プロローグ6 眼
その様子を遠目に眺めている人物がいた。
年の頃は十五前後という少女、その顔立ちはまだ成長過程であどけなさを残していて、どこか人懐っこさを感じさせる東洋系。
髪は何一つ変色加工を施されていない自然体の黒で、それを頭の両側、高い位置で二つにまとめてツインテールにしているが、元がそれほど長くないせいで肩まで届いてもいない。
「ありえないですよねぇ」
どこかの高層住宅の屋上、周囲に人がいないせいか、少女はそんなことを声に出して呟く。
というか、この高層住宅、屋上に人が出られるような造りにはなっていない。どうやってそんなところにライフルを持って上がって狙撃ポイントを構えたのか疑問で仕方がないが、兎にも角にも、少女はたった今目の当たりにした事実をここにはいない上司に報告するべく、小型端末を取り出す。
数回のコールの後、相手へと繋がり通信状態となった途端、向こうが何かを口にする間もなく用件を切り出す。
「《絶対零度》の捕獲、どうやら失敗したみたいですよ」
用件を切り出すときの定型句も前置きもあったものじゃないが、端末の向こうも慣れてしまっているせいか、戸惑った様子なく応対してくる。
『は? 失敗? あの人員と作戦でか?』
しかし報告の内容に対しては想定外だったのか、どこか頓狂な声だった。
「はい、失敗です。あの人員と作戦で」
『……何があった?』
「想定外の乱入者、でしょうか。それで一気に風向きが変わりました」
通信しながらも片手で構えたままのライフルのスコープの向こうには、未だ少女を連れて走る一人の少年の姿がある。
と、その少年が突然、スコープ越しに、明らかにこちらに視線を合わせて舌を突き出してきた。
「……っ!!」
飽くまで淡白に、無表情に、しかし茶目っ気たっぷりに。
スコープから顔を外し、改めて少年がいるであろう方角に目を向けるが、もちろん肉眼で視認できる距離ではない。
――感染者でもなければ、の話だが。
そんなこちらの事情など露知らず、端末の向こうからは焦れたような声が返ってくる。
『一体どこのどいつだ』
「……ど、どこかの高校生みたいです、よ?」
いつでも狙撃できるよう、再びスコープ越しの少年の姿を捉えながら答える声にも、思わず畏怖の色が混じってしまう。
『高校生? 感染者じゃないのか? 民間人なのか?』
あの少年は一体何者なのか。
そんなものはこっちが知りたい。
「さぁ? とりあえずどっかの制服着てますね。感染者の可能性は捨てきれませんけど」
『んで、そいつが乱入してきて何をしたって?』
「《絶対零度》を遠距離尾行していた人員をすべて気絶させて回り、追跡用の小型ドローンも全部破壊、手榴弾をばら蒔いて廃ビルの三階から《絶対零度》を抱えて飛び降りて、今なおばりばりノーダメで逃走中です」
『毎回言ってると思うが、報告はもっと具体的にしろ。……ってか虚偽の報告してるわけじゃねぇだろうな?』
「そんなことするわけないじゃないですか。めんどくさいので色々ハショリましたけど、嘘は言ってませんよ?」
今度は臆面もなくぶっちゃけた少女に、通信の相手は盛大に溜め息をついて押し黙った。何やら黙考している気配。
返答を待っている内に、スコープの向こうでは二人が建物の陰に消え、その段になって少女はようやくスコープから顔を離した。
あの二人を追跡していた人員はともかく、どうやって上空三十メートルを飛ぶドローンを破壊した?
その辺の石を拾って投げつけるという、この上ない原始的な方法で。
ちなみにこちらのドローンもあの少年が投げた石も、一般的な大人の拳大という、ほぼ同サイズ。
にも関わらず、十台ほどのドローンがほぼ一球ずつで落とされた。
腑に落ちない点は多い。
身体能力の向上に加え、何らかの特異な能力を発現した感染者という人種でも、人間一人を抱えて三階から飛び降り、難なく着地してそのまま走り去るなどという芸当ができる存在は少ない。
それを一般人と思われる一介の高校生がやってのけたなどと、実際にこの眼にでもしていなければ誰が信じるだろうか。
能力的にただの人間であるはずの一介の高校生が、この距離でスコープ越しにこちらに視線を合わせてくるなど。
『よし、その高校生尾行しとけ』
「すいませんたった今見失いました」
『……そうか。じゃあ決まりだな』
端末の向こうからは深い溜め息が聞こえてきた。
プロの尾行を撒き、さらにはその監視の眼からも逃れ得る能力。
それらから導き出される結論は一つしかない。
少女は息を飲む。
そして沙汰が言い渡される。
『今日の晩飯はお前の奢りだ』
「そんなぁぁぁぁっ!」
誰もいない高層住宅の屋上からとっくに夕食時の過ぎた夜の空へと、ツインテール少女の絶叫が響き渡った。
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