第33話 壮年男の葛藤



「旦那様、最近は随分とご機嫌ですな」


 家令がコーヒーを注ぎながら私の機微を察する。


「そう見えるかね?」

「良い人でも見つかりましたか?」

「その様な人物はいない。ただ……共通の趣味を持つ友が出来たくらいだ」

「それはようございました」


 家令がサイフォンを片付け、執務室を出ていく。

私は自分の顔を鏡で見た。


「そんなに嬉しそうな顔をしていただろうか?」


 妻を早くに亡くして20年。

 仕事人間だった私は妻に支えられて出世街道を歩んできた。

 なのにそれに気が付かず家庭を顧みず、子供も作らず。

 彼女は子供を欲していたというのに。


「アリシア……君にそっくりな子が居てね。私はその子が気になっているんだ。浮気ではないよ、ただ……一緒にいると落ち着くんだ。若い時の君の様にね、不思議と自分がすごい人間の様に思えてくるんだ。君を失ったその日に、君の欠けてくれた魔法が解けてしまったと痛感しながらも……また。本当に私はダメな男だよ」


 気がつけば、妻の遺影に向かって感情を吐露していた。

 弱くなったものだ。

 鋼の男なんて、世間んでは言われてるのに、本性はこんなにも弱い。

 妻が私の無敵状態を作り上げてくれていたと気がついたのは彼女を失ってからだった。


「旦那様、夜食の準備ができました。旦那様?」

「ああ、すぐ向かう」


 いつのまにか頬を伝う感触があった。

 開けていた窓から夜風が肌を触り、濡らした場所を冷やした。

 その場所をハンカチで拭い、そして家令へと向き直る。


「さて、今晩は何が出る?」

「旦那様の健康を考えて野菜中心でございます」


 この男は、最近私の気を使うフリをしながら追い詰める様な真似を。これが妻の口から出たものだったらうまく騙されていたというのに。


「そうか。今日は肉の気分だったが、健康のためなら仕方がない」

「はい。それでもシェフが腕によりをかけて最高の仕上がりにしています」

「当然だ。私の口に入るのだからな」


 家では常に鋼の男を演じている。

 私はきっとこの生活に疲れているのだな。

 だからあの場所の、あのひと時に並々ならぬ思いを寄せる。


 そして彼女に、恋慕にも似た思いを描いてしまうのだろう。

 歳だって親と子ほど離れているというのに。

 何を自分勝手な夢を見ているのか。


「ハロルド様、本日の担当を務めましたシェフにございます。お口に合わない食事はありましたでしょうか?」


 食後、料理長がご機嫌伺いにくる。

 聞き慣れた定例分に一字一句違わぬ気遣い。

 そうしろと私が言ったものだから頑なにそれを崩さない。


 私には彼の人生を左右する権力がある。

 だからと言ってどうこうするつもりはないのに、怯えられたものだな。



「ああ、問題ない。次もあの味付けで頼む」


「恐悦至極にございます」



 家の中でさえこの仮面をつけて生活を送っている。

 家令の注ぐコーヒーもまた良いものだが、あの喫茶のかまし出す独特の世界まではまだ再現できていなかった。



「旦那様、そろそろお休みになった方が」


「ああ、すぐ休む」



 この様に分刻みのスケジュールで私は動いている。

 全く気の休まる日がない。

 だからこそあの時間をこれ以上なく大切にしているのだ。



 ◇



 数日、忙しい日々が続く。

 コーヒーは毎日飲んでいるのに、全く癒やされないのはどうしてだ?


 いいや。答えはもう自分の中で出ている。

 私はきっとコーヒーだけでは満足できないほどの憩いをあの場所に見出してしまったのだ。



「オリバー」


「はい、旦那様」


「私が今更再婚をすると言ったら笑うか?」


「いいえ、嬉しく思います。頑なに奥方様を神聖視していらした旦那様がどの様な女性を見つけたのかと思うと。自分のことの様に嬉しく思いますよ」


「そうか。親と子ほど歳が離れて居てもか?」


「恋愛に年齢は関係ありません。そして旦那様の相手を笑うものもこの屋敷には存在しておりません」


「そうか。例の日、彼女にプロポーズする。準備せよ」


「はい、奥方様以上に旦那様を飾り立てる事はできませんが」


「そこまでしなくていい。彼女は私を社会で成功することを祈ってスーパーマンに仕立て上げてくれた。だがその場所に出向かうのにスーパーマンである必要はあるか?」


「いいえ。旦那様のお望みのままに」



 結局私はいつもの服装で彼女を迎えに行くことにした。

 彼女の親友のおじさまに扮して。

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