夜明けの章

俺は莫迦だ。どうしようもない莫迦なのだ。

俺が今から意地汚くも悪あがきのように書く、この文章は俺の全てだ。俺のこころの奥底からの叫びだ。嗚呼、書き殴らずにはいられぬのだ。

俺は生まれる場所を間違えたのだ。生まれる時代を間違えたのだ。そもそも生まれたこと自体間違いだったのだ。俺のような我儘わがままな大莫迦者など早く死んで仕舞えばよかったのだ。生まれ、産声を上げるその瞬間にでも絞め殺されて仕舞えばよかったのだ。それに気付いた瞬間にでもこの咽喉のどへと一突きやって仕舞えばよかったのだ。

俺の道は、俺の辿ってきた人生は後悔ばかりだ。悔いても悔いても悔い切れぬ、陰鬱にして何の意味もないようながらんどうの人生だ。ただ空気を無駄に吸い、飯を無駄に食らうだけのしょうもない男を、今まで生かしてくれた全てのものに感謝をする。そして俺は全てを恨むだろう、怨むのだろう。

始まりは何時のことだったのだろうか。い弟、真二が河原の御嬢おじょうと出逢った日か。愛い妹、真理が御嬢と仲違いした日か。否、全てはこの俺が五つの時から始まっていたのだ。俺の人生はそこから狂わされた。否、生まれ落ちた時から狂っていたことを、その時に、暴露されただけのことなのだろう。しかし俺の人生は、確かにそこから崩落するかのように急転したのであった。

どうか己の罪を他人へと浅ましくなすりつける俺をゆるして欲しい。俺一人では堪えられぬのだ。

これは、誰に宛てた手紙でもない。俺の本心をひたすらに書き殴った、世界で一等稚拙な遺書だ。

どうかこれが誰にも発掘されず、古本の城と共に燃やされ朽ちることを、ただひたすらに願っている。



俺は五つの時に父からある真実を教えられた。それは俺がこの男の実の息子ではないという事実だった。俺は当惑し、父だと思っていた男へと詰問した。男はゆるりと首を振った。俺はたったそれだけの動作で人生で一番深く、一番長い絶望へと叩き落とされたのだ。まさしく「深淵」。俺のこころの深淵は、丁度この時に出来上がったのだ。以来、俺はずっとその深淵を彷徨さまよっている。あと数年もしたら二十年程も彷徨っていることとなるのだ。なんと愚かなことだろう。しかし俺のなまくらで愚かな頭では、この深き闇の出口を見つけることは到底不可能だったのだ。

その男曰く、俺は男の兄の息子なのだという。俺の父は思わぬところに出来た俺を疎ましく思ったのだろう、体良く結婚したばかりだった弟へ生まれたばかりの赤子の俺を押し付けたのだと言う。その通り、俺は生まれた時から生まれ落ちるべきではなかったのだ。しかし男はこうも言ってくれた。「しかしお前は私たちの大切な息子に違いはない」と。俺はこの言葉に救われた気になったのだ。途方もない深淵に、一縷いちるの光が差したように思ったのである。俺はこの「父」に一等感謝をし、これまで以上に彼に尽くす様になった。俺を絶望へと叩き落としたのはこの男であるが、俺をそこから引きり出してくれたのも、またこの男なのである。

しかし、俺はその一年後、再び絶望の底へとその身を沈めることとなった。弟の誕生だ。何故、俺では足りなかったのだろうか。俺はもう必要無いと言うのか。幼いながら俺は思った。そして俺は悟った。どれだけつくろえど、俺はあの男の息子ではないのだ。あの男の実の息子には成り得ないのだ。俺では足りないのだ。足りる訳がなかったのだ。

俺はあの男を恨んだ。生まれたばかりの弟を憎んだ。その弟を産んだ女に殺意を抱いた。しかし全ては唯の八つ当たりに過ぎなかったのだ。全ては生まれてきてしまった俺が悪く、本来恨まれ憎まれ殺意を抱かれるべきはこの俺なのだ。

幸いにして俺のその小さな弟は器量も良く、要領も良かったため、俺とは違い日の差す世界で健やかに育っていった。背丈ばかりは俺の方がまさっていたが、その他はその目の輝きも、動作も、体力も、全てが彼奴あいつの方が優っていた。

彼奴の名前は「真二」とつけられたそうだ。俺と同じ「まこと」の字に二等の「二」。真二は生まれた時から二等などと酷いのではないのかしらん、と愚痴愚痴俺へ言っていたが、間違いなくあの男から一等の愛情を注がれていたのはお前なのだろう。名前など、交換出来て仕舞えば良かったのだ。俺こそが二等なのだ。否、きっと二等にすら成り切れない、邪魔者なのだ。こんな俺に「一等の真実」の名など重過ぎたのだ。しかし俺は相も変わらず名由多一真で、俺の弟はずっと名由多真二であった。

それからさらに二年ほど経った頃、今度は可愛らしい女子おなごが生まれたと聞いた。その頃の俺はまだ八つで、真二へのねたみでさえ片付けられていなかったため、初めは酷く辛く当たってしまったこと、この遺書の中ではあれど謝罪させて貰いたいのだ。莫迦で愚かなこの俺は、人を恨む事でしか生きてゆけなかったのだ。

「真理」などと言う理知的な名をつけられた彼女は、これまた名に沿う様に賢い少女へと育った。はたから見れば唯のお転婆な少女であったが、その感受性は大人のそれより遥かに優れ、俺も驚くほどであった。

高等学校を卒業した俺は、部屋へ篭って本を読む事に熱中した。特に目的があった訳でも、研究したい事があった訳でもない。

精神的に向上心がないものは、馬鹿だ。何処どこかの本、きっとこの渦高く莫迦のように積まれた本の中に埋もれているだろう一冊に、こんな事が書いてあった様な記憶がある。小説だったか、論説だったかも覚えていない。俺のこころはずっと五歳の餓鬼がきのままだ。この書斎の様に薄暗く閉ざされた深淵に囚われた、五歳の幼児おさなごのままだ。向上心も何もあったものではない。だからこそ、俺はまるで食い付くかの様に本へと没頭した。少しでも多くの知識をこのがらんどうの頭へ詰め込み、少しでも見てくれを莫迦の様に見えなくするために、俺はひたすら勉学に励んだ。幸いな事に、俺にとって勉学は苦痛ではなかった。散歩のついでに立ち寄った古本屋で大学の教授先生に声をかけられた。本を買う金が増えるのならば、という至極単純で明快な理由を以って、俺はその先生様の提案を二つ返事で受け付けた。それ以来俺は週に一度、通いもしていない大学へ足を運ぶ事になったのだ。

それ以来俺の生活は自分の書斎と週に一度の大学、そしてごく稀の古本屋だけで完結する様になった。厭世家えんせいかではないと自分では思っているのだが、ひょっとしたら将しくそれなのかもしれない。書斎の襖は固く閉じ、弟や妹でさえ入るのに覚悟の要る空間となった。

俺は、喋らなくなった。無駄に知識だけ増えたまま、莫迦のままの頭では正しい言葉が引き出せなくなった。それを悩んでいるうちに教授先生たちは会話を終え、こちらを無感情な目で見つめてくる。名由多くんは今日も喋らないのですね、きっと喋るのも億劫なのでしょう、天才には変人も多いと聞きますから。そんな会話を聞きながら、俺はこころの中でかぶりを振った。もしこの俺が天才などに見えると言うのなら、きっとそれは俺の愚かしい努力の結晶なのだろう。それに俺が何時までも話せずにいるのは貴様たちの所為せいなのではないのか。それを唯の一言「天才」などと言う才能で片付けてくれるな。俺は唯の、一欠片の才能も持たない、この世で一等莫迦な人間なのだから。

ある日、固く閉じた書斎へ弟が入ってきた。真二はその明るく煌めく瞳を伏せ、不安げに黙ったまま戸口でもじもじとしていた。あまり関わることもなかった相手だ、いくら兄とはいえ、話しかけ辛いのも当然だろう。優に数分は経っただろうか、この血縁の薄い弟はゆっくりと口を開いた。朝の河原に現れる御嬢に対する激しい恋情が、その小さな口から留めどなく溢れ出てきていた。俺は微塵もその様な素振りは見せなかったが、自分では持ち合わせていないその激情に押し潰されでもしてしまいそうだった。しかし、この愛い弟はその感情が溢れんばかりの恋情であることにすら気づいていない様子だった。きっとそれに気付くには若すぎるのだろう、幼すぎるのだろう。俺は悩んだ。この相手を殺しかねない程の強い恋情を、この少年に自覚させてしまっても良いのだろうか。それで相手の御嬢は死んでしまいやしないのだろうか。しかし、俺はそれを伝える事にした。特に明確な理由はない。唯、この賢い弟ならば、その激情をそのままそっくり御嬢へぶつけるなどという莫迦なことはしないだろうと考えたからだ。俺の読みは当たり、賢い真二はその御嬢の留守を用いて自身の気持ちにしっかりと整理をつけた様であった。その一月ほど後に屋敷へ御嬢を連れてきたのは、早過ぎやしないかと驚いたものだが。

御嬢と俺の関係は、一言で言うなれば悪くはなかった。御嬢は当然のように俺に挨拶をしにやって来た。どうやら真二は俺への相談事をそっくり御嬢に話してしまったらしい。御嬢は俺に向かって微笑み、「可愛らしい真二様をわたくしなどにくださり、本当に有り難く存じております」などと可愛らしい声で言うと書斎を後にした。言うだけ言われた俺は、唯その意味を解釈し兼ねて一人で首をひねるばかりであった。

それから更に数日後、今度は末の妹の真理が俺の書斎を訪れて来た。否、俺が呼び出したのである。彼女が御嬢と上手くいっていないことは流石の俺でも知っていた。真理が普段の生活で度々たびたび俺の書斎の襖を振り返っている事は知っていた。その事について相談でもしたいのだろう。何故だかわからないが、兄妹の中で何故か俺は一等賢いと勘違いされてしまっているようで、この二人の相談には何度か乗っているのである。呼び出したものの、しかし中々喋り出さない真理に痺れを切らした俺は、先に彼女に問いかける事にした。自身も同じように話せずにいるにもかかわらず、なんと自分本位な事だろう。しかしその時の俺は、理由は覚えていないが、とにかくあまり機嫌が良くなかったのである。気が立っていた俺は態々わざわざ彼女の気に触るような言い回しをして発言を促した。すると驚いたように固まった後、泣き出してしまったのである。流石に泣かせるつもりはなかった俺は、遂先程までの不機嫌も吹き飛ぶ勢いで狼狽ろうばいし始めたのである。今思い返せば随分と滑稽こっけいな事である。ただおろおろと彼女の周りを歩いては顔を覗き込む俺が彼女も滑稽だったのだろう、彼女は唐突に笑い出した。その理由は判っていたが、突然笑われて如何どうしたら良いかと困った俺は、一旦本の奥へと引っ込んでしまう事にしたのである。やがて笑って落ち着いたのだろう、真理はゆっくりと俺の予想した通りのことを喋り出した。もとより手に本を持ってはいたものの、読む気は微塵も持ち合わせていなかった俺は、唯静かにその話を聞いていた。そして彼女がそれを話し終えると、ゆっくりと立ち上がって彼女の頭を撫でてやったのだ。如何してそのような事をしようと思い付いたのかは憶えていない。せめて兄らしくしてやろうと思ったのか、それとも何処かの小説で似たような情景シーンを読んだのだろうか。取り敢えず俺は慣れぬ手付きで、思っていたよりも低い位置にあった妹の頭をわしわしと力任せに撫でていたのである。そして俺はあらかじめ考えていた解決策をゆっくりと話した。熟考を挟みつつ、正しく伝わり易そうな言葉を選んで伝える。さとい妹は良く理解をしてくれたようで、俺の問いかけにゆっくりと小さく首を振ってみせた。震える妹を抱きしめながら、俺は確かに久方ぶりの「喜び」を感じていた。弟に、妹に、まるで兄のように振る舞う喜び。あの男の息子には成れなかったが、この幼児たちの兄には俺は成れたのだ。初めて得た確固たる「兄」という立場に、俺は確かな喜びと僅かな背徳感を感じていた。



かくして俺はこの二つの相談によって満足のゆく自分の立場を手に入れたのである。愛い弟妹ていまいの相談に優しく乗ってやる賢い兄の立場。例えその兄の血縁が薄かろうと、例えその賢さが見せかけの物だったとしても、俺は大いに満足していたのだ。途方もない莫迦であった俺が、初めて満たされた瞬間だった。一瞬の話ではあったが、俺は確かに深淵の中に、あの時の光よりも強いものを見たのである。

しかし数日経ってみると如何だろうか。弟も妹も新しく屋敷にやって来た器量の良い御嬢に連れ添い、俺だけがこの薄暗い深淵の書斎へ取り残されているではないか。俺の得た「兄」は儚いまやかしで、俺はまた書斎の深淵に一人取り残される罪人へと戻った。俺を置いて光の方へと歩み続けるお前たちが憎らしかった。俺のことを振り返りもせずに突き進むお前たちが恨めしかった。そしてその全てを招いたのが、俺の得意げで空っぽな助言であることが、如何しても赦せなかった。俺をこの奈落へ突き落としたのは、他でもない俺自身だったのだ!嗚呼、俺は俺が憎い。俺は自分を赦せぬのだ!自ら深淵へその身を堕としておきながら、眩しすぎる光を望むこの俺が!この後途方もない闇へ他人までも引き摺り込もうと画策するこの浅ましい俺が!俺の全てが、俺の今まで生きてきた全てが、俺は如何しても赦せぬのだ!

俺はまた、がらんどうへと戻った。

悪いのは、俺なのだ。書斎の襖を開け、日の差す外へと踏み出さなかった俺が悪いのである。弟の差し出した小刀を、自らの咽喉のどへと突き立てたのは、他ならぬ俺なのだ。その小刀をシャベルへ変え、妹をそそのかしたのは、紛れもないこの俺なのである。可愛らしく無垢な兄妹の、各々おのおののこころを引き裂き、穴を開け、元通りの修復など願えぬほどにずたずたにしたのは、この俺なのである。俺は自分のみがこのこころの深淵を受け入れなければならない事が許せなかった。お前たちのこころも暴き、その深淵を見せつけてやりたかったのだ。愛い弟妹よ、俺を憎め、俺を恨め、俺を罵れ。お前たちのこころを痛めつけたのは、俺のしょうもないこのエゴなのだ。

障子の向こう、縁側の辺りがほのかに明るい。もうすぐ夜明けが来るのだろう。

しかし、俺に夜明けは要らぬ。俺の深淵はこの夜と共に果てる運命なのだ。夜が明け、俺の遺骸の始末をお前たちに任せきりになってしまう事だけが、俺の心残りだ。

俺など、お前たちが生まれてくるよりも前に死んでしまうべきだったというのに。

文机に刺さった小刀は、昔から変わらず鈍い光を放っている。俺にはこの程度の光が丁度お似合いだ。否、この様な光すら望むのも烏滸おこがましいだろう。ならば、この光を消してしまえ。己の、俺の、穢れたこの血で、この部屋の全てを覆い尽くしてしまえ。

俺の、名由多一真の深淵は、きっとせ返る様な血の色なのだ。

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