、ピンクの不安そうな声が飛んできた。


「でも、もし本当に危ない目に遭われていたら……」


 額に冷や汗が滲む。


 もし、もしも万が一佐藤の身に危険が及んでいるのだとしたら、それは、僕たちのせいではないのか? 僕が佐藤を呼び出さなければ、彼は危険な目にも遭わなかったんじゃないのか? 僕が、佐藤の「現実」に立ち向かおうとしなければ……。


「捜しに行ったほうがいいんじゃないですか?」


 イエローが気だるげに頭を傾ける。全員が躊躇うように黙ったなか、僕の喉は自然と、声を絞り出していた。


「そう、なのかもしれません」


 全員の視線が僕に向き、我に返る。言葉の続きが出てこなくなって、喉が絞まる。唾を飲みこみ、漠然とした不安を無理やり言葉に変えて、吐き出す。


「す、すみません。さっきと言ってること違いますけど……一応、捜してみたほうがいいかなって。何もなかったらなかったでいいですし、余計なことかもしれないけど」


 声は、尻すぼみに小さくなっていった。場が途端に静かになって、僕は消えてしまいたくなる。ううむ、と総司令が唸ると、ブルーがそれに被せて発言した。


「俺も、捜してみたほうがいいと思います。心配ですし」


「あたしもそう思います」


 イエローが続く。あくまでも無気力な口調で、彼女は最後の一押しをしてくれた。


「もし道に迷ってるんでも、道案内でもすれば『フツージン』を好きになってもらえるでしょ」


「うぅぅぅむぅ」


 唸る総司令。それから五秒ほど間を空けて、彼はゆっくりと首を縦に振った。


「分かった! 六人で手分けして、まずはおれたちで捜そう。佐藤くんの家にはおれが行く。コスチュームのままでインターホンを押させるわけにはいかんからな。それと!」


 総司令は語気を強めて、僕らの顔を見回した。僕の前で視線を止め、言う。


「絶対に無茶はするなよ。怪しいと思ったらすぐに連絡を入れること! 見当をつけたら、確認するのは全員でだ。分かったな」


「……はい!」


 もう一度唾を飲みこんで、僕は答えた。





 それから三十分。僕のスマートフォンに届いた着信は、総司令からのメール一件だけだ。


『佐藤くん、家にはいないようだ。何度かインターホンを押したが反応なし。カーテンの隙間からも部屋を覗けたが、中に人の気配もない』


 映画館周辺を捜す僕にも、未だ成果は出ていなかった。日曜日、人通りの多い中をコスチュームで歩き回るハードルは高かったが、怯えてばかりもいられない。子どもに指をさされたり、中高生にスマートフォンを向けられたりしつつも、僕は辛うじて正しい姿勢を保っていた。この格好でおどおどしていると、僕のほうが通報されかねないからだ。


 映画館、近くのコンビニ、公衆トイレ、細い路地。没個性とはいえ見慣れたはずの友の姿は、それらのどこにも見つからなかった。電柱の陰、植え込みの裏、自販機の下まで覗き込んでも、当然ながら見つからない。メッセージも絶えず送り続けているが、既読すらつかないままだ。


 嫌な予感が、脳みその中で急速に膨らんでいく。必死に自分を落ち着けながら、僕は佐藤を捜し続ける。緊張で丸まる足の指を、ブーツの中でギリギリと伸ばす。


 映画館に背を向けて、別のエリアを捜索してみることにする。不動産屋の角を曲がると、カツン、と何かに頭がぶつかった。「いてッ」ヘルメットの首に衝撃が響き、とっさに頭を抱える。電柱でもあったのかと顔を上げると、そこには、同じように頭を抱える青い人影があった。


「あ」


「あ」


 ブルーと顔を見合わせ、お互いに会釈する。ここはブルーの持ち場だったか。


「す、すみません。向こうは一通り見たので、場所を変えようを思ったら……」


「いえ。俺も同じです。今度は、あっちを捜してみようと思ってて」


 ブルーはそう言って、右手に伸びる道を指差した。ホームセンターに続く、やや細い道だ。他に行くところもない僕たちは、二人でその道に入った。


「レッド、さんは」


 無言で五メートルほど歩いたところで、ブルーに話しかけられた。前を行くブルーを見ると、彼は猫背で俯いたまま、地面に言葉を落としている。


「佐藤さんと、すごく仲がいいんですね」


「あぁ、まぁ。高校の頃から、ずっと二人でつるんでたので」


「そう、なんですね。その……すごいと思います。本当に」


「そ、そうですかね? あはは……ありがとうございます」


 そして、会話が途切れる。話す前よりも気まずく感じられて、僕はブルーから半歩離れた。ブルーは時折キョロキョロと辺りを見回しながら、それでも俯きがちに歩いている。


 正直、ブルーのことはよく分からない。、イケメンでお洒落で声が格好よくて、頭の回転も速く手先も器用。そして何より、ハルカさんの幼馴染。何もかもに恵まれているくせに、いつも猫背でボソボソしゃべる。ヒーロー活動に積極的なようにも見えるが、自己主張はあまりない。


 僕はずっと彼に対抗心を燃やしてきたが、最初の任務でも前回の任務でも、ついさっきだって彼に助けられてしまっている。彼が何を考え、どういう思いでいま僕の隣を歩いているのか、僕はどんな感情で彼の隣を歩けばいいのか、さっぱり見当もつかなかった。


「あ、すみません。ここ見ます」


 ビルとビルの隙間を見つけ、僕はブルーに声をかける。ブルーは立ち止まって、僕の後ろから隙間を覗きこんだ。室外機やゴミ袋が乱雑に置かれているだけで、人の姿は見えない。


 もう大丈夫です、と首を引っ込めると、青いヘルメットのシールドと目が合った。ずっと僕を見ていたらしい視線に、思わず怯む。


「友達を助けるって」ボソボソした声が、真っ直ぐに飛んでくる。「すごく、ヒーローですよね」


「はあ……」


 どう答えればいいのか分からず、僕は曖昧に頷いた。ブルーは僕から視線を外し、ヘルメットの後頭部を撫でる。


「あ、すみません。不謹慎ですよね。けど俺……ちょっと、ワクワクしちゃって」


「ワクワク?」


「はい……なんか俺、本当にヒーローなんだな、っていうか。すみません」


 ぺこぺこ頭を下げてから、ブルーはそそくさと歩き出した。困惑のまま、僕もそのあとに続く。無言に戻った空気はやはり気まずい。気まずいまま三十歩ほど進んだところで、ブルーがまた小さく言った。


「俺、佐藤さんの言うことも分かるんです」


「え?」


 突然の話題転換に声が裏返る。恥ずかしくなって喉を抑える僕に、ブルーは丸めた背中の向こうから語った。


「現実から目を背けるなって、大人になるにつれて、そういう空気が出来上がってくるじゃないですか。直接言われることはなくても、自然と身の回りに……。大学行くかどうかとか、就職どうする、とか。うちの美容院にくるお客さんにも、お子さんに現実見させようとして困ってる人、いて」


「ああ……安定した職に就け、みたいな」


 大学時代、僕もよく言われたものだ。内定がとれないと焦り始めてからは、とにかく仕事見つけろ、としか言われなくなったが。


「あ、そういうやつ、です。で、俺も今までは、そういうものだと思ってて……まぁ今も、現実はちゃんと見たほうがいい、とは思うんですけど。でも、現実ばっかりでもつまらないというか、現実見るって、そう押しつけられるべきことでもないのかな、というか」


 何言ってんだか分からなくなってきた、と額を押さえるブルー。「なんていうか」「つまり」と数回繰り返してから、彼は半ば強引に話を切り上げた。


「俺、たぶん自分に自信ないほうですけど……ヒーローとして動いてると、結構楽しいので。そういうのが佐藤さんにも伝わるといいなと、思います」


 そう言ったきり、ブルーは何も言わなくなった。足の踏み出し方が若干ぎこちなくなっていて、スタイルの良さが台無しになって見える。


 僕はその後ろ姿を、ぽかんと口を開けて眺めていた。話している間の声は、やはりクールなハスキーボイスだったけれど……たどたどしい話し方や、会話の不器用な終わらせ方、その後のきまり悪そうな歩き方は、少しだけ僕に似ているような気がした。ブルーに思わぬ親近感を覚えて、僕はまた悔しくなる。


 と、


 ブーッ! ブーッ!


 首元のスマートフォンがいきなり震動を始めた。振り返ったブルーのスカーフからも、同じような震動音が聞こえる。僕らは頷き合って、それぞれ着信を確認した。


 発信者は、『グリーン』。件名は無題。写真付き。その内容は、簡潔な問いかけだった。


『これ、前にオッサンが言ってたあやしい空き家?』

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