◇彼女の世界


 現場での諸々の処理を終え、ザラがアパートの門をくぐったのは朝の七時過ぎだった。


「……ただいま」


 自分の物を含めても二足しか靴がない小さな玄関でぽつりと呟く。けれど帰ってくる声はない。当然だろう。〈死妖狩り〉の活動で帰宅が夜更けになることは珍しくない。

 血雨に降られ、傘も差さずに帰ってきたせいで髪の毛や隊服、バッグまでも薄赤い水を吸ってぐっしょりと重くなっていた。

 血というのは厄介な汚れで、色も臭いも残りやすく、重曹ではなくセスキ炭酸ソーダを使わねば落ちてくれない。

 だからザラはスクールバッグごと洗面所へと直行しようとして、びくりと固まった。

 間取り上、全ての部屋に繋がっているリビング。

 そこに設けられた小さな食卓に、明かりもつけないで人が座っていた。


「おかえり、ザラ。今日も無事に帰ってこられたようだね」


 不揃いの短い髪に落ちくぼんだ瞳、肉を削ぎ落としたような頬に色の薄い唇。不健康そうな顔色に、痩せぎすの体躯。昔はむしろ太り気味だったのに――なんて懐古を一瞬のうちに思考の片隅へ追いやって、ザラは顔だけを向ける。


「ただいま、おとうさん」


 ザラの肉親、カイラ・オーベルは娘の帰宅に柔和に微笑んでみせる。


「ニュースを見たよ。あれはお前がやったんだろう?

 お前のような娘を持てて私はとても誇らしいよ。ぜひ話を聞かせておくれ。

 あぁ、でもお前の体が冷えてしまうといけないから、先にシャワーを浴びてきなさい」


 拒否権など無いようなその言い方に、ザラはあいまいに頷いて洗面所へ向かう。

 その刹那、食卓の上に、白っぽい固形物が並べられているのが見えた。


 ……今日の分の合成食料レーションだ。


 カイラがザラの帰宅まで律儀に食卓で待ち続けるのは幾度目かわからない。

 ザラが何度先に食べてて良いと言っても、『私だけ先に食べてはお前に申し分けがつかないし、食事はみんなで取るものだ』と頑なに拒み続けている。食卓に合成食料以外の物を並べることも、同様に。

 理由を尋ねれば、カイラは誇らしい表情で語った。


『この国にある臥薪嘗胆がしんしょうたんという言葉を知っているかい? これは誓いなんだよ。私たちは悲願を叶えたその時、初めて元の食事を摂り、正しい人に戻ることができるんだ』


 カイラは当然のごとく、ザラにもその誓いとやらを押し付けてきた。

 できることなら後で吐き出して別のものを買って食べたいところだが、ザラは精神障害を患って働けないカイラを養わねばならないためにそんなことに割く食費は一円もない。

〈死妖狩り〉でトップの成績を叩き出していると言っても所詮は学生の身。もらえる褒賞金の額など微々びびたるもので、それもカイラの薬代と酒代であっという間に消えていく。

 洗面所のドアを閉め、ザラはずるずるとその場にへたれこむ。

 そのまま泥のように理性を手放してしまいたかったけれど、隊服が血雨で汚れたままになるのだけはプライドが許さず、気力を振り絞って立ち上がった。

 そして鏡が目に入る。前・終末期からある古いアパートの古い鏡。

 自分自身の姿の写らないそれに、ザラは悪寒が走る。

 正確には、で覆われた自分の姿なら見える。

 ありとあらゆる姿見に写らなくなるのは死妖の特性だ。今や死妖の姿を限りなく正確に写せるのは赤外線で輪郭を写し、色味を本物っぽく戻す専用のカメラしかない。

 目の前に映る自分は、正直言ってかなり不気味だった。今や学校のトイレに鏡がないのはもちろんのこと、窓ガラスだって自分たちの姿が反射しない程度には加工がしてある。

 この鏡だってできることなら外してしまたいたかった。

 けれどカイラは『私たちはここを使わせてもらっているのだから、できる限りそのままの形を保つべきだ』と言って鏡を外すことをよしとしなかった。おかげでザラは毎日不気味な自分と対面している。

 本当に、あの父親は気に障ることしかしない。

 それでも視界に入れなければいいだけの話と割り切って、ザラはさっさと服を脱ぐ。

 洗濯機に服を突っ込み、セスキ炭酸ソーダを入れ、スイッチを押す。

 そして狭い牢獄じみた風呂場でシャワーのノブを捻れば、温かいシャワーが流れてきた。


「はぁ……っ」


 冷えた体に温かいシャワーは良く染みて、思わず声が漏れる。

 血と共に様々なものを洗い流して、強ばった心までもわずかにほぐされるようだった。

 けれど、これ以上は水道費がかさむので無駄にはできない。

 慈雨じうのように感じられるシャワーを惜しみつつ止めて、思考を先の出来事に埋没させる。

 それは『アノー』でのこと。

 フーリにトドメを刺した時、あそこにいたのはアリシアと出雲サヨだった。

 まずい、とザラは唇を噛みしめる。まさかこんなにもアリシアの復活が早まるだなんて。

 ただ、アリシアはトドメを刺せず、あの場で静止していた。

 そしてフーリにトドメを刺したのは自分だ。

 けれどそんなことはどうでもいい。そんなことは何の障害にもなりやしない。

 問題は、だ。

 それも、アニムスを使って。

 むしろ、それが一番にして唯一の問題だと断言してもいい。

 久世アリシアがアニムスを使えるようになる。それはザラ・オーベルにとっておよそ最大の恐怖を意味していた。己の身に何が起きるかわからない、未知という名の恐怖を。

 カイラがそのことを知ったら、なんと言うか。

 り込まれた恐怖に思わず身震いし、再度シャワーのノブを捻る。

 このままでは必然的に至るその未来を変えるため、ザラは思考する。

 やはり狙うのは相方――出雲サヨだ。

 これまでのアリシアは独力で事件を解決することはあれど、アニムスは使ってこなかった。己に課した戒めコマンドを徹底的に守り、破ること自体を恐れていた。

 それなのに、出雲サヨが来たらその日にアニムスを解放した。

 いったい何があったというのだろう?

 彼女たちの間にどんな会話があったというのだろう?

 出雲サヨという少女は戒めを委ねられるほどに魅力的なのだろうか。



 ――――『悪いけど、自分の道は自分で選ぶことに決めてるんだ』



 そう言い放った時の、出雲サヨのまっすぐな瞳を思い出し、思わず舌打ちする。

 瞳に宿る意思が、どうしようもなくアリシアに似ていたのだ。

 けがれなく、高潔で、誠実な。


 こんなにも薄汚れた自分とは、なんて違うのだろう――


 その時、外から風呂場のドアを叩かれた。


「ザラ、少し長いぞ。体が温まったら早く出てきなさい」


 ここで一生を終えてしまいたいという気持ちになりながら、ザラは風呂場を出た。

 

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