◇〈カルマ・ドグマ〉


 正直言って、甘く見ていた。

 初めに事件の概要を聞かされた時は、『いつ解決できるか見通しのつかない面倒な事案』程度にしか思っていなかった。けれど、その認識は今回の件で完全に粉砕された。

〈血の遺文事件〉は『いつ解決できるか見通しのつかない面倒な事案』などではない。 『いつ次が来るとも知れない、敵の正体も仕掛けてくる方法も不明の厄介極まる戦い』だ。

 見えてきた相手は、テロ事件を幾度も引き起こし、そのうちに誰にも分からない方法で八名もの女性を誘拐し、あまつさえ生きたまま更科フウリの身体を改造してみせた、倫理も人理も超越した場所にいる存在。

 現在の〈終局都市ターミナル〉において、これ以上に優先すべき事項は存在しない。

 そういう意味では『他に差し迫る用件がない限り全力でこの事件に当たる』とアリシアが言っていたのはあまりに正しいことだった。


「何者なのか、という問いに対して、ワタシは正しい回答を持ち合わせていない」


 学長はしごく真面目な表情で、迂遠うえんきわまる言い回しをした。

 そして僕が真意を尋ねるより先に、続きの言葉を述べる。


「なぜなら、彼女を狙っているのは個人ではなく団体だからだ」


 次いで、膝元に置いていたタブレットを取り出すと画面をつけた状態でこちらに渡してくる。そこに映るのはこれまでのテロ事件で遺されてきた血文字だった。ひとつずつスクロールしていけば、最後には天井の無くなったデパートメント、その四階部分が上空から撮られていた。人質のいなくなった空間の床にはこれまた大きな血文字。


「そこに描かれているのはね、教義ドグマなんだよ。

 具体的には『なんじ、死を忘れることなかれ』と『我ら、生をうれ者也なり』の二つだ。

 元はラテン語であり――」

「――『メメント・モリ』に『カルペディエム』ですよね」


 僕がそう口にすると、学長は感心したように片眉を上げてみせる。


「よく知っているね。古文書漁りでも趣味にしているのかい?」

「故郷で教えられたんです。大事な言葉だから覚えておくように、って」


 メメント・モリ=カルペディエム。

 これらは表裏一体の言葉であり、ただスタンスが死を見るか生を見るかの違いでしかない。その意味は――『今を生きろ』。

 すでに死したはずの死妖がそんなものを教義にえているとは、とんだ笑い話だ。


「それらを教義に掲げる団体の名が――新世宗教〈カルマ・ドグマ〉。神の死んだこの世界で救いを求め、新世界の創造を目論もくろんでいる【畜人派】の最大派閥だ」

「〈カルマ・ドグマ〉……」


 たった今明かされた、忌まわしくも呪わしい敵の名を口にする。


「実は〈カルマ・ドグマ〉は〈終局都市ウチ〉で生まれたものでね。昔は平和的だったんだよ。

 それがいつの間にか【畜人派】の温床になってしまい、多くの争いが起きてしまった」

「そんな危険な宗教団体がどうしてアリシアを狙っているんですか」


 学長はふっと微笑むと同時、パッと両手を上に開いてみせる。


「さてね」


 あっけらかんとした返しに僕は困惑することしかできない。


「え……さてね、って。え?」

「それがわかればこんな苦労はしていないさ」

「えぇ……」

「そんなことより、君は久世くぜくんのことを気にかけた方がいい。これまで以上に、ね」


 打って変わって忠告じみた言葉に、僕の心と頭も引かれて冷えていく。


「やっぱりアリシアに何かあったんですか」

「いいや。これから何かが起きるかもしれないという話だ。

 今回の事件の対象――更科くんにトドメを刺したのはオーベルくんだそうだね」

「……はい」


 あの時、僕は確かにブロンドの髪を見た。

 そして更科の魔臓アニマを打ち砕いたのは一つの鉄塊。

 間違いなくザラの行使するアニムス《鉄の処女アイアン・メイデン》によるものだ。


「なら、気をつけた方が良い。

 彼女たちは互いに何をしでかしてもおかしくない。そういう因縁がある」


 学長のその発言に、僕は裏の――あるいは真の本題を尋ねることにした。


「アリシアの血に関することでザラとアリシアの関係性が崩れたとは聞きました。

 アリシアの血とはなんのことなんですか」

「……それをワタシに聞くということは、君にはわからなかった、という認識でいいんだね?」


 何が、と聞こうとして、思いとどまった。

 いや、思い出した。

 学長が『いずれわかる』と言っていたことを。

 そして『わからなければ教えよう』と言っていたことを。

 僕が無言で頷くと、学長もしっかりと頷き返してくれた。


「よろしい。約束していたことだ。

 ワタシの時間と立場と良識が許す限り、君に事実のみを教えよう」


 そうしてピッと小さな手から小さな人差し指を立てる。


「まず一つ、以前ワタシが久世くんのことをやんごとなき身の上、と言ったのを覚えているかな」


 またも無言で頷く僕。それを見て学長は言葉を続ける。


「久世というのは旧姓でね。彼女の母方の苗字を便宜的べんぎてきに名乗っているに過ぎない」

「……じゃあ本来の名前は?」


 学長はふっと凄絶に笑った。

 その笑みは皮肉を含んだようで、けれどどこか誇らしげでもあって。

 そんな矛盾した感情を表したまま、学長はアリシアの名を明かした。



「――――アリシア・ヴィオラ・ヘルシング。それが彼女の名だ」

 

 その名を聞いた瞬間、僕の世界が止まった。

 血雨が窓を細かく叩く音も、淹れた紅茶の立てる香りも、何もかも感じられなかった。

 ぐらりと脳が揺れるような目眩を感じて、目をつむる。

 すっと呼吸が止まるのを他人事のように、知覚する。

 そして、さまざまなことがに落ちた。

 アリシアが名を呼ばれるのをいとわった理由。

 過度に己を卑下ひげするような一面がある理由。

 表札が病的なまでにかき消されていた理由。

 学院でクラスメイトが僕を止めてきた理由。

 僕にいなくならないでよと泣き求めた理由。


「ヘルシング、その名を聞いたことはあるだろう?」


 自分の感情が底の底まで冷えていくのを感じながら、言葉を返す。

「……世界最高の《死妖殺しヴァンパイアハンター》エイブラハム・ヴァン・ヘルシング」

「ああ、そうさ。彼女、久世アリシアはヴァンの曾孫ひまごにして――

 

 ――世界最悪の《霊長殺しターミネーター》アーサー・ブラッドレイ・ヘルシングの娘だ」

 

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