第10話 結界と異教の祈り

「太陽神シイェチラよ。御身の御許に、ほふりし獣の魂をお返しいたします。どうかやむなき殺生を赦したまえ」


 イリヤさんがツチグロトカゲの死体を前に、獣族の神への祈りを捧げている。


「しかし、なんだってツチグロトカゲなんぞが結界を通れたんでしょうな」


 わたしが一通り、兵たちの傷を癒やし終えると、分身の恩寵を持つ獣族の兵がぽつりと言った。

 こちらに歩いてきたイリヤさんが答える。


「それはこれから分かるだろうな。既にセルゲイに頼んで、原因は調査させている。俺の師匠たちも調査団に加える手筈だから、必ず答えは出るだろう」


 イリヤさんの師匠とその奥さまには、魔法の修行中に大変お世話になった。わたしにとっても師匠といえる人たちにまた会えるかもしれないと思うと、人を傷つけた危険な魔獣とはいえ、生き物を殺したあとの苦々しい気持ちが少し和らいだ。


「もう、答えは出ているように思われますが」


 イリヤさんの前に進み出たのは、エヴァリストさんだった。イリヤさんがわずかに顔をしかめる。


「……どういうことだ」


 エヴァリストさんは両腕を軽く広げた。


「簡単なことでございますよ。なにゆえ、あなたが領主になられて数か月でこのような事態になったのか──異教の神を信じ、獣族の血を引くあなたが領主になられたからではございませんか」


 獣族の兵たちが明らかに殺気立った視線をエヴァリストさんに向けるが、彼は動じない。


「ひとたび主の聖性が失われれば、結界もその効力をなくす。そういうことでございましょう」


「そのようなことがあるものか。結界は神々ではなく、遠き父祖が造り上げたものだ」


 イリヤさんが言い切ると、エヴァリストさんは片頬を歪めた。


「ほう……国王陛下の聖性を否定なさるおつもりですか」


「祖父たる国王陛下が神聖であられるのは、最高神祇官じんぎかんであらせられるからではない。結界に魔力をご供給なさるという責務を、ご高齢の御身でご立派に果たされておいでになるからだ。それ以上でもそれ以下でもない。そもそも、わたしは今この場で、そなたと宗教的な議論をする気はない」


「あなたは、先ほど獣族の神に祈りの句を唱えられたではございませんか。カーリ教の神々に対する明白な背教では?」


「わたしはカーリ教の神々も信仰している。わたしが属性魔法を使う時、神々の名を唱えると、神々はわたしにお力をお貸しくださる。もし、聖性を云々するのならば、わたしが魔法を使えること自体、おかしいではないか」


 イリヤさんの反論に、エヴァリストさんが言葉に詰まる。ハラハラしてその様子を見ていたわたしは、エヴァリストさんが次に口にした台詞に心臓を凍りつかせた。


「──なるほど、あなたが大聖女さまとご婚約なさった理由が分かりましたよ。自らの不信仰を、リュピテールの高位聖職者でおわした大聖女さまとの婚姻で補われるおつもりですか」


「……今、なんと言った?」


 イリヤさんの周囲が冷気をはらんでいるようだ。エヴァリストさんは彼の逆鱗に触れてしまった。この状態になると仲裁も難しい。獣族の兵たちと目を合わせると、みな肩をすくめたり、首を横に振ったりしている。

 エヴァリストさんは怯まなかった。


「何度でも申し上げます。あなたはご自分の利益のために、大聖女さまを利用なさっている」


「取り消せ」


「お怒りになる、ということは図星ではございませんか」


 それは違う。冤罪と同じことで、人は自分が思ってもみないことを、さも企んで実行したかのように言われれば、傷つくし怒るのだ。


「俺たちのことをよく知りもしないくせに、差し出がましい口を利くな」


 イリヤさんの一人称が普段のものに戻っている。相当怒っている証拠だ。

 さすがに圧力を感じたのか、エヴァリストさんは一瞬だけ身構えた。


「……少しは存じ上げておりますよ。あなたの少年期までの経歴が一切不明なことや、突然傭兵になられたこともね」


 イリヤさんは吐き捨てるように言った。


「では、何も知らないのと同じだな」


「あなたが見て見ぬ振りをなさっていることも存じております。例えば、わたしはこちらに出向する前に、カリストのことを調査いたしました。はっきり申し上げましょう。カリストの民は獣族の血を引くあなたが領主になられたせいで、不安を抱いております。あなたが獣族ばかりを優遇なさるのではないか──それに、カリストが神々のご加護を得られなくなるのではないか、と」


 それは、領主になる前から、イリヤさんが少なからず危惧していたことだった。

 でも、しょうがないじゃないか。イリヤさんが獣族の血を引いているのは彼の責任ではないのだから。


 イリヤさんは幼い頃に人族に酷い目に遭わされてなお、わたしを選んでくれたばかりか人族と獣族の融和のために邁進している。そんな彼に感謝することはあっても、糾弾するなんて絶対にできない。


 勝ち誇ったように畳みかけるエヴァリストさんの言葉に、イリヤさんは口をつぐんでいる。

 わたしはイリヤさんとエヴァリストさんに向け、一歩前に進み出る。口を開きかけ、はっとした。イリヤさんの金色の瞳が強い光を失っていなかったからだ。


「一年後も、果たして同じことを言っていられるか、見ものだな」


 エヴァリストさんがカリストの民の不安に言及したことで、イリヤさんはかえって冷静さを取り戻したようだ。口角を上げて、ふっと笑う姿は自信に満ちていた。

 イリヤさんはエヴァリストさんに背を向けると、事後処理のために兵たちや騎士たちに指示を出し始めた。

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