[3-6]絶望の涙とあたたかいタオル
目を開くと、見慣れた蛍光灯と木目調の天井が見えた。
「
低くて穏やかな声。
ぼうっとする頭を少し動かしたら、心配そうにのぞき込んでくる黒髪の男の子が見えた。
近所に住む幼なじみの
どうしてここに
頭を動かして部屋を見渡してみる。
乾いたハーブのにおいがする。畳にふすま、ちゃぶ台が置かれた純和風の部屋だ。明らかにわたしの部屋じゃない。
その隅っこに見たことのある人が二人。
「あれ。ここ、
「そうだよ。
にこりと笑って
そっか、わたし倒れちゃったんだ。また
ちょっと待って。そもそもわたし、どうやって町中の公園から
「あれ。わたし、どうやって
市街からこの山間地区までバスでも二十分はかかる。車ならもっと早く行けたりするけど、
そもそもの話、どうしてわたしは倒れたりしたんだろう。
「あっ、それはね……」
ぷつりと意識が切れる直前の記憶が、頭の中で一気に流れてくる。
身体をふるわせてうずくまった
日本刀を振りかざした
オレンジ色の光をあびて、背中を真っ赤に染めたアルバくん。身を挺してわたしを守ってくれたんだ。
なんでこんな大事なことを忘れてたんだろう!
「
「おれなら初めからここにいるぜ」
がばりと起き上がってみれば、アルバくんは
分厚い座布団の上でいつものように胡座をかいていた。青ざめていた顔色も今ではすっかり良くなっている。汚れていた着物も白色で、何事もなかったかのようにきれいなまま。
だけど、その前合わせの衣装から白い包帯がのぞいていた。公園での攻防は夢じゃなく現実だった証拠だ。
「あ、アルバくん、髪が……」
アルバくんの雪色の髪が灰色になっていた。それだけじゃない、その先端は墨を吸わせた毛筆のように、墨色に染まっている。
時々動く尻尾の先端も墨色。頭の上にある三角耳は完全な墨色になっていた。
逆戻り、ううん、初めの頃よりも悪くなっている。
「あー、これか。まあ気にすんな。お前のせいじゃないんだし」
ぼそりと言ったアルバくんの声が、今は遠くに感じた。
目の前が真っ暗になる。
夏休みが終わるまでの間、悪夢しか見なくてすごくもどかしかった。
五年ぶりに始めたピアノは毎日こつこつ練習していた。メヌエットを弾いた時はうまくいったけど、現役時代に好きで弾いていた曲はやっぱりうまく指が動かせなくて。ブランクを感じて焦った日もあった。
それでも時間をかけて練習を重ねていたのは、大好きなあの曲――キラキラ星を、アルバくんにちゃんと聞かせたかったから。
難しい曲なら前よりもたくさん浄化できる。それだけを信じて頑張ってきたのに――。
「げっ、し、
気がつくと、視界がぐにゃりとゆがんでいた。あふれだしたなにかが頬をつたってぼたぼたと流れていく。
「……
泣いてちゃだめだ。泣きやまなくちゃ迷惑になっちゃう。
そう思うのに、止まんない。どうしよう。
「泣くなよ。おれは大丈夫だからさ」
アルバくんはわたしの頭をなでてくれた。朝はあんなに機嫌が悪かったのに、今はとても優しい声をしてる。
すごく安心する。
瞬きしたら、また涙があふれて流れた。
「だって、アルバくん……っ、邪気がたまったら、身体に悪いって……」
「そりゃ身体に良くねえのはたしかだけどさ、ちゃんと
なんで九尾さんに妖力分けてもらう必要があったんだろう。
やっぱりひどい怪我のせいなのかな。
「
「そうなの?」
目をこすろうと思ったら、アルバくんがタオルを渡してくれた。
それを手に持ったまま嗚咽をもらしていたら、タオルを奪い取られる。軽く瞼に押しつけてアルバくんは涙を拭いてくれた。
「あやかしたちの身体はね、妖力でできているから傷も妖力さえ補充できればすぐに塞がるんだよ。アルバさんが多少無茶したのは九尾から妖力を分けてもらうのを視野に入れてたみたいでね、だからもう大丈夫なんだよ」
「じゃあ、邪気の方は……?」
「とりあえず今は自我を保てているみたいだし、大丈夫。たしかに前より症状はひどくなっているけど、すぐにどうにかなる状態じゃない。これからどうしていくかはまた一緒に考えていこう? アルバさんにもそう伝えてあるんだ」
「うん……」
ぎゅうっと締め付けられていた心が不思議と軽くなる。
アルバくんのあたたかい手と
「
座布団の上からすっと立って、九尾さんが軽やかな足取りで近づいてきた。たぶんずっと正座してたと思うのだけど、どうしてしびれたりしてないんだろう。あやかしだから?
心配そうに眉を下げて気遣う顔。いつもの九尾さんだ。
ただ、その背後で揺れる白い尻尾を見たとたん、思わず身構えてしまった。
黄昏時に見た尻尾は大口を開け、
今は九尾さんの背後でゆらゆら揺れているけど、またあの時みたいに尻尾が二つに割れそうでどきりとする。
「
頭の上にある大きくて白い三角耳はシュンと少し下がっていて、同時に尻尾も同じように下がる。
その動きが九尾さんの気持ちを代弁しているようで、なんだか申し訳ない気持ちになった。
アルバくんが今無事に手当てを受けて元気にしているってことは、九尾さんが助けに入ってくれたから。怪我をしていたし、急いで助けようと張り切ってしまったのかもしれない。
「びっくりしちゃっただけだから、大丈夫よ、九尾さん。わたしの方こそごめんなさい。せっかく助けに来てくれたのに」
「許してくれるのかい、
ずいぶんと気にしてるみたい。まるで自分に言い聞かせるように九尾さんは言った。
「さて、もう日が暮れちゃったしごはんにしようか。悪いけど、九尾と
「なんで俺まで……」
「バスの時間はもう終わってるし、今日はどうせ泊まることになるでしょ」
「お前が無理やり連れてきたんだろ」
「そりゃ家じゃないと落ち着いて話もできないしね」
そっか。どうして
「わたしも手伝うよ、
「
「ああ、任せておけ」
ちゃっかりと二つ返事でアルバくんは頷いてしまった。お手伝いしなくていいなら甘えてしまおうかな。
機嫌がよさそうな九尾さんと不機嫌そうな
ふすまを閉める直前、その幼なじみはなぜかわたしを見て、意味深ににこりと微笑んでウインクした。
え。なに、どういうこと? なにかのサインなの?
今日起きた出来事を頭の中でめぐらせてみる。
――アルバさんが
午後の休み時間にかわした
ええっと、待って。ちょっと待って。
ということは、つまり。
今、ここでアルバくんにわたしのことをどう思っているか、聞いちゃえってことなの!?
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