[5-6]鴉天狗と九尾の狐

 たしかに嫌な予感はしていた。

 初めて顔を合わせた時、妖刀で切り結んだのはまだ記憶に新しい。アルバくんと雨潮うしおくんを二人だけにして、穏便で済むはずがなかったのに。




 顔を向かい合わせるアルバくんと雨潮うしおくんがまとう重い空気に胸が塞いで、落ち着かなかった。

 雨潮うしおくんは雪火せっかとの約束通り、あやかしには手を出していない。アルバくんのことだって名前で呼んでくれるようになった。だからきっと大丈夫。

 いつも通り居間に通じるふすまの前まできてから、そう言い聞かせて深呼吸した。


雪火せっか、先生たち連れてきたよ。入ってもいい?」

「え、紫苑しおん!? ……うん、入っていいよ」


 慌てたような声が返ってきた。珍しい。雪火せっかはどんなことがあっても落ち着いているのに。

 素人のわたしにはよくわからないんだけど、お薬の調合は繊細な作業だからかなりの集中力が必要なんだとか。お仕事中はなるべく邪魔にならないようにしなくちゃいけない。

 そっと襖を開けてから部屋に入ると、雪火せっかは足の短いテーブルの上に道具を広げて葉っぱを一枚一枚選別しているところだった。種類ごとに分けているのかな。視線を落としたまま形が違う乾燥した葉を手早く仕分けしていく。

 その動作を九尾きゅうびさんはお茶をすすりながら、のほほんと笑って見ていた。そう、見ているだけだった。


「いらっしゃい。ちょっと手狭だけど、適当に座ってください。紫苑しおん、連れてきてくれてありがとね」


 帰ってきてからすぐに準備してくれたのかな。テーブルの上にはお客さん用の分厚い座布団がいくつか準備されていた。

 雪火せっかの向かい側には小夜さよちゃんを抱っこした先生が腰を下ろし、久遠くおんさんはその隣に座った。

 腹痛だって話だったのだけど、小夜さよちゃんは涙も苦しむ様子も見せなかった。大人しく先生の腕の中におさまっている。


「河野先生、わざわざお越しくださってありがとうございます。そして久遠くおんさん、初めまして。僕は榎本えのもと雪火せっか。そこにいるのは僕に取り憑いている九尾の狐です。名前はないので九尾とでも呼んでください」

「九尾の、狐……?」


 雪火せっかは先生と久遠くおんさんに人懐っこい笑顔を向ける。

 九尾の狐はすごく有名なあやかしだ。今、目の前にいる男子生徒がそのあやかしに取り憑かれているなんて聞かされれば、びっくりするに決まっている。

 予想通り先生はぽかんと口を開けて目を丸くしていた。その一方で、久遠くおんさんは全く動じていなかった。座布団の上に胡座をかいたままくつくつと笑っている。


「おや、天狗はやっぱりきみだったんだね。鴉天狗くん」


 白い尻尾を揺らしながら九尾さんは久遠くおんさんに声をかけた。楽しそうににこにこ微笑む九尾さんに対して、久遠くおんさんはにやりと不敵な笑みをたたえた。


「この辺りで鴉天狗と言えば俺様だろ。他に誰がいるって言うんだ? それに俺様は彩に久遠くおんという唯一無二の名をもらった。今後は久遠くおんと名前で呼ぶんだな」

「えー、いいなあ。アルバくんだけじゃなく、きみまで名前をもらったのかい? いいなあ、うらやましいなあ。ねえ、雪火せっか。私にもそろそろ……」

「今忙しいから」


 間髪入れずに、九尾さんはあっさりとフラれてしまった。揺らめいていた九本の尻尾がしおれた花のように、しゅんと下がっていく。

 いつになく雪火せっかの態度が冷たい。けれど、雪火せっかは訳もなく意地悪する性格じゃない。冷たくするのには理由があるんじゃないかな。たぶん。


「あれ、久遠くおん君。もしかして薬屋さんのこと知ってたの?」

「ああ。薬屋というより、九尾には前に一度会ってんだよ」


 どうりでさっきから初対面って感じがしないわけだ。

 九尾さんも懐っこく話しかけてるもんね。


「そうだったの? 私、全然知らないんだけど」

「そりゃあ、彩が知らなくて当然だろ。お前に会う前、月夜見つくよみに移住してきたばかりの時だからな」

「ってことは、久遠くおん君はもともと月夜見つくよみのあやかしじゃないのね」

「俺は九尾と同郷、京のあやかしなんだぜ?」


 京っていうと、京都のことだよね。雨潮うしおくんと同じだ。これって偶然なのかな。お引っ越しの時期はずれてるのに、頭に引っかかった。

 どうして久遠くおんさんと小夜さよちゃんは、京都から遠く離れた月夜見つくよみ市にやってきたんだろう。


「ふふふ。この町は私の縄張りだからね。久遠くおん君が引っ越してきた時、挨拶に来たんだよ」


 そう、月夜見つくよみ市は九尾さんの縄張りだ。久遠くおんさんみたいに強そうなあやかしが入ってきたら、大抵はすぐにわかるって前に言ってたっけ。

 作業の手を止めずに、雪火せっかはため息まじりに言った。


「縄張りのチェックは細かいからね、九尾は」

「ふふん、当然だよ。雪火せっかの安全を守るのは私の務めだからね」


 いつだって九尾さんはぶれない。雪火せっかのことを一番に考えている。

 雪火せっかは呆れたようにため息をついているけど、本当は九尾さんのことを家族のように想っていることも知っている。

 そんな幼馴染みがどうして九尾さんに名前をあげないのかはわからないけれど。


「――で、挨拶の時に言われてたんだよなあ。何か困ったことがあったら、うちの薬屋を訪ねてこいってな」


 その久遠くおんさんの言葉に、雪火せっかは勢いよく顔を上げた。


「驚いた。九尾がうちを宣伝してくれてたなんて。いつも店番頼んでもすぐサボるのに」


 サボっちゃうんだ、九尾さん。なんて自由なあやかしだろう。すごく今さらな話だけど。

 当の本人は機嫌良くお茶をすすっている。反省の色なんてみじんも感じられない。


久遠くおん君は幼い娘を抱えていたからね。助けになればと思ったんだよ。どうやら辛い目に遭っていたようだから」

「辛い目……?」


 どきりと心臓が大きく波打った。

 だって、九尾さんの声はいつものように弾んでいるのに、どこか切ない響きを感じたの。きらめくきんいろの瞳が意味深に少し細くなっている。


 だからわたしは思わず久遠くおんさんを見た。視線には気付いていただろうに、彼はその疑問に答えてはくれなかった。

 むしろ、話をはぐらかされてしまった。


「んなことより、放っておいていいのか? 外で元気に喧嘩してるやつらがいるみたいだぜ」


 そしてその話はわたしにとっても雪火せっかにとっても、放ってはおけない事案だった。


「えっ、ケンカ? あれ、そういえば千秋とアルバさんは!?」

雨潮うしおくんなら、案内頼むってアルバくんと玄関に残っちゃったの。もしかして喧嘩って、雨潮うしおくんとアルバくんが……?」


 頭の中でよみがえるのは、絡み合う深紅と藍の視線。両者は互いに口を引き結んで、睨み合っているようにも見えた。

 二人を置いていくのは心配だった。

 アルバくんはあやかしで、雨潮うしおくんはあやかしが大嫌いな退魔師だ。仲直りしたといっても、まだ互いに手を取り合うような仲じゃないのに。


「そうみたいだぜ? 若い衆は元気でいいよなあ」


 久遠くおんさんはからからと笑いながら、のんきにそう言った。その低い声に不安や心配なんてみじんも感じられない。完全に他人事って感じだ。


 やっぱり、わたしはアルバくんから離れるべきじゃなかったんだわ。玄関に残るか、一緒に居間まで連れてくるべきだったんだ。

 半月が経ったけど、赤く染まったアルバくんの姿はまだ覚えてる。

 苦しげに顔を歪ませていた彼の髪が、墨を染みこませる筆のように黒く染まっていく。雨潮うしおくんが叩き込んだ妖力が邪気となって、アルバくんの身体を蝕んでいく。

 万が一にも、またアルバくんが邪気に侵されることになったら——。


「どうしよう。どうしたらいいの……」


 完全に邪気が抜けきらなくても、ようやくアルバくんの耳も白くなってきた。浄化がうまくいくようになったのに。


 弱音を吐いたら、雪火せっかは作業の手を止めた。顔を上げた幼馴染みは今までで見たことがないくらいきれいな微笑みを浮かべ、腕をぷるぷると震わせていた。


「……珍しく来客を出迎えに行ったと思ったらこれだよ。千秋のやつ、診察を手伝うと言っておきながら何してんのかなあ。僕が手を離せないことをわかっててやってるよね」


 すごく珍しいものを見た。雪火せっかが怒っている。

 不安だらけだったのに、幼馴染みの若干低くなった声を聞いていたら、ちょっとだけ沈んでいた心が浮き上がったような気さえしてきた。それくらい雪火せっかが怒っているところは見たことがない。


「ははっ、そりゃ確信犯かもなあ」


 久遠くおんさんは他人事のように笑う。……まあ他人には違いないのだけど。

 こういう時、やっぱり頼りになるのは九尾さんかな。


「心配いらないよ、雪火せっか。私が二人を止めてこよう」

「それはいいけど、この前みたいに大妖怪化するのはナシだよ。紫苑しおんとの約束、覚えてるよね?」

「えー。それは忘れていないけれど」


 機嫌をうかがうように、九尾さんがわたしに視線を送ってきた。勢いよくこくこくと頷いておく。

 わたしだって、もうあんな尻尾お化けは見たくない。それに九尾さんはわたしの前ではあんな姿にはならないと約束してくれたもん。約束は守ってもらわないと困る。


「うーん、どうしようかな。千秋君もアルバ君も抜刀してるだろうし、生身でなんとかするのは少々難しいね」

「なら、俺様が止めて来てやろう」


 立ち上がりながら、久遠くおんさんが意気揚々と言うものだから反応に遅れた。数秒遅れて彼に言葉を返したのは雪火せっかだった。


「え、いいんですか?」

「お前らの口ぶりだと、できるだけ血を流さず平和的に解決したいんだろう?」

「はい。そうしてくださるなら、すごく助かりますけど」


 わたしとしても、平和的に解決してくれるならすごく助かる。

 特別な力といえばピアノだけ。振るう武器さえ持たないわたしでは二人を止められない。武器があったとしても、わたしみたいな普通の高校生が上手く扱えるとも思えないし。


「任せておけ。その間にお前は小夜さよに薬を飲ませておけ」

「はい、分かりました。すごく、助かります」


 ぺこりと頭を下げて、雪火せっかは作業を開始した。乾燥した葉っぱをすり鉢に入れてごりごり砕いている。雪火は天狗の力を持つ久遠くおんさんに全部お任せすることにしたみたい。

 その彼を満足げに眺めたあと、久遠くおんさんは笑みを刷いて先生に声をかけた。


「彩は小夜さよを頼む」

「ええ、わかったわ。でも無茶はしないでね」

「俺様を誰だと思っている?」

「もうっ、またそんなことを言って」


 久遠くおんさんが身動きするたびに、首から提げた鎖みたいなシルバーのネックレスが音を立てる。

 最初に見た時はあまりに派手な服装のせいでびっくりしたし、正直チャラいなと思ってしまった。けれど、先生を見つめる深青の瞳はやわらかくて、声音も優しかった。先生は久遠くおんさんを軽く睨んではいたものの、二人の交わす視線には信頼が表れているような気がしたの。

 これが夫婦なのかな。

 すごく素敵だと思った。


「さて、行くか」

「……あの、本当に大丈夫ですか?」


 さっき九尾さんは、アルバくんと雨潮うしおくんが抜刀していると言っていた。カラス天狗だし実力的にあまり心配はないだろうけど、やっぱり不安は抜けない。九尾さんでさえ大妖怪化しないと難しいって言ってたもの。

 すると、久遠くおんさんは肩にかかる長い三つ編みを払いのけ、口の端をつり上げた。


「山に住んでいた時はこれでも大勢の鴉どもを従えていたんだ。喧嘩の仲裁くらい朝飯前なんだぜ?」


 瞬きをした一秒にも満たない短い間。久遠くおんさんの輪郭が溶けた。

 銀色の装飾品で彩られた革ジャンは、深い青を基調とする山伏衣装へ。黒く艶やかな長い三つ編みと鋭い瞳はそのままで、背中からは大きな黒い両翼が生えていた。小夜さよちゃんの小さな翼とは全然違う。猛禽類を思わせるような強靱な翼。呼吸に合わせてわずかに動いている。

 金属同士がこすれ合うような音が聞こえた。

 久遠くおんさんの手には青と銀の錫杖が握られている。もしかして、それが彼の妖刀なんだろうか。


「お前もあのばくが心配なら一緒に来い。そんな不安そうな顔をするな。怖いものなんか見せないから安心しろ」


 低く穏やかな声だった。この人がそう言ってくれるなら、きっとなにも怖いことなんて起きないに違いない。

 こくりと頷くと、たくましい腕がわたしの身体を引き寄せる。

 久遠くおんさんが不敵な笑みを浮かべた瞬間、視界の隅っこで黒翼が青い光に包まれたような気がした。

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