2

 和音が自身のノートと向き合っている隙をついて、ちらりとベランダを盗み見る。


 「そろそろ日が暮れるな」


 大和は部屋の入口に、和音はベランダの窓に背を向けているため、大和の方からは空の様子がよく見えた。


 「……もう帰らないと」


 ぽつりと呟いたような独り言は、小さな部屋ではやけに響いて聞こえる。

 その言葉がどこか寂しげで。


 「なぁ……泊まって行かね?」


 つい口を突いて出てしまった。


 「え」


 大和の申し出に、和音はきょとんとした表情で首を傾げる。数秒経ってようやっと理解したのだろう、和音の頬がみるみるうちに真っ赤に染まった。


 「え、いや、オレ、なに言って」


 大和も釣られたように、ともすれば和音よりも燃えるほど頬に熱を持った。


 (おい待てオレ!! こんなの、まるで)


 帰ってほしくないみたいじゃないか、という言葉はすんでのところで飲み込んだ。

 それよりも和音の誤解を解かなければ、という事で頭がいっぱいで。


 「あ、えっとな、別にお前が心配だからってわけじゃないぞ!? お前があんまり寂しそうな顔してたから──」

 「あははははっ!」


 次から次へとあふれ出てくる言い訳じみた言葉は、唐突な和音の笑い声で止まった。

 あははは、と文字通り腹を抱えて笑う和音に、今度は大和がきょとんとする番だった。


 「あー、おかしっ。ふふ、こんなに笑ったの久々」


 いまだクスクスと泣き笑いをする和音に、先程までのうれいを帯びた影はまったく無い。


 「ありがとね、大和」


 パンッと軽く膝を叩き、和音が立ち上がる。


 「また明日来るから」


 ニコリと太陽のように優しく微笑む少女は、この世の何よりも綺麗だと思った。


 「あぁ……また明日」


 そんな幼馴染みを見てか、大和はそう言うだけで精一杯で。

 そうしてドアが閉まる音が聞こえてしばらく。

 和音の明るい話し声がここまで聞こえてくるから、きっと母と軽く話し込んでいるのだろう。

 大和はフラフラとベッドのふちに座り、枕を引き寄せる。


 「──行かないでくれ、なんて言えないだろ」


 一人きりになった部屋で、その声は寂しげにこだました。



 ◆◆◆



 朝起きてすぐの事。

 大和は朝食を食べながら何の気なしにテレビを観ていた。

 トースターでこんがりと焼いた食パンに、母が作ってくれたスクランブルエッグとウインナーを載せて食べる。大和にはこの時間が至福のひと時でもあった。


 「ここで速報をお伝えします。東京都○○区で殺人事件が発生しました」


 アナウンサーが述べた場所は、大和が住んでいる所からほど近くだった。


 (そういや、あそこに和音が居るっけ)


 モグモグと食パンを咀嚼し、飲み込む。

 それからさしてテレビに注視するでもなく、コップに手を伸ばした時だ。


 ワイドテレビから、見知った顔が映る。

 テレビに映った画面には、和音が満面の笑みでピースしている。


 「被害者は同区の高校へ通う竹原和音さんで──」


 その衝撃で手がぶつかり、コップを取り落とした。

 大和は何があったのか信じられなかった。


 「は……。な、んで」


 フルフルと唇が、身体が震える。

 なんで、どうして、と何度もその言葉が頭の中を反芻する。それほどすぐには信じられなかった。


 (昨日オレと勉強してただろ。帰る時お前はまた明日、って……)


 ぐるぐる、ぐるぐる。

 大和は自責の念に駆られ、テレビの音も母が肩を揺さぶる振動も、遠くで起きている出来事のように思えた。

 その間もアナウンサーは、原稿をサラサラと読み上げる。


 「……を受け、輸送先の病院で死亡が確認されました。犯人は現在逃走中です。近隣住民の方はくれぐれもご注意ください」


 アナウンサーがそう締め括ると、CMが流れる。

 そうして速報が終わってからも大和は未だに信じられず、悪い夢を見ているのかと空目さえした。


 「昨日、無理にでも泊まっていけって言えば良かった」

 「大和……」


 つっかえつっかえながらも、なんとか言葉を絞り出す。

 母は大和の震える肩を抱き、安心させるように何度も撫でさすった。


 ──あの時の笑顔が、あの時の会話が、和音と話す最後になるなんて。昨日の自分はなんて馬鹿なんだろう。


 あの時もっと強く言っていれば、大和の提案に頷いてくれただろうか。

 あの時日が暮れていくことを言わなければ、和音は帰らずにいてくれただろうか。


 もう戻ってこない『あの時』が、和音の表情が、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。

 自分でも知らずのうちに涙が零れ、息が上手く吸えなくなった。


 「っ……ふっ、和音……」


 ボロボロと温かい涙が頬を伝う。

 そうして大和は今までの自分の行動を、自分が抱いていた想いを自覚した。

 

 それから以後、大和が恋する事は無くなった。

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