【第八章 ラクガキの所在、あるいは彼女の決意】

◇「見守っていて」と


 学長からいくつかの話を聞いた後、僕は一睡もできなかった。

 徹夜、ではないから徹日とでも言えばいいだろうか――をして学院へ登校した。

 あんな事件が起きた昨日の今日だ。やはりと言うべきか、学院内の雰囲気はどこか浮き足立っているようだった。けれど、その内容は事件についてではなくて。


「学院に血文字が書かれた?」

「そうなんですよぉ。だからみんな、朝からその話題で持ちきりみたいです。

 まぁ最初に見つけて広めたのはわたしなんですけどね!」

「何やってんだマジで」


 昼休み、『一緒にお昼ごはん食べましょう!』と誘いに来た伊丹いたみさんと机をくっつけて昼食がてら学院内の喧騒の理由について尋ねれば、そんな答えが返ってきた。


「しかもですねぇ……見てくださいよ、これ」


 伊丹さんがつい、と自分の携帯端末を差し出してくる。

 そこに写っているのは『Memento moriメメント・モリ』でも『Carpe diemカルペ・ディエム』でもない、

『Lupus in fabula』という文字だった。


「るぷすいん……なんて書いてあるんだ?」

「ループス・イン・ファブラー。ラテン語のことわざで、直訳すると『物語の中の狼』。元の意味は『噂をすれば影』といったところです。

 今だと『邪魔者は必ず現れる』という意味でも使われてますねぇ」

「へえ、よく知ってるね」

「えへへぇ、これでも情報科ですから!」

「どの口が言ってんだか」


 伊丹さんはどんと胸を張り、それから一息つくように大きめのカップを手に取った。中には黒っぽいスムージー状の液体が入っていて、上には赤や黒のソースがかかったホイップクリームと思わしきものが乗っている。


「ところでそれは何を飲んでるの?」

「これですかぁ? 『メルティブラッド』の新作ブラッディミックスベリーフレーバーフローズンカプチーノですよ」

「え、なに……? めるてぃぶらっどのぶら……?」


 僕が困惑を示すと伊丹さんはまるでタイムスリップしてきた人を見たような反応をした。


「出雲さんメルティブラッド知らないんですかぁ⁉︎

 大罪人ですよぉ! ギルティです! ジャッジメントです!」

「無知は罪って言うタイプの人間だったか」

「大抵の無知なら笑って見逃せますけどこればっかりは別です!

 女の子ならメルティブラッドくらいは知っておきましょうよ、ね?」


 そう言うと、伊丹さんはにっこり笑ってカップを僕の方に差し出してくる。


「一口あげますから飲んでみてください」

「いやいらない」

「なんでですかっ! メルティブラッドを飲まないなんて人生十二割は損してますよ!」

「余計なお世話だし突き抜けてる二割はなんなのさ」


 伊丹さんがなんと言おうと僕にブラッディなんたらを飲む気はなかった。

 先日のスコーンで死妖向け食品の味は嫌というほど知ったし、何より伊丹さんのを飲むのははばかられる。けれどそのことをバカ正直に伝えるわけにもいかず、僕は話をそらすべく全く同じことをやり返すことにした。


「というか伊丹さん、そんな飲み物だけで足りるの?

 良ければ僕のカロリーフレンド半ブロック分けようか?」

「足りますよぉ。でも食べてみたいので少しだけもらってもいいですか?」

「ん」

「やったー♪ んぐんぐ……口の中の水分がすごい勢いで持ってかれりゅ……」


 渋い顔で口直しとばかりにブラッディなんたらをちうーと音立てて飲む伊丹さんに、なんとかなったと内心で胸を撫で下ろすと「そういえば!」と再び僕に視線を向けてきた。


「出雲さん、アリシアさんとなに喧嘩したんですか!」

「え、喧嘩ってなんで」

「アリシアさん誘ったら、『サヨがいるなら行かない』って返信きたんですよぉ!

 ほら見てくださいこれ!」


 押し付けられるようにして向けられた画面には確かにそのむねのやりとりが残っていた。


「正直に白状してください。センセー怒りませんから」

「怒られはしなくてもしかられはするやつだよね、それ。

 正直にって言われても、喧嘩なんてしてないよ。してない……はず」

「なんですかその煮え切らない返事! 絶対してるやつじゃないですかぁ!」

「いや、本当にしてないんだって。あれは喧嘩っていうか……」


 自分でも若干自信がなくなりながら、日暮れの出来事を思い出す。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 徹日をした僕は学院に登校する前、実は一度家に帰っていた。

 そしてちょうどそのタイミングで、家を出るところのアリシアと出くわした。


「「あ」」


 すっかり晴れて星の煌めきを放ち出した暮れ夜空の下。

 それぞれ玄関のドアと門を開け放した状態で、目が合ったまま固まる。

 そこで気づいてしまった。アリシアの目元が若干赤く腫れていることに。


「…………」


 第一声をどうすればいいか分からず、僕は上げかけた腕をそのまま上げるか下ろすか迷って、ふわふわとただよわせてしまう。

「いつ戻ってきたんだ」とか「体調は大丈夫なのか」とか、言葉はいくつも思い浮かんだけれど、どれも最初に投げかけるべき言葉ではない気がして結局消えてしまった。

 その時、ふっとアリシアの赤い瞳がゆるんで、口を開いた。


「――――遅いんですけど」


 あまりにも平坦な声音の言葉に、一瞬その意味を掴みかねた。

 けれど、アリシアはそんなことお構いなしとばかりに畳みかけてくる。


「『マザーに聞きたいことがある』って、流石に話し込みすぎでしょう。

 買い物帰りのご婦人でも一時間程度で切り上げる節度は持ってるわよ」

「ご、ごめん」

「これだけの長話をして許されるのは十年来の再会をした古馴染みくらいのもの……というかその格好なに? レインコート?」


 真っ白い大きな着物を上から被っている僕の格好に、アリシアはうろんな目つきをする。


「雨が降ってたんだけど、傘を持って無かったから学長に借りたんだよ」

「雨? だいぶ前に上がってたと思うけど……」

「僕が出た時はまだ降ってたから。あと、これは雨合羽あまがっぱじゃないかな」

「雨合羽とレインコートって何が違うの?」

「……言われてみれば」


 言い方の問題なのかな、とか考えていると、アリシアが小さく笑った。


「そんな真面目に考えることでもないでしょう。

 私、もう行くわ。朝ごはん置いておいたから、温めて食べてね」

「え、置いといたって……まさか作ったの⁉︎ アリシアが⁉︎」


 僕が驚愕をあらわにすると、アリシアは頬を赤く染めながら僕をにらんだ。


「な、なによ、バカにしないで! 私だって朝食ぐらい作れるわ!

 これまでは作る必要がなかったから作ってこなかっただけ!」

「作る必要がなかったって……あ、」


 僕が思い至ったことに、アリシアはため息で返してくる。


「気づくのもおそいのね。まあ、自力で気づいただけ良いか……。

 そうよ、イザヤが昨日の今日で血液パック全部処分しちゃったからよ。

 冷蔵庫開けたら一つもないんだもの、流石に驚いたわ」

「ご、ごめん」

「別にいいわよ。そこで突っ立ったまま話すのもなんだし、とりあえずこっち来たら?」


 確かに妙な距離感だよなとアリシアの手招きに応じることにする。

 案外いつも通りの調子なんだなと思いながら、門を抜けて玄関まで来た、その瞬間。

 ふらりと倒れ込むような力の無さで、アリシアに抱きつかれた。


「アリシ、ア?」

「いま顔合わせられないから、合わせられるようになるまでこれで我慢して」

「たったいま顔突き合わせてた気がするんだけど……」

「お願い」


 抱き合うのはこれで二度目。前回より落ち着いていられるかと思ったけれど、全くそんなことはなく、むしろ急な出来事であまり感覚を覚えていない前回より、触れ合っている部分の感覚を強く感じる。

 こんなに密着したら鼓動が伝わってしまう……!と一抹の焦りを覚えるも、そこで気づいた。

 アリシアの鼓動が、、強く早く高鳴っていることに。

 ふいに、アリシアが口を開いた。


「マザーから聞いたんでしょう、私の、ヘルシングのこと」

「……うん」


 僕が頷くと、すぅっとアリシアの息を吸う音が聞こえた。

 まるで泣くのを我慢するような、あるいはがる何かをこらえるような、そんな仕草に思えた。けれどアリシアの表情を確認することは叶わず、抱き合ったまま、僕はアリシアの言葉を待つしかなかった。

 こごった夜の冷気の中、アリシアがゆっくりと言葉を紡ぐ。

「イザヤが私について何を思ったとしても、構わない。

 私にはそれを受け入れる義務がある」

「義務って、なんだよそれ。そんなの――」

 首の後ろに回された腕が、すがるようにギュッと強く僕を抱きしめた。

「いいの。イザヤはきっとそういう風に言ってくれるだろうなって思ってた。

 それでも、私は知らなきゃいけない。ただ、終わった後にさせて欲しいの」

「……終わった後っていうのは、」

「私とザラのことについて」

 一拍。二拍。アリシアが深呼吸をするのが密着した胸の圧迫感でわかった。

 意を決したようにアリシアは言った。

「イザヤは何もしないで。見守っていて欲しい」

 ふいに、首の後ろに回されていた腕がゆるむ。

 密着していた身体が離れ、アリシアの顔が正面に来る。

「これは、私とザラの問題だから」

 そう言ったアリシアの目元には、涙の一粒すら無かった。

 そこにあるのは、強い意志を放つ光だけだった。

 

 僕とアリシアは喧嘩なんかしていない。

 言うなればあれは一方通行の意志表明だ。

『サヨがいるなら行かない』というのも、僕と一緒にいると覚悟が鈍るからだろう。

 ただそれだけの話だ。

 強いて付け加えることがあるとすれば、アリシアが作ったという朝ごはんはコゲの塊だったことくらいだ。やっぱり僕が作らなければならないらしかった。

 それら全部を説明できるはずもなく、僕は「ただの意志表明だったよ」と簡潔に言った。


 ◇ ◇ ◇


 放課後、僕はくだん血文字ラクガキ現場に来ていた。

『この血文字がアリシアさんを狙っている人を見つける手がかりになるはずです!』と伊丹さんが息巻いていたためだ。

 場所は校舎裏にある体育館わき広場。しかし、実際は広場とは名ばかりのベンチひとつすらない『ただの広い場所』であり、部活動や委員会が発足していない現状、人影はゼロだった。

 暗闇を払うため学院の敷地内のいたるところに置かれているポール型電灯もこの辺りには無く、頼れる光源は月明かりと体育館の屋根下に取り付けられたボロい電灯のみだった。

 唯一、視覚のなぐさめとばかりに立派なチゾメホムラが植えてあるけれど、この暗闇。


「何も見えねえ……」


 夜目は効く方という自負があったけれど、周囲の物の輪郭りんかくさえあやふやなのでは何もできず、大人しく携帯端末を取り出して懐中電灯機能を使用することにした。

 携帯端末で体育館の寂れた壁面を照らすと黒っぽい血で描かれた『ループス・イン・ファブラー』という文字が見えた。お世辞にもあまり綺麗とは言えず、書いた人間は不慣れだったんだろうなと内心で笑ってしまう。と、壁際の地面の花弁に埋もれてゴミが落ちているのが目に入り、拾い上げたその時――


「やっぱりここにいたし」


 ささくれだったような、棘のあるハスキーボイスが背中越しに聞こえて振り返る。

 月明かりを背に浮かび上がる輪郭はおぼろげで、ゆったりと舞い散る花弁の中、妖しく光るクルミ色の瞳だけが闇夜に取り残されたようにくっきりと見える。

 そこにいるのは、ザラ・オーベルその人だった。

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