夕暮れの章

あれはそう、たしか下のお兄さまが裏の裏の家のお嬢さまを連れて帰ってきた日のことでした。

下のお兄さま、では不便なので、この手紙の中では真二さまとお呼びすることを、どうかお許しください。とはいえ真二さまならば笑って「普段もそう呼べばいいのに」などと言いそうなのですが。とにかく、きっとことの始まりは真二さまがあの可憐なお嬢さまを我が家に紹介するために連れてきた日だと、あたしは思うのです。

近頃の真二さまは日に日にやつれてゆき、とうとう今日は昼間にふらりと姿を消したまま、夜になっても帰って来なくなってしまいました。恐らく明日の昼にでもなれば帰って来るのでしょうが、あたしはその間お父様と、今は真二さまの奥さまになられたお嬢さまと三人きりでこの冬の暗い夜を越さなければならないようです。

真二さまは一週間ほど前、ちょうど上のお兄さまの一真さまがお亡くなりになられたころに長い長い、それは長いお手紙を書いていらしてました。そこで不安に駆られたあたしは、こんな真夜中に筆をとることにしたのです。

誰に宛てて書いているわけでもないのですが、いざ誰かに読まれるかもしれないと考えると恥ずかしいですね。もし誰かがこの手紙を読んでいらっしゃるのでしたら、読み終わったあとでよいので速やかに火鉢の中にでも入れて燃やしてくれるとありがたいと、あたしは思うのです。

あたしには兄が二人おります。一人は一真さま、あたしとは十近くも年の離れているお兄さまです。暗い色のざんぎり頭をしていて、それなのに和服を好んで着る、不思議なお方です。大学と言う頭の良いお方々が集まる所へは行かずに、我が家の狭い部屋の一つで本に埋もれるようにして生きています。幼い頃からずっと、この兄はいつか本に押しつぶされて死にやしないか、と思っていたのです。まさか別の手段でお亡くなりになられてしまうなど夢にも思っておりませんでしたが。一真さまが亡くなられてから一週間も経ちますが、襖の血糊は未だ色鮮やかに見えてしまいます。早く拭き取ってしまいたい思いもありますが、この血糊さえ消えてしまうと本当に一真さまの存在がこの部屋から消えてしまうような気がしてしまい、なかなか踏み切れずにいます。

もう一人の兄は真二さま、私より二つほど年上のお兄さまです。一真さまを真似たようなざんぎり頭を見ていると、少し微笑ましく感じます。どうやら真二さまは洋服の方が好みらしく、この間の休みにはシャツにサスペンダーといった具合の格好で喫茶店へと繰り出していました。一真さまとは対照的なのですね。

先ほども少し書いたと思いますが、真二さまはこの間長いことこの文机に向かって何かと長いお手紙を書いていらっしゃいました。あたしが覗き込むことは断られてしまったのでできませんでしたが、何を書いていたのかは大体想像するのも難しくありませんでした。何せ真二さまは一真さまと違い、考えていることがすぐ顔に出てしまいますからね。手紙を書いているときの横顔だけで、大体その内容程度は察せるのです。大方一真さまについてとその後悔のことでしょう。あのように明るいようでいて、真二さまは責任感がとてもお強いお方なのです。

あたしは弱いです。女として生まれついたから、と言うこともありますが、それ以上にこのこころがろくで無しの臆病者なのです。真二さまに直接このことを申し上げるなんてことはできません。

だからこそ、あたしはこっそりと彼のいない真夜中に、この手紙を書いてしまおうというわけなのです。

真に懺悔をすべきなのは真二さまではなく、このあたし、真理であるということを。



始まりは冒頭にも書いた通り、やはり真二さまが裏の裏のお嬢さま、鈴葉さまを連れてきた日だとあたしは思うのです。それまでのあたしは末っ子の妹だという身分を振りかざして、二人の兄を独り占めしていました。あたしにとっては、それが日常だったのです。

それが、ある日突然顔も初めて見るような鈴葉さまに奪われてしまったのです。鈴葉さまに悪気が微塵もないことは分かっております。それでも、あたしが当たり前のように独占していた真二さまのほぼ全てを華麗に奪い去っていったあなたさまのことが、わがままなあたしは許せなかったのです。

今思えばとても失礼なことですが、同じお屋敷に住むにあたって、あたしは鈴葉さまに数々の無礼なことをしてきたと記憶しています。謝っても謝りきれないことですが、どうか幼子おさなご愚行ぐこうとして見逃してはいただけないでしょうか。真二さまを鈴葉さまに取られることが心配だったあたしは、何とかして鈴葉さまをお屋敷から追い出そうと、それはそれは奮闘いたしました。あの必死さは生まれて初めて、これまで経験もしたことない程だったと存じます。とにかく当時のあたしはそれだけ鈴葉さまのことが邪魔で邪魔で仕方がなかったのです。あたしのことよりも、あたしの知らない女の人を優先する真二さま。真二さまに庇護ひごされ、あたしのことを見下すかのように笑う鈴葉さま。もちろん鈴葉さまはそのようなおつもりで笑ったわけではないのはよく判っておりますが、当時のあたしには、そのように見えてどうしようもなかったのです。とにかくあたしはひたすら鈴葉さまに陰湿な嫌がらせを続けておりました。真二さまはよくあたしのことを「奔放だ」とおっしゃいますが、実の所、あたしは奔放などという言葉に収まることもできないほどの悪い子なのです。

鈴葉さまが名由多のお屋敷にお遊びに来られるようになってから一週間ほど経ったころでしょうか。あたしは珍しく上の兄、一真さまからのお呼び出しを受けて彼の書斎の前に立っていました。叱られる、と思いました。しかし幽霊のようにふわふわと手を差し出し、自身の領域へとあたしを招いてくれた一真さまは、決してこのあたしを叱るなどということはしませんでした。じっくりゆっくりと言葉を選び抜いた後、ただ一言「……どうしてあのようなことをするのだ」と静かにおっしゃいました。それはある種あたしにとっては叱咤や罵倒、説教よりも深くこころに突き刺さるものでした。あたしは暫時ざんじ呼吸をするのも忘れてその場に立ち尽くしていました。いいえ、正しくは一真さまのその言葉に心の臓を縫いとめられたかのように、あの薄い襖にはりつけになっていたのです。少なくとも、あたしはそのように感じていました。長いざんぎりの前髪の隙間から、一真さまの切れ長の瞳が鋭くこちらを睨みつけているように感じられました。実際のところ一真さまは表情が殆どお変わりになられないので、睨みつけてなどいないのでしょうけれど。

あたしはなんとか息の仕方を思い出すと、一真さまに向かってはしたなく泣き出してしまいました。学校に通っていらっしゃる一真さまや真二さまよりもあたしは遥かに知っている言葉が少なく、自分のこの妙な気分をどのように説明したらよいのか、あたしにはさっぱり見当もつかなかったのです。

一真さまは突然泣き出したあたしに当惑し、おろおろと忙しなくあたしの周りを歩き回っては顔を覗き込んできました。顔や声こそ何の感情を伝えることもありませんが、一真さまはその行動で熱心に自身の気分を表明なさるのです。一真さまがいつになく慌てていることが手に取るように判ったあたしは思わず笑い出してしまいました。一真さまはさらに困惑してしまった様子で、とうとう眉の端を下げてお手上げだ、とでも言うように本の山の向こうへと引っ込んでいってしまいました。あたしは笑ってしまう口元を袖で抑えながら、ゆっくりと話し始めました。鈴葉さまに真二さまを奪われてしまうと感じたこと、それがどうしようもなく悲しくて嫌だったこと、あたしは自分の中にある稚拙ちせつで貧弱な語彙ごいの中から一等正解に近い言葉を選びつつ、それはそれはゆっくりと話しました。その間一真さまは手に取った本の頁をめくることもせず、ただ静かにその話を聴いてくださりました。あたしが話し合えると、一真さまはゆっくりと立ち上がってあたしの頭を優しく撫でてくださりました。撫で慣れていないのでしょう、指は髪に絡まりかなり痛かったのですが、細くて白くて幽霊のように見えた一真さまの手は、一真さま本人のように確かに暖かかったのです。一真さまはあたしの頭を撫でながらこれまたゆっくりとおっしゃいました。

「……安心しろ。真二は変わったのではない」

低く、落ち着きのある声でした。あたしは相変わらず頭をぼさぼさに散らされながらそれを聴いていました。一真さまはまたしばらくそこで思案なさり、そして「……新たな側面が増えただけだ。お前はあれから真二に声をかけたか?」とお続けになられました。無口な一真さまにしては饒舌じょうぜつではないのかしら、とあたしは場違いなことを考えてしまいました。とにかく、あたしは素直に正直に首を横に振るしかありませんでした。あたしは変わってしまわれた真二さまが恐ろしく、なかなか声をかけられずにいたのです。

小さく首を振ったあたしを見て一真さまはあたしの頭から手を離されました。そしてふわりとあたしのことを優しく抱きしめてくださいました。チョコレヰトのような濃褐色の羽織であたしのことをすっぽりと包んでしまいました。かすかな火鉢の灰の薫りの中、あたしは驚いたように一真さまを見上げていました。一真さまは再びその言葉を慎重にお選びになられているご様子でした。あたしは一真さまを見つめながら、その白い口から次の言葉が紡がれるのを待っていました。

「……真二には、新たな側面が増えただけだ」と一真さまは先程の言葉を繰り返されました。そしてわずかに思案すると、今度は迷いなく言葉をお続けになられました。

「鈴葉嬢のための、恋情に燃える男の側面だ。しかしだからといって、お前に対する兄としての側面が失くなってしまったわけではないだろう。お前が声さえかければ、きっとそこには今までのようにお前の優しい兄がいるはずだ」

珍しく途中で吃ることもなく、一真さまは一気にそのようなことをおっしゃりました。あたしといえば、ただただその意外な返答に驚き、一真さまの羽織の中で固まって突っ立っていたのです。

一真さまはそっとあたしから離れると、あたしの方を優しく掴んで反対側へ向けてしまいました。あたしは向けられた方角、出入り口の襖をじっと見ていました。一真さまは最後に再びあたしの頭を撫でると、今度こそ本の山の向こう側へと引っ込んでいってしまわれました。もう帰れ、ということなのでしょう。あたしは一真さまに一礼すると、静かに襖を開けて書斎を後にしました。

どうやら真二さまはなかなか一真さまの書斎から出てこないあたしを心配していた様子で、若干赤い目を持って出てきたあたしのことを心配そうに抱きしめてくださりました。一真さまとは違う感触に包まれながら、あたしは思わず笑い出してしまいました。一真さまのおっしゃった通り、兄の真二さまはずっとそこにいたのです。醜い嫉妬に覆い隠されて見えなくなってしまっていただけだったのです。ひたすらに笑い続けるあたしに釣られてしまったのか、とうとう真二さままでも大声で笑い出してしまいました。普段なら五月蝿うるさいぞ、と襖からちょいと顔を出してくるはずの一真さまも、今回ばかりはきっと書斎の奥で満足げに古本をねくり回しているのでしょう。



かくしてあたしは鈴葉さまと仲直り、と言うよりも一方的に歩み寄ることができました。それから数年経った今でも関係はかなり良好で、道行く人たちからはまるで姉妹のようだなどと言われるほどです。もちろんあまり器量のよろしくないあたし如きが美しい鈴葉さまの妹さまと勘違いされてしまう、というのは少々居心地も悪いのですが、それ以上に姉妹のように仲睦まじく見えるということがとても嬉しいのです。鈴葉さまは幼いあたしが思っていたような、真二さまを奪っていってしまう女狐などではありませんでした。散々に意地悪をしてしまったあたしのことも受け入れてくださるような、とてもとてもお優しい方なのです。真二さまと共に鈴葉さまへ謝りに行ったときなど、あたしははしたなく泣き出してしまいました。もっともこれはその日二度目の泣きであったため、多少は涙腺が緩んでいたとして許していただきたいのですけれど。

今から一週間も前のことになります。色々と入り用なのだとおっしゃって文机の隅に突き立ててあった小刀は、今は本の山に囲まれてどこへ姿を眩ましてしまったのか、見当もつきません。しかしその不思議と魅力的な銀のやいばは、きっと一真さまの真紅の血で染まってしまっているのでしょう。襖に彼岸花のように散った血しか、あなたの存在を証明するものはないのです。本の山の一等高いところに置かれた白い小箱は、兄でありながら決して兄ではないのでしょう。あの全てを覆い尽くすかのような長身痩躯ちょうしんそうくの一真さまが、あのようにあたしの両の掌に収まるような大きさであるはずがございません。あの日、あたしの頭を不器用に撫でくりまわしたあの動作さえできない小箱が、あの兄であるなどとても信じられません。白い小箱と一真さまの似ているところといえば、顔の変わらぬことと、無口であるところくらいです。これではあんまりではないでしょうか。

真二さまがどうもおかしくなられたのは、この小箱が我が家にやって来たころだと存じております。真二さまもきっと、この小箱に狂わされてしまったのでしょう。このような箱があの一等敬愛する兄であるはずがない、と。

あたしは懺悔します。鈴葉さまと仲良くなれたことに浮かれ、一番の功労者である一真さまを蔑ろにしてしまったことを。

あたしは懺悔します。真二さまから手渡されたその小刀で一真さまを貫き、そしてシャベルへと転じたそれで真二さまご自身のこころの底を掘り返し、踏みにじったのは、他でもないこのあたしなのでございます。

嗚呼ああ、真二さまは一体どこへ行かれたのでしょうか。またまたあたしの知らぬ側面とやらが増えてしまったように思えます。一真さまがいないあたしには、今度こそ真二さまのことがわからぬのでございます。

夕暮れ時、この日が暮れるまでに真二さまが帰ってくることは、きっとないのでしょう。

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