[5-7]天狗の羽団扇とバケツの水

 やわらかな風が頬をなでた。

 カラスの羽を思わせる久遠くおんさんの髪が揺れている。どうして室内なのに、風を感じるのだろう。


 ふわりと身体が宙に浮いた。


 背中に腕を回されていて、目と鼻の先には久遠くおんさんの端正な顔がある。

 先生の旦那さんだからかな。異性のひとなのに、抱き寄せられても不思議と怖くなかったし、ときめきも感じなかった。

 やわらかく和ませた彼の瞳は、お父さんと同じ優しい色をしていた。




 金属同士が激しくぶつかり合う音が聞こえてきて、はっとする。

 あやかしの力——天狗が持つ神通力と呼ばれる力、なのかな。理屈はよくわからないけれど、一瞬のうちにわたしと久遠くおんさんは家の外に出ていた。


「おー、おー、派手にやってんなあ!」


 久遠くおんさんはすぐに離れてくれた。頭上に手をかざして愉しげに笑っている。

 正直なところ、わたしは彼のように平常心ではいられない。


 ログハウス風の家の真横にはちょっとした空き地がある。アルバくんと雨潮くんは少し開けたその場所で刃を交えていた。

 鈍色の刀身が鋭い音を立てて何度も重なり合う。

 まるでドラマで見るバトルシーンみたいだけど、二人が持っているのは紛れもなく本物の武器だ。その切っ先が相手の衣服ごと身体を貫く可能性だってある。


 アルバくんは幻術を解いて、もとの姿で応戦していた。

 頭上にある猫みたいな三角耳も尻尾も、動くたびに馬の尻尾みたいに揺れる髪も白いままだ。


(よかった、邪気に侵されてない)


 心の底から胸をなで下ろした。


紫苑しおん、お前はここを動くな。何があってもあいつらの間に割って入ろうとか考えるんじゃねえぞ。お前が動いちまうと最悪怪我させちまうし、平和的な解決がますます難しくなるからな。約束できるか?」

「はい、お約束します」


 素直にうなずくと、久遠くおんさんは相好を崩した。


「よし、いい子だ」


 頭を思いっきりなでられた。髪がぐしゃぐしゃになった気がする。

 でも人懐っこく笑う久遠くおんさんを見てたら、文句の言葉も引っ込んでしまった。

 やっぱりお父さんみたい。


「これをお前にあずけておく」


 そう言って久遠くおんさんは懐からなにかを取り出して、わたしに差し出してきた。言われるままに受け取ったものの、それが何なのかわからなかった。

 カラスのような鳥の大きな黒羽根を何枚も重ねた扇子、なのかな。ううん、違う。取っ手があるから、たぶん団扇うちわだ。

 漆とかで塗っているのかな。短くて黒い取っ手の先に赤い組紐が取り付けられている。


「これって、団扇ですか?」

「ああ、俺様の羽根で作ったもんだ。持ってるだけで悪いものを退けてくれる代物だぜ? 失くすなよ」

「ええっ」


 危うく団扇を取り落としそうになった。

 扇子型に重ねられた大ぶりの羽根は光の加減で青く光る。


 顔を上げると、久遠くおんさんはたのしげに笑っていた。その彼の背からカラスのような漆黒の両翼が見える。


 もう一度、手もとにある団扇を見つめる。

 大ぶりの羽根。カラスの濡羽ぬれば色のように黒く艶やかで——。


 言われたことがすとんと胸のあたりに落ちた。その瞬間、わたしは叫んでしまっていた。


「羽根をむしったんですか!? だめですよっ! 自分を、大事にしなきゃ!!」


 家族がいるのに、お父さんなのに。まだ小さい、娘の小夜さよちゃん。それに先生という奥さんだっている。

 そりゃわたしのお父さんよりも若いし、あやかしだから強いかもしれないけど。


「羽根むしるくらいどうってことねえだろ。俺様を誰だと思っている?」

久遠くおんさんですよっ」


 怒りにまかせて答えたら、久遠くおんさんは声をあげて笑った。お腹をかかえいて、今にも笑い転げそうな勢いだ。

 ひどい。なにがそんなにおかしいの。

 あからさまに睨みつけたら、久遠くおんさんはにやにや笑って、またわたしの頭をわしゃわしゃなでてきた。

 まったく反省の色がない。わたし、怒ってるんですけど。


紫苑しおん、重ねて言う。危ないから動くんじゃねえぞ」


 仕上げとばかりに、久遠くおんさんはわたしの頭を軽く叩いたあと、くるりと背中を向けた。

 不思議な光沢を放つ闇色の両翼が弓なりに持ち上がり、大きく広がった。

 刹那。


 ――がきぃん。


 今まで聞いてきた中でひときわ甲高い音が大きく響いた。

 アルバくんの妖刀が、根元からポッキリ折れてしまっていた。


 うそ、妖刀って折れちゃうことがあるの。


 なのに雨潮うしおくんの瞳に宿った敵意は消えていない。制服を着ているし、いつもと変わらない姿のように見えるのに、妖刀を握る彼はまるで別人だった。

 燃えるような炎色の瞳が見開かれる。なにかに魅入られたかのように、雨潮うしおくんは力に任せて刀を振るう。真横から刀を凪ぎ、アルバくんに追い打ちをかけようとしている。


 鈍色の刃がアルバくんに迫っている。

 なんとしても止めたかった。けれど、久遠くおんさんには動くなと言われている。言う通りにすれば、平和的に解決してくれるとも。

 視界の隅で青い光沢を放つ団扇がちらついた。

 もうすがるような気持ちだった。団扇を両手で握りしめながら、あてのない祈りを捧げる。


 お願い。アルバくんを助けて――。


「喧嘩はそこまでだ。二人とも刀を鞘におさめろ」


 しゃらん、と耳障りのいい音が聞こえた。

 思わず閉じてしまった目を開けると、わたしはほっと胸をなで下ろした。本日二回目だ。

 久遠くおんさんは銀と青の錫杖で雨潮うしおくんの刀を押しとどめ、下駄を履いた左足でアルバくんの腕を踏みつけ動きを封じていた。


「……あ」


 大きく見開いた藍の目がすうっと細くなる。

 険しかった顔がうそみたいに引いていき、アルバくんは真顔になった。冷静さを取り戻したみたい。

 藍色の刀から手を離すと、アルバくんの妖刀はたちまち消えていった。あれが鞘におさめるってことなのかな。


 けど、まだ解決はしていない。

 雨潮うしおくんの瞳は燃え上がる炎のように真っ赤だった。まるでいつか見た、ぬえのような爛々とした赤い目と似ている。それか獲物を狙う獣のような。


「邪魔をするな!」


 半月前の公園でもそうだった。西日に照らされながら、アルバくんと対峙した雨潮うしおくんはなにかに取り憑かれたように、ひどく攻撃的だった。

 いつもは口数が少ない、クールな感じの男の子なのに。


「おー、おー、熱くなってんなあ! もう一度言うぜ。喧嘩はそこまでだ。俺様の命令は絶対だ。従ってもらうぜ。ばくはもう刀を鞘におさめてんだ。それでもやめないつもりか、少年」

「誰が少年だっ! やめないと言ったらどうするつもりだ?」


 身がすくむほどの怒りをぶつけられても、久遠くおんさんの表情は崩れない。雨潮うしおくんの刀を押しとどめたまま、悠然と微笑んでいる。

 力比べでもするつもりなんだろうか。久遠くおんさんはどうやって、雨潮うしおくんを止めるつもりなんだろう。


 突然、久遠くおんさんは空いている左の手のひらを空に向けた。人差し指と中指を立てたまま他の指を握りこむ。じゃんけんの「ちょき」にも似た形だ。

 指先を上へ向けたまま腕を上へ掲げた。


 なに、してるんだろう。


 ふと疑問に思って視線を上へ向けて、言葉を失った。

 なぜか雨潮うしおくんの頭上にバケツが浮いている。

 ちょっと待って。中にはなみなみと水が入ってるんだけど!?


 久遠くおんさんがなにをしようとしているのかわかったかもしれない。けど、もう遅い。声をかける暇なんてなかった。

 彼は嬉々とした表情で手首を返し、二本の指を勢いよく下ろした。


 ばっしゃあん!


 雨潮うしおくんは頭から水を盛大にかぶっていた。制服はびしょぬれ。銀色の髪からぽたぽたと透明のしずくが落ちていく。宙に浮いていたバケツがひっくり返ってしまったのだ。

 最後の仕上げとばかりに久遠くおんさんが握っていた手をぱっと開くと、そのポリバケツは雨潮うしおくんの頭の上に落ちた。真っ逆さまにおちたせいか、バケツはことんと軽い音を立てて、雨潮うしおくんの顔をすっぽり覆ってしまった。


「こうするんだよ。どうだ、頭が冷えただろ?」

「…………」


 これは逆に怒りをあおってしまうんじゃないのかな。

 落ち着かない気持ちで見ていたら、なんと雨潮うしおくんは無言のまま妖刀から手を離した。紅の刀は跡形もなく塵のように消えていった。


 その様子を見て、久遠さんは満足げに笑う。


「お前は半妖にしちゃかなりのもんだが、鬼が持つ衝動を制御できないようじゃまだまだだな」


 雨潮うしおくんはもう、なにも言わなかった。深紅の双眸も凪いだように穏やかだ。普段のクラスメイトに戻っていた。

 すごい。久遠くおんさん、ほんとに誰も傷つけずに喧嘩を止めちゃった。


「アルバくん、怪我はない!?」

紫苑しおん! ……お前、なんで靴下だけなんだ?」

「だって緊急事態だったんだもん! 久遠さんが連れてきてくれたんだよ?」


 言われて初めて、わたしは自分の恰好に気付いた。

 室内から一気に屋外へと出てきてしまったから、足になにも履いてなかったんだわ。紺色の靴下が土で汚れてしまっている。でもそんなこと気にならないくらい、アルバくんことしか考えられなかったんだもん。


 アルバくんはばつの悪そうな顔をして言った。


「悪かったな、心配かけて」

「本当だよ。すごく心配したんだからっ」

「ごめん」


 耳や尻尾、髪も全部白いままなのに、アルバくんの顔色は悪く、沈んでいた。今にも倒れそうなくらいに。

 もしかして体調が悪いんだろうか。さっき妖刀が折れたことと関係してるのかな。それとも他になにか理由があるの?


紫苑しおん、それは?」

久遠くおんさんの団扇だよ。あずかっているように言われて……」


 見慣れないものにアルバくんも興味を持ったらしい。よく見えるように見せてあげたら、彼は藍色の双眸を大きく見開いていた。

 不思議な光沢を放つ黒い団扇をじっと見つめている。まるでなにかに取り憑かれてるようだった。


 なになに? 今度はどうしちゃったの。


「……大天狗の羽団扇はうちわ、か」


 もしかして、この団扇のことについてなにか知ってるのかな。

 そっか。たしかに言われてみれば羽根でできてるんだから、羽団扇だよね。


「アルバくん?」

「いや、なんでもない。その団扇は紫苑しおんがそのままあずかっているといい。悪いものから守ってくれる」

「う、うん」


 久遠くおんさんと似たようなことを言ってる。やっぱりただの団扇じゃないんだ。

 うなずくと、さっきまでの悲壮な表情だったのが嘘のようにアルバくんは満面の笑みを浮かべた。


「さて。久遠くおんにもちゃんと謝らねえとな。紫苑しおん、本当に悪かった」


 そう言った彼はまるで憑きものがとれたかのように、すっきりとした顔をしていた。

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