後編 人魚の涙

 ヒトの世は、海のそれよりも慌ただしく、争い移ろいが絶えぬようです。


 此度もまた、天下を揺るがす合戦が遠く離れた都にて起きているとか。跡目争いは自然の中にも多く見られますが、こんなにも多様な思念渦巻くのはヒトだけではないでしょうか。


 ある夜、いつものように月を見て唄うわたしは、逃げのびてきた京妖怪の親子を助けたのです。

 戦火に巻き込まれ傷ついた幼子を連れた母を、真水の湧き出る秘密の井戸まで案内致しました。水で傷を癒した子はみるみるうちに元気を取り戻し、わたしはたいそう感謝されたのです。


 母妖怪は何かお礼をと云いましたが、わたしは当然のことをしたまでですとお断りしたのです。

 海峡を越えてしまえば、一旦は争いの火からも逃れられましょう。

 久方ぶりの大きな戦の予感に、わたしは胸がざわめき月をふと見上げました。


「お嬢さん、いひとがおりやすのかぇ?」


 細面ほそおもての顔で優しく微笑みながら、その母妖怪は云いました。

 わたしはどぎまぎしてしまいました、何も云っていないのにどうしてわかったのかと。


「……でも、わたしはこの海峡に棲まうクジラですから」

「あら、お相手さんは陸のお方かぇ? でもそんなこと関係あらへんよ」

「……?」

「ヒトの形になれる秘薬が霊験あらたかな海の底にはあると、よう聞きますぇ。此の浦に沈んだ神器のお話は有名どすが、どんな願いをも叶えてくれる宝珠ほうじゅがあるとも」

「ほんとうですか?」

「ええ、せやからようけヒトや物の怪の類が、浦を荒らしに来やるでしょう」

「でも、そんな大切なものを……」

「あらぁ、悪いことに使おうとするからあきまへんのや。お嬢さん、えろう優しい子やから、竜神様も許してくれはりますちゃうのん?」


 そうでしょうか?

 わたしが、ヒトの姿に? あの方のお側を歩けるように?

 それが叶うのならどれだけ幸せなことでしょうか。

 ふむ、と迷うわたしを見やると、海辺に佇む京妖怪の方は耳元に口を寄せ、ぽそりと呟きました。


「お嬢さんの好いヒト、いつも危うい目に逢うとりまへん? 凶兆きょうちょうが見えますぇ? 一緒になりたないん? はよう知らせな……」


 えっ——?


 はっと顔を上げればその姿はもうどこにも見当たりません。

 胸騒ぎがして、わたしは急ぎ渦潮の底へと引き返しました。今は葉月の始まり、彼のお方は気まぐれですが、いつもなら来ないはず……。


 でも、本当に、ほんとうに?

 わたしはヒトの姿になれるのでしょうか?

 それが叶うなら、叶うのなら——。




***




 急ぎ水底に戻りゆくその白き姿を眺め見て、陸の上には狐火がひとつ。


「ほんに、純粋でええお嬢さんやわ、堪忍しておくれやす」


 ニヤリと嗤う、その細面は狐の顔へ。腕にいだかれし子は毒蟲へと変わり四方へと。


「わっちはねェ、あの鬼子おにごの澄まし顔が歪むんが見られるんやったら、なんでん試しとうなるのよのぅ……」




***




 竜神さま、わたし名をくだすった彼のお方のおそばへゆきたいのです。

 真珠をヒトの姿へと変えてくださりませぬでしょうか? ご恩を返し、その身をお助けしたいのです。


 竜神さまはたいそう驚きになりました。

 わたしがこんな必死にお願い事を口にしたことなど、一度もなかったのです。それに——。


「真珠や、その話をどこで?」

「怪我をした京の妖怪を助けたところ、その母妖怪より聞きました」

「……そうか、京にまで知られておるか」


 ふぅと竜神さまは深く考えなさるように目を伏せられました。


「なぁ真珠や、私はお前を本当の娘のように思っておるのだ。本当に……あの鬼子と一緒になりたいと願うのかい?」


 鬼子とは、空也さまのことでしょうか。

 一緒に……なんてそんな大それたことを。これはわたしの一方的な想いですもの。


「真珠や、よぉくお聞き。お前があの鬼子を好いておるのは皆が知っておる、でもそれを見守ってきたのはアレに悪意がなく、海と陸とで隔たれ……お前たちが一緒になることが叶わぬからじゃ」


 存じておりますよ、わたしクジラですもの。

 だけど、そうではなくて……。


「いんや、真珠。お前は心が綺麗すぎるのじゃ。アレの血は穢れておる、ヒトでもなくあやかしでもなく、精霊でもない。もっと悍ましいものじゃ……アレが幾らおのが善意で動いていようがもはや此の世のものではない。絶対に、此の世のものとは交じることのないものじゃ。アレのためにお前が命をかけてはならぬよ、可愛い真珠や」


 命? 命とはなんです? わたしはただ……。


「ここに『人魚の涙』と呼ばれる秘薬がある。これはお前の言うヒトの姿を手に入れられる薬じゃ。ヒトが飲めば強すぎる故に万能の薬、不老長寿の薬となろうな。しかし願いをもってこれを飲めばお前はその声を失う、そして想いびとにその想いが通じなければお前は泡となって消えてしまうのじゃ」


 そんな、声を、失くすだなんて。

 皆がお褒めくだすった声なのに……。


 その時、ずううううん、と海が揺らぎました。

 何か、何かとてもよくないものが、この海を、渦潮の底を目指してきております。


 はたと竜神さまを見れば、その煌びやかな両の目でまっすぐわたしを見据えておいででした。

 竜神さまは、この異変にとうの昔に気づいていらっしゃったのです。


「なぁ真珠。私もお前には幸せになって欲しいのじゃ。意図せずしてそのような長寿をその身に宿してしもうておる身、どうかこの老いぼれの身を想って幸せな道を歩んではくれまいか?」


 そこでお話になったのは、宝珠を持ちここをすぐに離れ、竜神さまのご兄弟のご子息、名のある竜王さまへのお嫁入りせよというものでした。


 わたしは、泣きながら首を横に振ります。

 そんな、わたしだけ逃げるなんてことはできません。


 ああ、竜神さま。ご恩は一生忘れませぬ。

 まるで知らぬ親のように、いえ親以上にお慕いしておりました。

 しかしながら、この真珠の、生涯最後の我儘を。親不孝をどうかお赦しくださいませ。


 わたしはあのお方の元へと参ります。

 たとえ通じずとも、共に生きられぬとしても。


 竜神さまは目を伏せ、一度わたしを抱きしめてくださいました。


「良いか。これを飲めばお前はもう鯨には戻れぬ、海を自由に泳ぐことも。だから陸地に辿り着きし時に使いなさい」


 愛しい真珠や——。

 そのお言葉が紡がれると、海の精霊たちが一斉にわたしの元へと集まってきました。皆泣いております、しかし、海は今までにないほどの思念を孕み渦巻いてきております、皆今生の別れのように涙を流しました。



 波は荒れ狂い、渦潮はまるで天を目指そうと盛り上がるかのよう。

 何故? どうして? 浦がこんなにも荒ぶるなんて。


 水面みなもに顔を出せば、ぞわりと。

 これは、これは一体——。


「真珠! はよ戻りぃ!!」


 聴き間違うことのない、お声が響きました。

 荒波の中、必死にわたしはお揃いの白を探します。

 空也さま、空也さま、どこにいらっしゃるのです? いつもなら一目で見つかる貴方のお姿が、何処にも見えぬのです。


「真珠っ! 海に潜るんや! はよぅ逃げぇ!!」


 海面に出れば数多のヒトの目、目、目、目がそこに。

 ぐるりとまるで浦を取り囲うように水軍が——。


 ぞぼっ——。


 顔を何かが掠め、痛みに、銛を打ちこまれたのだとわかりました。

 どうして?? ヒトはここ何百年も、浦での掟破りは御法度となっていたはず。


 空也さま、何処です? お逃げくださいませ。

 何か、何かがおかしいです。


 

「いたぞ! 白鯨だ! 不老不死の妙薬になるってのは奴だ!」


 えっ? なんと? 今なんと云いましたか?


「生き死には問わんそうだ! ただしその心の臓だけは傷つけるな!」


 うそ、うそ、わたし? 宝珠でもあのつるぎでもなく。

 ヒトは、永遠の命を望んでそんな根も葉もない噂噺を信じてわたしを捕らえにきたというのですか?


 違う——。


 ヒトは、宝珠も、つるぎをも手に入れようとこの浦に集まっておったのです。

 わたしなぞただの前哨戦。一番に狙いやすい、格好の獲物。


 どっ、どっ、どっ、と次々に銛は打ち込まれ、つるぎを奪わんとするヒトと怨霊、宝珠を奪わんとするヒトと海の精たち、浦は阿鼻叫喚の地獄絵図と化しておりました。


 痛いっ、いたいいたい!!


 銛が一つ、尾を貫通し、縄でわたしの身体は引かれてゆきます。必死の思いで暴れましたが、尾がちぎれそうな痛みに苦しむばかり。

 気づけば背びれや胸びれも貫かれ、もがけばもがくほど縄が食い込み逃れられません。

 竜神さまも海の精も、あまりのヒトの多さに悲痛な眼差しでこちらへ来ることも叶わず叫んでおられるのが見えました。


 ああ、どうして? わたしがヒトを、誰かを恋しがり、水面で唄うその姿がいけなかったのでしょうか。

 ごめんなさい、ごめんなさい。


 数多のヒトの目、銛の切っ先がわたしの方へ向くのを感じ、恐怖でわたしは目を閉じました。


「真珠ーっ!!」


 ぞばぁっという音と、風が薙ぎ。目を開けば遠くそこには、お逢いしたかったおひとの姿が。

 たくさんヒトを殺めながら、それでも舟の上を駆けてきてくださったのか。

 真っ白な彼の姿は血に染まり、それが誰のものかも判別はつきません。


 手で払えば大風が起こり、細腕を振るわばヒトの身体が消し飛びます。

 

 ああ、しかし。もうやめて。おやめくださいませ。


 幾ら空也さまが鬼子で、ヒトではない力をお持ちだろうと。

 数が、数が多すぎるのです。


「その子には何もせんといてや!」


 ヒトを沈め、血に塗れ、向かう貴方の白いお身体を、幾つもの槍や弓矢が貫いてゆくのです。


 空也さま、わたしなんぞより、貴方が、貴方が死んでしまいます!


 鎧兜を握りつぶし、血をごぼりと吐きながら、幾多の槍に貫かれつつも紅に染まったお姿でよろよろと空也さまはこちらへ。


 もう、後生ですから。どうか、おやめくださいませ——。


「真珠っ!」


 ずぉんっ——。


 物凄い音と共に、わたしは海の中へと押しやられました。


(何、なにがおきたのです……??)


「真珠、ごめんなァ痛かったなァ」


 あ、あ、あ、ああああああ。


 隣に漂うのは血の塊のような。

 愛しいお方の半身のないお姿でした。


 わたしの代わりに、銛に貫かれてしまったのですか? 何ということを……。


「真珠、はよゥにげぇ……」


 喋らないで、潮の流れで、貴方が砕けてしまう。


 それでも空也さまは半分欠けたお顔で、にこりと微笑み、わたしに刺さった銛を抜いてくださいました。その度に、大量の血が失われていきます。

 嫌です、いやです、逃げても真珠はひとりぼっちです。どうか置いていかないでくださいませ。


 ごめんなさい、ごめんなさい。

 水底があたたかいだなんて云ってもらえた時、いっそ貴方を引き摺り込んでしまおうかとも思ってしまいました。

 愛しております、この白きクジラが心よりお慕いしております、貴方が陸に棲まう何者だって構いません。だからどうか、ひとりにしないで……。



 ——はっと、己の流した涙で思い出しました。


 もしかしたら。

 ヒトの姿になれば、貴方と共に歩めるかもしれぬと。

 貴方は優しいから、つい期待して夢を見てしまいました。

 愛してくださるかもしれないだなんて、わたしごときが。


 足なんて要りません、声も要りません。

 だけど、このお方を助けて浜まで泳ぐ力をください。

 このお方を救ってください——。



 けれども願い虚しく。

 取り出した『人魚の涙』の小瓶は、銛に貫かれた衝撃で砕けておったのです。



 うっうううっ、うわぁああああっ。



 ヒトも、魑魅魍魎も、棲まう精霊も。

 多くが死に傷つき、残酷なまでに争いは終わりを迎え。

 

 ——静まり返った海に、一声大きく啼くクジラの声。


 その悲しみに誰ぞ呼応したのでしょうか。


 わたしのこぼした涙が光り。

 お月さまから、ぼとりとしずくが零れ落ちたのでした……。







***





 ちゃぷん、ちゃぴん、と水音がします。


 身体がひどく重だるいです。

 わたしは、眠っていたのでしょうか。


「おはよう、真珠」


 ん? んんんん?


 これは、まさかっ——。



「ばぁぁあああっ!!!!」


 っきゃぁぁあああああ!!!!


「ッケケケケ、おっどろいてやんのォ」


 目の前には忌々しいあのヘンな箱、大口を開けてわたしの視界を独占しています。

 何と失敬な、淑女レディの寝起きに……。


 はっと意識が明瞭になり、少し痛む頭をもたげれば、そこは浅瀬。

 わたしの身体は……白いクジラのままでした。


 ううっ、神さまのお情けで、ヒトの身体になっている夢をみておりましたのに……残念。


「真珠、助かったわぁ、ありがとうな」


 はっとして声の方を見れば、わたしの胸びれの上に寝そべるように——。


 空也さまっ、ご無事です?

 お顔は? 半身はどうされたのです?


 いつもよりさらに白く見える空也さまは、されども五体満足、どこも欠けてはおりませんでした。


「この大莫迦やろうがっ! 何で俺っちを置いてったんでぃ」

「……もう少し静かに喋ってやァ、あちこち痛ぅして」

「こンのォ、クソ莫迦やろうが! 俺っちなんざァ沈んだところで死にゃしねーんだ、一向に構いやしねェ、なのにこんなっ」

「まぁまぁ……」


 がんなり声が響く中で、優しい手がわたしの頰をゆるりと撫でてくださいます。

 くすぐったいです、でもとっても嬉しいのです。


「たすかったんやァ、そない怒らんでもなァ?」


 ちぃっと、舌打つ音が潮風に。


「おい、白玉真珠よぉ……あんがとな」


 おやおやおやっ?

 

 少し驚いたように、まん丸に見開かれた血赤珊瑚の瞳。

 一瞬ののちに細められ、ははははっと笑えば、わたしも一緒に笑い転げてしまいました。


 ちょっと汚れたけれど、お揃い。

 わたしの愛する、大好きな白いお方。





 ヒトの世の移ろい、此度の欲望も暴徒も波に散り。

 争いの記憶も泡沫の夢と消え。


 何事もなかったかのように、ふたたび時も、海も流れゆきます。


 

 わたしは真珠、白きクジラの真珠です。


 一心に、一途に、ですがこの想いは告げぬのです。

 愛する貴方に、母なる海に、この有象無象の渦巻く浦に。


 わたしは今日も月夜に唄い、祈り。


 春の日に訪れる、白き貴方を。いつまでも待っているのです——。

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真珠の片想い すきま讚魚 @Schwalbe343

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