中編 はなだま真珠と血赤珊瑚

「おめぇよぅ、つまるところは化け鯨だったンだなァ」


 ……なんという言い草、非常に失礼しちゃう。

 ヘンな箱、貴方だけ海に落としちゃってもいいのですよ?


「言葉には気ィつけぇ首葛籠くびつづら、真珠は女の子やのに」

「なぁにが女の子でィ! あれから三百年くれェ経ってんだぞ? ンな年増ァもはや女の子じゃねェっての。未だ生きてる鯨なんてェ、俺っち達と同じようなもんじゃァねェか」


 ……淑女レディに対してなんたる失言! お覚悟なさいませヘンな箱め。


「おいコラ、この白玉真珠しらたましんじゅめ、なに考えてやがんでィ」

「ふふっ。ほんに、真珠と首葛籠は仲良しさんやなぁ」


 なにをおっしゃいますか、全然仲良しなんかじゃないのですよ。

 言葉を解するのがこのヘンな箱だけでなかったら、とっくに海に落としております。

 言葉といえば……、いつの間にかヘンな箱の口調が若干貴方にうつってしまっているようで。それもまたなんだか少し腹ただしいのですが。



 長い年月、あの時口にした月の零した涙のせいか、なんなのか。わたしは大きな成年のクジラと変わらぬ大きさにまで育ちました。……しかし、そこから一向に歳を取らなくなってしまったようなのです。

 もうひとりで水底まで潜ることだってできます。竜神さまは、まるで家族のように可愛がってくださいます。


 刻を流れ、クジラとしてのことわりから外れてしまったわたしは、やはり群れの中では暮らせぬものでした。


 しかし、年に一度。多い年には三度ほど。

 あの血赤珊瑚の君、空也くうやさまは必ずこの海峡にきてくださいます。

 この名をくれた貴方さま、空也という名はまことの名ではないそうです。でもそんなことはどうだっていいのですよ。


 きっとまた来てくださるから。

 初めて逢った、あの春の終わりの頃に。


 わたしももう大人なのです。

 もうあの時に感じた不思議な気持ち、なんなのかくらいわかっております。


「……おめぇよゥ、コイツはやめとけやぃ。おめぇは俺っち達とは棲む世界が違げェんだ」


 ぼそりとわたしだけに聞こえる声でそう云うヘンな箱、本当に嫌なやつです。


 わたしはクジラ。丘に上がれぬ海の生き物。そんなことはわかりきっているのです。

 年に一度は逢えるとて、いつ途絶えるのかもわからぬ待つ身。

 わたしがもっと小さければ、陸に上がれる足があれば……それは贅沢な願いなのでしょうか。


 ふぅーっとわざとらしく息を吐くヘンな箱。

 陸に下ろしたそれに向かい、尾びれで思いっきりばしゃりと水をひっかけてやりました。


「ンあァ!? てンめぇ、なにしやがんでェ!!」


 ふん、ざまあみろなのです。


「真珠はほんに、おてんばさんやなぁ、水あそびかぃな」


 ……ああっ、やってしまいました。なんと云うことでしょう。

 ちがうのですよ、空也さま。お水遊びがしたかったわけではないのです。ちょっとそこのヘンな箱を懲らしめてやろうと……。


「ふふふっ、いつもありがとうなぁ真珠」


 ぱしゃぱしゃ、と海水に手をつけわたしにかける空也さま。

 むぅ。楽しいのが悔しい。でもわたしはもうすっかり大人のクジラですのに。


「ほんに、真珠はいつまでもべっぴんさんやなぁ、なぁ首葛籠」


 まぁ、まぁまぁっ。

 お世辞とはわかっております、ほ、ほらわたしは淑女レディですから。そのようなお言葉……ああ口がにやけてしまう。クジラなので気づかれにくいでしょうが。


「はぁ〜。まぁアレだ。おめぇよう、本当つるっとして(皮膚が)ぺたっとして(ヒレが)やがンなァ」


 むむっ、なんだか非常にむかっとしましたよっ。


 ばっしゃぁぁぁあああーん!!!


「うぉおい!? このやろうっ、なにすんでィ!!!」


 ああっ、しまった、つい思いっきり海水をっ。

 貴方より手前にいた空也さまはっ……なんと、ずぶ濡れじゃありませんかっ。


 ごごごごごごめんなさいぃぃっ。

 あぁなんと、淑女レディにあるまじきことをっ。


「あははっ、真珠は元気やなぁ」


 濡れた白布をぽいとヘンな箱に投げ、溢れんばかりの笑顔で、その小さな手のひらで海水をすくってはこちらへ散らす空也さま。


 ……ああ、久しぶりに拝見しました。少し凛々しくお育ちになりました、その雅なお顔立ちに美しい髪と目。

 隠さなくてもいいのに、といつも思っているのですよ。

 こんなお方が素顔を隠さねばならぬとは、ヒトの世もなんと見解が狭いのでしょうか。


 見つめれば、んっ? とその血潮の透けたような血赤珊瑚の瞳がこちらを見つめ返し、小首を傾げられました。


 ねぇ、空也さま。真珠は今のままでも十分に幸せでございます。


 でも、もし。もしも。

 わたしがお側にいたいと願ったならば。

 貴方はどうお思いになりますか。


「こンのやろぉ〜、あとで塩だらけになンじゃねぇか! おいっ、おい白玉真珠っ!」


 ふん、ざまあみろなのです、ヘンな箱。

 どうせ、どうせ後ほど空也さまが綺麗にその身を清めてくださることくらい、真珠は知っているのです。


 だって、ヘンな箱は空也さまの大切なもの。

 少々むかっ腹はたちますが、決して無下にはできないのですよ。


 ……そんなこと、とうの昔にわかっていますもの。


「真珠? どぉしたんかいな……?」


 はっ、いけません。そのような物憂げなお顔。

 つい、水をかけるひれを止めて考え込んでしまいました。


 ねぇ、次はいつこの海峡においでなさるのです?

 行き帰りの日数、貴方はいつも根無し草。何日お近くに滞在されるのかもついぞ知りませぬ。


 えいっと、勇気を出しました。

 だってわたしはクジラですもの。空也さまにとっては、何の事は無い海の生き物ですもの。


「どぉしたん? 今日はえらい甘えたさんやなぁ……」


 うぅっ……負けました。


 なけなしの勇気を振り絞り。ほおをずいっとすり寄せれば、さも当たり前かのように。

 空也さまはわたしの頭を抱き寄せて頬ずりをしてくださったのです。


 ううっ、溶けちゃう。

 頭から湯気が出るかと思いました。

 優しい、でもこれ、この扱い、もしやまさかの飼いクジラを愛でている感覚では……?


「あーっ、ほんと見てらんねェや。白玉、俺ァおめぇにちぃとばかり同情すんぜ……」


 ……余裕綽々なヘンな箱め。わたしは負けませぬ。

 空也さまを想う気持ちは貴方にだって劣らないのです。


 綺麗な綺麗な血赤珊瑚の君。

 

 この刻が悠久であれと、願ってしまうのは。

 果たして許されぬことなのでしょうか——?


 真珠は、時折……この想いを告げられぬことが、少々くるしゅうございます。

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