◇恐ろしきはその可能性


「――――っ⁉︎」


 幽鬼のような、脱力しきって緩慢なその動作のせいで反応が一瞬遅れた。

 急に高所へ上がった時特有の、耳が詰まるようなあの感覚がなければ今ごろアリシアごと微塵みじんになっていただろう――そんなことを思いながら、僕はアリシアを抱えたまま、横合いからすっ飛んできたグランドピアノから寸毫すんごうの差で身を引いていた。グランドピアノは強烈な運動エネルギーを保持したまま婦人服店に突っ込んでいき、大量のトルソーたちを巻き込み自壊しながら店の奥へと消えていく。


「あっぶな――うおぁ⁉︎」


 間一髪、と思いきや今度はガラスの破片が小魚の大群のように突っ込んできた。

 照明が消えて薄暗いデパートメントの中、外から差し込む警報ドローンや電灯の光の反射でなんとかガラス片の群れを捉え、転がるように逃げながら柱の裏へ回る。すぐそこの床に無数のガラス片のぶつかり砕け散る音が重なり響く。

 ガラスの雨が止んだと同時に、そのまま柱を遮蔽にして奥の通路へ逃げ込み、別のエスカレーターで二階へと上がる。


「さ、さっきのは……? 彼女、念能力サイコキネシスでも使える系女子?」


 追ってこられた時のために足は止めないままアリシアに問いを投げてみれば、ゆるゆると首を振った。


「いえ、あれは空気操作エアロ・トレイルの一種で大別は私のアニムスと同じ“環境変化プラド”よ。

 判別名を《縦横扇風エア・スライダー》と言って、自身の一定範囲内の大気を操作することができるわ」

「なんだか息がしにくいなと思ってたけど、もしかしなくてもそれのせい?」

「フーリがこのデパート内を極低気圧にしてるんでしょうね。

 正直言って、私もかなり辛いわ……」


 アリシアはぱちくりと瞬きをして、自身を抱えたまま走る僕の顔を見た。


「そういえばイザヤ、この状況下で私を抱えたままどうしてそんなに動けてるの?

 本当に人間?」

「人間だよ! 月一で地元の山に登らされただけだって!

 やめてよ、そんな目で見ないでよ!」

「じー……」


 弁解するもなおジト目を向けてくるアリシアに、たまらず話題を変える。


「それにしても彼女、何かおかしくない?」

「何かってなによ」

「それは上手く言えないんだけ――どぉっ⁉︎」


 更科の裏を取るべく、デパートメント内を右回りに移動して三階へ上がろうとした直前、エスカレーター前に辿り着いたところで狙ったように大きな植木鉢が三つほど飛んできた。

 一つ目は急制動をかけることで眼前を過ぎさせ、右にステップを踏んで二つ目、そのまましゃがむことで三つ目を回避する。他に余計なものが飛んでくる前に三階へ一気に駆け上がり、身を隠すべく小ぢんまりとしたカフェの中に転がり込んだ。

 外に散らばっているおかげでガラスの少ない店内の奥まったソファ席に着き、アリシアを降ろしてようやく一息つく。それで気づいた。ここだと息が不自由なくできる。


「範囲はそこまで広くないっぽいな……」


 半ば無呼吸運動のような状態で悲鳴をあげていた身体に酸素を与えるべく深呼吸をしていると、くいと袖を引っ張られた。なんだ。


「さっきの続きなのだけど。何かってなんのことなの」

「今その話する⁉︎ 僕死にかけたばっかりなんだけど!」


 労りや心配の声を一言もかけてくれないどころか何事もなかったように話を続けようとする様はクールを通り越してドライだ。

 グワー、と声をあげる僕にアリシアは薄暗い中でもなお白さのわかる華奢きゃしゃな指をビッとこちらに向けてくる。


「逆に言うけど、今やらないでいつするのよ。何がおかしいのか分かれば、あの子を取り押さえるための突破口になるかもしれないでしょ。違う?」

「それは確かにそうだけどさ……うーん」


 一丁前に悩む素振りを見せてみるけど、正直どう考えればいいのか、その糸口さえ掴めていなかった。


「ごめん、でもやっぱりわからないよ。

 アリシアは何かおかしいって感じたことはない?」

「何か、どころか何もかもがおかしいわよ」


 僕の問いに、アリシアはテーブルの対面で両肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せたまま息を吐く。その仕草は今が平時でテーブルの上に湯気の立つマグカップでも置いてあったならさぞ絵になったことだろう。


「何もかもって、具体的にはどんなこと?」

「私の言葉に反応してくれないし、似合わない外套ローブ着てるし」

「いや外見の話をされても……」


 僕は初めて会ったからその辺りは何もわからない。が、アリシアはまだ言葉を続ける。


「それにあんな質量のある物体を飛ばしたり、高山病を引き起こすほどの気圧変化をやってのけてるし……あの子、私たちといた時よりも遥かにアニムスが強くなってるわ」


 ようやく出てきた具体的な異常点を僕はさらに掘り下げる。


「アニムスが強くなるのはおかしいことなの?」

「強くなること自体はなんらおかしいことじゃないわ。

 アニムスは突き詰めれば私たちに新しく追加された身体機能だから……」

「鍛えることができる?」


 僕の言葉にアリシアは軽く頷いて見せる。


「人が身体を鍛えるように、適切な訓練で負荷を与えていけばアニムスの練度を高めることは十分に可能よ。でも、年単位でようやく数値に変化が出てくるのが普通なの」

「それなのに彼女はさらわれた後の半年弱でとんでもない強さを手に入れているわけか」

「そう。私たちといた時は任意の方向に最大でも秒速20m超の暴風を起こすのがやっとだったの。それが今は擬似的な《空力噴射エアロ・ジェット》をしてみせたり、局地的な気圧変化を起こしたりと、全く別系統の制御を行ってる。たった1℃違うだけで空気中分子の振る舞いが変わるから繊細な制御コントロールを求められるはずの空気操作エアロ・トレイルで、よ」

「アニムスについてが全くわからないせいでイマイチすごさが伝わらないんだけど、ランクで示すとしたらどれくらいになる?」

「一人で起こせる現象の種類だけを見ればSランクにも届きうるわ。以前の彼女はB寄りのCだったのにね。これがどれほど有り得ないことか想像できる?」

「ど、どれくらい……?」

「全く身体を鍛えていなかった虚弱体質の人が林檎を握りつぶしてみせるようなものよ」


 頭の中で棒のような手足を持つ人が林檎を握り潰し、果汁を滴らせる様を想像してみる。


「……それは、すごいな」


 かなりファンシーだった。


「そう、とてもすごい。

 けれど、本当にすごいのは全くということ」


 目をつむり、再度見開かれたアリシアの瞳に、ほのかな青の光が宿る。


「それこそイザヤの言っていたように《念能力サイコキネシス》で操れば、たとえ指が折れて骨が皮を突き破ろうと無理やり指を林檎にめり込ませられる。

 あるいは《分子制御マイクロ・キネティック》でカーボンナノチューブの擬似神経やグラフェン筋繊維でも作って腕に埋め込めば容易く握力100kg超えになれるでしょう」


 アリシアは組んだ手を祈るように固く握りしめ、額に強く当てて俯く。


「ええ、なれるのよ。フーリは、そういうふうにされたかもしれないのよ……っ!」


 そうしてこぼす言葉は憤怒ふんぬたぎっていて、唇は悲哀に戦慄わなないていた。


「イザヤも見たでしょう? あの子の目をっ……

 意思なんて介在していない、虚しさで満ちた眼を!」


 そう言って顔を上げたアリシアの眼には、様々な感情が渦巻きぜになっていた。それは確かに生きた人にしか存在しない激烈な意思。アリシアはその意思に突き動かされ、呪詛を唱えるように、熱に浮かされた病人のうわごとのように、言葉を零し続ける。


「今度こそ救わなきゃダメなの。あの時、私が失敗さえしなければフーリは――」



「アリシア!」


 気づけば、僕はその言葉ごとアリシアの両手を包み込んでさえぎっていた。

 アリシアは夢から覚めたような面持ちで僕を見つめている。


「落ち着いて。一回深呼吸しよう」

「う、うん……」


 まるで迷子のところを見知らぬ人に助けてもらったような、少しの安堵と大きな不安の混じった表情に子供のような素直さでアリシアは深呼吸をする。

 僕はそれを見つめているうちに、今さら気づいた。

 アリシアが僕のことを微塵も気にかけなかった理由。


 ――気にかけられなかったのだ。


 アリシアはただ、更科のことを考えている。彼女を救おうとすることだけを。

 アリシアは助けを求めている人がいるから動くのだと言った。

 それは真実で、無論、人質に取られている人たちのことも救うつもりではあるだろう。

 けれど、アリシアが最も救いたいのは更科フウリだ。

 自分の不手際でさらわれてしまった彼女を、自分自身の手で救いたい。

 そうして気負うあまり、隣にいる人に気遣いの言葉をかける余裕さえ無くなっている。

 なら、気遣うべきは僕の方だろう。

 アリシアの目を見て、ゆっくりと、言葉の意味が伝わるように口を開く。


「大丈夫。アリシアは一人じゃないよ。

 だからもう、なんでも一人でやろうとしなくていいんだ」

「……っ!」


 ぐらり、と。青く光る瞳が、確かに揺れた気がした。

 凍りついた芯が差し込んだ温度に音を立ててヒビ割れる、さながら溶解の前兆のように。

 そのままじわりと瞳を濡らす液体がまぶたの縁に現れ、あっという間に目尻の防波堤が決壊する――かと思われたが、アリシアは下唇を噛み締めてすんでのところで耐えていた。


「ふぐ、う、うぅ……ううう」

「変なところで強がりだな……」


 思わず苦笑してしまうと、アリシアは浮かび上がった涙を二の腕あたりの布で乱暴に拭き取りながら、上ずる声を漏らす。


「だって、これで泣いたら、一人じゃなんにもできないって認めるようなものじゃない」

「どうしてそうなるのさ。一人より二人の方ができることは多いよねってだけだよ」

「それでも、お前一人じゃできないぞって言われてるように感じる……」


 なおもぶすくれるアリシアに僕は今度こそ声をあげて笑ってしまう。


「それは感受性が豊かすぎるかなぁ」


 なおこれ以上暴走すると被害妄想と言われるものになったりするので気をつけましょう。


「ま、それはさておき……アリシア、僕が今から言うことを聞いてほしい」


 大丈夫?と尋ねてみてから、赤くなった目尻を見て、無用な心配だったと気づく。


「うん。もう平気よ。なんだってやってやるわ。

 ――イザヤと一緒にね」


 そうして不敵な微笑を浮かべてみせるアリシアに、それでこそアリシアだと僕も笑った。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る