[5-6]鴉天狗と九尾の狐
たしかに嫌な予感はしていた。
初めて顔を合わせた時、妖刀で切り結んだのはまだ記憶に新しい。アルバくんと
顔を向かい合わせるアルバくんと
いつも通り居間に通じる
「
「え、
慌てたような声が返ってきた。珍しい。
素人のわたしにはよくわからないんだけど、お薬の調合は繊細な作業だからかなりの集中力が必要なんだとか。お仕事中はなるべく邪魔にならないようにしなくちゃいけない。
そっと襖を開けてから部屋に入ると、
その動作を
「いらっしゃい。ちょっと手狭だけど、適当に座ってください。
帰ってきてからすぐに準備してくれたのかな。テーブルの上にはお客さん用の分厚い座布団がいくつか準備されていた。
腹痛だって話だったのだけど、
「河野先生、わざわざお越しくださってありがとうございます。そして
「九尾の、狐……?」
九尾の狐はすごく有名なあやかしだ。今、目の前にいる男子生徒がそのあやかしに取り憑かれているなんて聞かされれば、びっくりするに決まっている。
予想通り先生はぽかんと口を開けて目を丸くしていた。その一方で、
「おや、天狗はやっぱりきみだったんだね。鴉天狗くん」
白い尻尾を揺らしながら九尾さんは
「この辺りで鴉天狗と言えば俺様だろ。他に誰がいるって言うんだ? それに俺様は彩に
「えー、いいなあ。アルバくんだけじゃなく、きみまで名前をもらったのかい? いいなあ、うらやましいなあ。ねえ、
「今忙しいから」
間髪入れずに、九尾さんはあっさりとフラれてしまった。揺らめいていた九本の尻尾がしおれた花のように、しゅんと下がっていく。
いつになく
「あれ、
「ああ。薬屋というより、九尾には前に一度会ってんだよ」
どうりでさっきから初対面って感じがしないわけだ。
九尾さんも懐っこく話しかけてるもんね。
「そうだったの? 私、全然知らないんだけど」
「そりゃあ、彩が知らなくて当然だろ。お前に会う前、
「ってことは、
「俺は九尾と同郷、京のあやかしなんだぜ?」
京っていうと、京都のことだよね。
どうして
「ふふふ。この町は私の縄張りだからね。
そう、
作業の手を止めずに、
「縄張りのチェックは細かいからね、九尾は」
「ふふん、当然だよ。
いつだって九尾さんはぶれない。
そんな幼馴染みがどうして九尾さんに名前をあげないのかはわからないけれど。
「――で、挨拶の時に言われてたんだよなあ。何か困ったことがあったら、うちの薬屋を訪ねてこいってな」
その
「驚いた。九尾がうちを宣伝してくれてたなんて。いつも店番頼んでもすぐサボるのに」
サボっちゃうんだ、九尾さん。なんて自由なあやかしだろう。すごく今さらな話だけど。
当の本人は機嫌良くお茶をすすっている。反省の色なんてみじんも感じられない。
「
「辛い目……?」
どきりと心臓が大きく波打った。
だって、九尾さんの声はいつものように弾んでいるのに、どこか切ない響きを感じたの。きらめくきんいろの瞳が意味深に少し細くなっている。
だからわたしは思わず
むしろ、話をはぐらかされてしまった。
「んなことより、放っておいていいのか? 外で元気に喧嘩してるやつらがいるみたいだぜ」
そしてその話はわたしにとっても
「えっ、ケンカ? あれ、そういえば千秋とアルバさんは!?」
「
頭の中でよみがえるのは、絡み合う深紅と藍の視線。両者は互いに口を引き結んで、睨み合っているようにも見えた。
二人を置いていくのは心配だった。
アルバくんはあやかしで、
「そうみたいだぜ? 若い衆は元気でいいよなあ」
やっぱり、わたしはアルバくんから離れるべきじゃなかったんだわ。玄関に残るか、一緒に居間まで連れてくるべきだったんだ。
半月が経ったけど、赤く染まったアルバくんの姿はまだ覚えてる。
苦しげに顔を歪ませていた彼の髪が、墨を染みこませる筆のように黒く染まっていく。
万が一にも、またアルバくんが邪気に侵されることになったら——。
「どうしよう。どうしたらいいの……」
完全に邪気が抜けきらなくても、ようやくアルバくんの耳も白くなってきた。浄化がうまくいくようになったのに。
弱音を吐いたら、
「……珍しく来客を出迎えに行ったと思ったらこれだよ。千秋のやつ、診察を手伝うと言っておきながら何してんのかなあ。僕が手を離せないことをわかっててやってるよね」
すごく珍しいものを見た。
不安だらけだったのに、幼馴染みの若干低くなった声を聞いていたら、ちょっとだけ沈んでいた心が浮き上がったような気さえしてきた。それくらい
「ははっ、そりゃ確信犯かもなあ」
こういう時、やっぱり頼りになるのは九尾さんかな。
「心配いらないよ、
「それはいいけど、この前みたいに大妖怪化するのはナシだよ。
「えー。それは忘れていないけれど」
機嫌をうかがうように、九尾さんがわたしに視線を送ってきた。勢いよくこくこくと頷いておく。
わたしだって、もうあんな尻尾お化けは見たくない。それに九尾さんはわたしの前ではあんな姿にはならないと約束してくれたもん。約束は守ってもらわないと困る。
「うーん、どうしようかな。千秋君もアルバ君も抜刀してるだろうし、生身でなんとかするのは少々難しいね」
「なら、俺様が止めて来てやろう」
立ち上がりながら、
「え、いいんですか?」
「お前らの口ぶりだと、できるだけ血を流さず平和的に解決したいんだろう?」
「はい。そうしてくださるなら、すごく助かりますけど」
わたしとしても、平和的に解決してくれるならすごく助かる。
特別な力といえばピアノだけ。振るう武器さえ持たないわたしでは二人を止められない。武器があったとしても、わたしみたいな普通の高校生が上手く扱えるとも思えないし。
「任せておけ。その間にお前は
「はい、分かりました。すごく、助かります」
ぺこりと頭を下げて、
その彼を満足げに眺めたあと、
「彩は
「ええ、わかったわ。でも無茶はしないでね」
「俺様を誰だと思っている?」
「もうっ、またそんなことを言って」
最初に見た時はあまりに派手な服装のせいでびっくりしたし、正直チャラいなと思ってしまった。けれど、先生を見つめる深青の瞳はやわらかくて、声音も優しかった。先生は
これが夫婦なのかな。
すごく素敵だと思った。
「さて、行くか」
「……あの、本当に大丈夫ですか?」
さっき九尾さんは、アルバくんと
すると、
「山に住んでいた時はこれでも大勢の鴉どもを従えていたんだ。喧嘩の仲裁くらい朝飯前なんだぜ?」
瞬きをした一秒にも満たない短い間。
銀色の装飾品で彩られた革ジャンは、深い青を基調とする山伏衣装へ。黒く艶やかな長い三つ編みと鋭い瞳はそのままで、背中からは大きな黒い両翼が生えていた。
金属同士がこすれ合うような音が聞こえた。
「お前もあの
低く穏やかな声だった。この人がそう言ってくれるなら、きっとなにも怖いことなんて起きないに違いない。
こくりと頷くと、
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