【第七章 〈カルマ・ドグマ〉と死妖姫/彼女の世界】

◇夜明け前より赫々と


 午前六時。

 天気予報では晴れだと言っていたはずなのに〈終局都市ターミナル〉は全天の曇りだった。

 見上げる雲はないはずの暁光ぎょうこうで照らされたように赤く、猛烈な違和感を抱かせてくるうえ、その違和感を加速させるように空からは赤い雨が降ってきている。

 まるで全く異なる組成そせいで構成された惑星にいるような、あるいは世界が痛みに泣いて出血しているような――なんて感傷は現実には適用されず、実際のところは合成血液を精製する工業プラントの排気が赤いから発生する気象も赤くなるのだという。

 文字通りの血煙というわけだね、と冗談交じりに教えられたのはつい先ほど。

 場所は終末統合機関ヴィーゲ本部、その最上階である統括事務総長室にて。

 統括事務総長を兼任しているアイラ学長の牙城を僕は一人で訪れていた。

 そして今、詰めれば五人は並んで座れそうなソファに座り、ガラス張りの壁から都市を一望している。〈終局都市ターミナル〉で最も高く、最もよく空が目に入るここは、現状に目を背けたい僕からすれば救い以外の何物でもなかった。だというのに――


「見てごらん。『アノー』の周囲にドローンが飛んでいるよ。近くで見れば精巧な機能美を持ったあれらもここからだとまるで死骸しがいに群がるコバエのようだ」


 学長は最奥に構えている自分の席から、悪趣味にもあのデパートメント――正式名称を『アノー』というらしい――の現在状況を伝えてくる。


「今ニュースのチャンネルに繋げばあのドローンどもからヘタクソな空撮映像が流れてくるだろうね。そういえば君はもう〈終局都市ここ〉のメディアに触れてみたりはしたのかな」

「……ラジオなら。アイドルがやってるらしいものを」

「良いチョイスじゃないか」


 素っ気ない僕の答えにけれど学長は満足げにうなずくと自分の席から立ち上がり、飴茶色のテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。ワンフロアがまるまる一つの部屋となっているために、それだけでも五メートル以上を移動している。


「それにしても彼女の偉業には目を見張るね。一時的な気圧の変化のみならず、その後の気象すら変えてみせるとは。一言でいいから直接褒めてあげたかった」


 血雨ちさめでしとどに濡れる都市を見下ろしながら、嘆くでも悲しむでもなく、普段の調子で褒めたたえる。それが学長なりのいたみ方なんだろう。

 けれど、僕は何も言わなかった。あるいは、言えなかった。

 デパートメントでの事件から約半日。

 更科フウリのアニムスによって気象すら変化したというのに、僕の感情は少しも動いていなかった。

 あまりの衝撃に心が麻痺してしまったのかと思ったけれど、全身に疲労感はあるし、お腹も空くし、頭脳に至っては恐ろしいほど怜悧れいりに冴えているのをはっきり自覚している。

『死に直面した時が最も生を実感する』という言葉があるけれど、今の僕はそれに近しい状態だった。


伊丹いたみさんはどうしてますか」

「いたって元気だよ。『アノー』のなかで無事に回収されている。

 だいぶ縮み上がっていたらしいけどね」


 煩雑はんざつきわまったデパートメントの端でぶるぶると震えている伊丹さんを想像したら、なんだか笑えるような、泣きたくなるような気持ちになった。


「アリシアは無事なんですか」


 本命について尋ねれば、学長はおどけるように肩をすくめて、


「さて、どのように答えたものかな。身柄は確保されて病院に送られているから無事とも言えるし、あるいはそうでないとも――」

「質問を変えます。アリシアは健康ですか」


 即座に問いを切り替えた僕に、学長は呆れも露わにため息をつく。


世界保健機関の定義した健康――肉体フィジカル精神メンタル社会ソーシャルの計三つの観点から述べれば、うち二つが良好ではないね」

「良好な一つは?」

「無論、肉体フィジカルだよ。ワタシたちの身体が損なわれる時があるとすれば、それは灰化するときだけだ。ワタシたちが健康を得るには残り二つさえ満たせばいいんだから楽なものだよ。とはいえこのご時世、それこそが難しいんだけどね、アハハハ!」


 学長の乾いた笑いはフロアに虚しく響き、反響もせず消えていく。


「ちょっとくらいは反応して欲しいなぁ、『そもそも死人じゃないですか〜』とかさ。

 まるでワタシがスベったみたいだ」

「『みたい』じゃなくてスベってるんですよ」


 それはもう盛大に。

 けれど学長は少しも悪びれる様子なく、テーブル上に用意されているティーポットに手を伸ばす。


「まぁこんな与太話はさておき、紅茶でも飲みながら話すとしよう」


 言いながら、慣れた手つきに楚々そそとした所作で紅茶をれ終えた学長が僕の元にティーカップをおいてくれる。


「先日のをさっそく仕入れてみたんだけど、味はどうかな?」

「……美味しいですよ」


 簡潔に答えて、純白のティーカップを飴茶色のテーブルに戻す。


「そうか、ならそっちも味見してみてくれ」


 学長の指さした先には鮮やかな赤色の生地がメッシュのように練り込まれたスコーンがあった。


「ずいぶん珍しい色のスコーンですね」

のが作ってくれたんだ。特別製だよ」

「『うちの』とは?」

「あの黒髪ロングの秘書兼メイドさ。今日君たちにつかわせたばかりだろう?」

「ああ」


 すっかり記憶の彼方に飛んでいた出来事を思い出しながら、スコーンに口をつける。

 冷めながらもサクサクとした食感で、かなりの腕前と察せられる。けれど……


「変な臭いしません? 味もあんまり甘くないし……

 何が入ってるんですかこれ」


 僕の問いに、学長は見た目の可憐かれんさを存分に活かした可愛かわいさ100%の笑みで答える。


「ああ、うさぎの生き血が入ってるんだ」


 次の瞬間にはスコーンを盛大に口から吹き飛ばしていた。


「ぶっふぉっぇおっふはぁ‼︎」

「うわ汚いな。貴重な食べ物になんてことをするんだ」

「こっちのセリフだ! 貴重な食べ物になんてことするんですか!

 肉じゃなくて生き血て! 食べられるものも食べられないでしょう!」


 非難の声をあげれば、学長はどこからか取り出したちりとりでスコーンだったものを手早く片付けながら意地悪い笑みを浮かべる。


「おや、そういえば君は非感染者ニップだったね。口直しに別のものを出せれば良かったんだが、あいにく他のお茶請けは用意していなくてね。どうかそれで我慢してくれ」


 そんなことを言いつつも、最初からわかりきって出したのだろう――それを裏付けるように小さく首を折りながら言葉を付け足す。


「まさか人様から出されたものを残したりはしないだろう?」

「そりゃ、食べられないわけじゃないですけど……」

「なら食べるといい。精力がつくし、今後誰かの食事に招かれた時の予行にもなる」


 妙に納得できるようなことを言い、自分も一口かじったスコーンを飲み込んだところで、学長はすっと表情を消した。


「それで、このワタシに何が聞きたいのかな」


 生徒こどもに温かく寄り添う学長マザーから、都市を守り抜く厳命を帯びた統括事務総長に一瞬で変じてみせるその切り替えの速さに内心で舌を巻きつつ、僕は本題に入る。


「アリシアを狙っているのは何者なんですか」


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