◇ヘルシング


 ――エイヴラハム・ヴァン・ヘルシング。

 前・終末期、あるいは平和世界と呼ばれていた時代最後さいごの偉人。

 生前の死妖討伐記録は一つを残してほか全て未発見。けれど、その一つが伝説の死妖ドラキュラであり、関係者の物も含めてきわめて詳細な討伐記録だった。それにより、人類は感染爆発パンデミックから十年目にしてようやく死妖への明確な対処法を得たのだ。

 編纂者へんさんしゃによって一冊の本として出版されたそれらの記録は、それまでなす術なく死妖の血牙を受け入れるだけだった非感染者ニップたちに希望の光を見せ、対死妖運動を引き起こし、現代の〈死妖狩り〉の概念を生み出すまでに至った。ヴァン・ヘルシングの記録は人類にとって精神的にも物理的にも計り知れないものになっているのだ。

 けれど、彼が遺したのはそればかりではなかった。


 ――アーサー・ブラッドレイ・ヘルシング。

 ヴァン・ヘルシングの孫にして、世界最悪の《霊長殺しターミネーター》。

 後・終末期、あるいは終末世界と呼ばれる時代最初さいしょにして最後になるであろう偉人。

 彼が成したのは善行ではない。

『一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄である』という言葉があるように、彼は悪業によってその名を知らしめ、畏怖されるようになった。

 終末時計をマイナスへと振り切らせるに至った合衆国のホワイトハウス襲撃事件・通称“反転鏖殺ブラックアウト”に始まり、欧州ヨーロッパ安全圏コロニー連続壊滅“巣穴狩りハニーハント”、中東における難民の大移動を無数の死妖が襲った“大虐殺スタンピード”、阿州アフリカの超大規模な爆発“小都市蒸発メテオストライク”――など、終末時計の秒数を進めさせた出来事のすべてにヤツが絡んでいると言われている。

 そういえば燎原戦役も始まりは突如としてこの国に現れ、いくつかの小規模な安全圏を襲ったブラッドレイ・ヘルシングを討伐するための大遠征だったと聞いている。それが彼を援護した【畜人派】との争いにいつしか変わっていったのだ、と――


 なればこそ、死妖姫というのはその立場をあまりにも明確にする表現だ。

 死妖を世にのさばらせ、これ以上とない死妖の繁栄はんえいをもたらした死妖の王の直系。

 冥府の御子。終末世界の寵姫ちょうき――死妖姫。

 そこまで考えたところで、僕はふとした疑問を覚えた。


「アリシアは《霊長殺しターミネーター》の娘だって言いましたよね。それっておかしくないですか。

反転鏖殺ブラックアウト”が起きたのはですよ。

 その時点でヤツの年齢は三十を超えていたはず……孫の間違いじゃないですか?」


 僕の指摘に、学長はちょっと目を丸くして、それからにやけるように笑った。

 面白くて仕方がない、というように。


「良いところに気がつくねぇ。その頭の回転の速さ、とても好ましいよ」

「さいですか」


 僕は学長のことを好ましく思っていないので適当に流して続きを促す。


「残念ながら、と言うべきかわからないけれど久世くんは確かにあの男の娘だよ。

 同胞鑑定ですでに確定されている。と言っても母親との鑑定なのだけどね」

「母親……? 母親がいるんですか?」


 どこかに消えてなくなっていたものと思っていた存在が突然現れて、僕は目を丸くする。


「ああ、いたよ。すでにアニムスフィアになっているけどね」

「…………」


 アニムスフィア。

 それはつまり、アリシアの母親はもう――


「君がそんな顔をする必要はないよ。

 久世くんはその事実を知らないし、知っていたとしても意味がない」

 意味がない……どういうことだ?

「久世くんは〈終局都市ターミナル〉に来るまでの記憶が一切ないんだ。

 いわゆる全生活史健忘ってやつだね」


 全生活史健忘。

 それまで生きてきた自分にまつわる全ての記憶をアリシアは失っている、と。

 さらりと告げられた言葉に僕は今日何度目かもわからない、魂の抜け落ちるような衝撃を受けた。けれど学長は構わず話し続ける。


「知能テストや身体検査の結果から肉体年齢はおおよそ十五、六と割り出されているけれど、実際の年齢はもっと上だろうとワタシは踏んでいる」

「もっと上……? アリシアが五十歳以上だってことですか?」


 僕はてっきり、《霊長殺しターミネーター》の娘だという発言からその年齢に合わせての発言なのだと思っていたが、学長は笑いながら否定した。


「そこまでは言っていないよ。けどまあ、確かにその可能性も捨てきれないね。

 第一世代や前・終末期から生きている死妖――いわゆる第零ゼロ世代の古いウイルスはその特性上、肉体の経年劣化がきわめて遅い。だから何歳になっても精力があるし、子どもも作れるわけだ」


 学長の言葉に僕もうなずく。

 目の前にいる第一世代の学長だって五十歳は優に越えているはずだし、伝説の死妖ドラキュラにいたっては数百年もの間生きていて、民間伝承にすらなっていたという。


「ワタシが言いたいのは別のことなんだよ。

 君はアニムスが親から子へと遺伝することもあるのを知っているかな」

「……いえ」


 知らないことだし、突然の話題の転換に僕は首を振る。


「彼女らのアニムスはね、んだよ。

 おかげで久世くんの引き起こした事故では巻き込まれた同じ部隊の子が二ヶ月ほど生きたまま凍り付けにされたんだ。そしてそのショックでその子は脱退。転校していった」


 アリシアのアニムスへのトラウマの理由がこんな簡単に明かされたことに驚きつつ、僕は最初に問われた言葉と今の話を結びつけて結論を出していた。


「……アリシアは母親のアニムスで凍らされてたってことか」

「ピンポンピンポン大正解! ご褒美に君にはスコーンのおかわりをあげよう!」

「金貰ってもいらねえっ!」


 差し出された皿を腕ごと引っぱたいて返す。学長は悲しそうな顔で「美味しいのになぁ」と呟きながらスコーンにかじりつく。生肉を食べられるのは肉食獣だけなんだよ。


「ま、そうして凍結封印された久世くんと、今にも死にかけの母親が出雲サヨに連れられてきたのが約二年前のことだ。以上、久世くんの身の上話おわり」


 何してんだあの人、と突然降って湧いた姉の存在に口が開いてしまう。

 そして考えてみる。

 アリシアの生い立ち、その境遇について。

 カエルの子はカエルであるように、王様の子が王子様であるように、大罪人の子もそのとがを負う。本人の望む望まざるに関わらず、世界はそういうふうにできている。

 けれどアリシアは自身の負うべき咎について、自分ごと何もかも忘れてしまった。

 あるいは忘れ去ることでしか、自分を守れなかったのかもしれない。

 何も知らないまま、目覚めたら知らない都市ターミナルにいて、知らない女性ねえさんがそばにいた。

 ……それは、どのような感情だろうか。

 恐ろしいだろうか、困惑しただろうか。少なくとも、楽しい感情ではなかっただろう。

 正直、僕には計り知れない。

 僕は最初から親がいなかったし、記憶喪失になったこともない。故郷でも同年代からは遠巻きにされていたけれど、姉さんがいたから完全に一人というわけでもなかった。

 救いがあるとすれば、アリシアのそばにいたのが姉さんだということだ。

 あの人と一緒にいれば、世界の終わりだろうと笑顔でいられる。

 けれど、今はもういない。

 たった一人の頼れる人が――頼るしかない人が死んだと知った時、アリシアは――

 そこまで考えたところで、パン!と大きな音が鳴った。

 びくりと体を揺らしながら顔を上げれば、学長が柏手を鳴らしたのだとわかった。


「だからそんな顔をしない。

 懺悔室のシスターでもあるまいし、同情は君の仕事じゃないよ」

「じゃあ僕はいったい何をするべきだっていうんです」

「さっきも言っただろう。ほぼ確実にやってくるだろう久世くんとオーベルくんの確執をなんとかするんだよ」

「はぁ……」


 なんでも、そういうことになったらしかった。

 僕はため息をつきつつ、窓の外に目を向ける。

 そこでふと本題を聞きそびれていたことに気づいた。


「そういえば、結局ザラとアリシアの関係性が崩れた原因はなんだったんですか」

「うん? もしかして今の一瞬で記憶喪失にでもなったのかな。

 久世くんがヘルシングの直系だからだと明かしたばかりだろう」


 いえ、と僕は首を振る。


「それはアリシアが恨まれている理由であってザラが恨む原因じゃないです」


 原因と理由。一見して似ているそれらは立場によって変わってくる。

 例えば、Aという人物がBという人物に殺されたとする。

 その場合『なにで』殺されたのか、が原因。――例えば包丁で刺されたとしたら『包丁で刺されたこと』が原因。いわゆる死因だ。

 そして『どうして』殺されたのか、が理由。――例えばBという人物に深く恨まれていたのだとしたら『Bの私怨によって殺された』ことが理由。いわゆる動機だ。

 原因と理由。AとBどちら側に立つかによって変わるそれをアリシアとザラに当てはめてみれば、アリシアがザラに敵視されている理由は『アリシアがヘルシングの直系だから』である。ザラがアリシアを敵視している原因に当てはめてみたとしても筋が通らない。なぜなら――


「アリシアがヘルシングの直系だからというだけで全人類が恨むなら、今ごろアリシアにとって学校は針のむしろになっています。けど、そうはなってない」


 伊丹さんが『アリシアには隠れファンが多い』と言っていたし、クラスメイト達もとりあえずアリシアには直接触れないようにしているような、有り体に言えば『どう接したらいいかわからないんじゃないか』という印象を受けた。

 そもそも人間が死妖をならまだしも、死妖が相手を“死妖である”というだけで理由はないはずだ。それでもザラ・オーベルはアリシアを恨んでいる。


「つまり、ザラにとっては『アリシアがそこに存在している』というだけで恨むような原因なにかがあるはずなんです」


 僕がそのように説明を終えれば、学長は紅茶を一口飲んでから僕を見た。

 その目はこれまでよりずっと親しみやすくて、けれど思わず後ずさりたくなるような、わかりやすい非難の目をしていた。


「君、デリカシーがないってよく言われやしないかい?」

「え、なんでデリカシー……? よくわからないんですけど」


 僕の返答に学長はものすごく大きなため息をついた。


「女性の年齢、体重、プライベートに関することはできる限り触れないようにするものなんだよ。君だって『普段どんな生活をされているんですかぁ? 気になりますぅ』なんて聞かれて答えようとは思わないだろう?」

「ど……どうなんでしょう」

「久世くんに関してはワタシが教えると約束してしまったから例外ではあるものの、普通は聞かないようにするものなんだよ。覚えておいて損はないよ」


 なんで僕は怒られてるんだ? 控えめに言って意味がわからなかった。

 あまりの理不尽ぶりに、若干やけっぱちになって言葉を返す。


「僕は自分のプライベートに自信を持ってるので答えられますけど、ザラのプライベートは人様に教えられないほどそんなひどいものなんですかね」

「それ以外に何がある。皆まで言わせるなよ」

「えっ」


 予想外の返答に視線を向ければ、学長はひどく冷めた視線で窓の外を見やっていた。


「家庭の問題というのはいつの時代になっても閉じられた檻の中から出てこない。

 そして彼女の場合厄介やっかいなのが、その問題の起源がということだ」


 そうして、学長はぽつりぽつりと語り始めた。

 ザラ・オーべルという少女の、あるいはオーベル家の問題について。

 

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