第32話 幸せの定義(レイシャ/マナリィ)

 

 あたしは帰る場所を失った。


 タイミング悪く男との密会をパパに見つかってお仕置きされた。

 それだけならまだよかったのに、目が覚めたら裸のままで外に出されていた。


 着る服もなく、家に入る手段もない。

 ドアには鍵がかかっていて、手元には鍵がなかった。


 せめて服さえあれば男を振り向かせて貢がせることもできたのに。

 いや、行為の直後の汚れた姿じゃどのみち同情すら誘えず食い物にされるだけだ。


 一転して惨めな気分が湧き上がる。

 こんな気持ち、忘れて久しい。

 娼婦として生きてきた過去の自分。


 パパに引き取ってもらってからは空腹から解放されて、でも欲望は尽きなくて。なんでも欲しがる様になった。


 歳の近い姉が羨ましくてなんでもねだった。


 生まれながらに裕福だから、だから奪っても良いってどこかで思って実行した。

 姉の立場を奪った時はやり過ぎたって思ったけど、パパは認めてくれたのに。


 どうして?

 なんであたしがこんな目にあうの?


 ただパパと同じ様に遊んでいただけじゃない。


 それともなに?

 パパは遊んで良くて、あたしはダメだったの?


 なにそれ。

 ふざけないでよ、あたしだって年頃の女よ?

 それを生かしただけで避難される謂れなんてない!


 結局あたしは寄る辺を失い、他者を羨む生活に逆戻りした。



 何もかもが憎い。

 迷い込んだどこかの喫茶店で、幸せそうな女の顔が写った。


 自分よりブスな癖に、幸せそうな顔をしてるのが許せなくて懲らしめてやろうと鉄パイプを持って店に乱入した。



「お客様、招待状はお持ちですか?」


「は? ある様に見える?」


「お帰りはあちらです」


「ちょ、離しなさいよ! あたしが貧乏人を代表して天誅をくれてやるのよ!」



 結局店の裏口から追い出され、あたしは誰からも嫌われる生活を余儀なくされた。

 憎い、憎い、憎い。


 貧乏な生活が、幸せそうな面した奴らが!


 幸せを自ら手放し他あの時の自分が、どうしようもなく恨めしくて、その日はずっと泣いていた。




 ◇




 今日は週に一度のコーヒーブレイクデイ。

 私はあの日からおばさま達の協力の元、自分の店を持ち、生計を立てることに成功していた。


 ハルクと分かれてからお金は溜まる一方で。

 いつの間にか贅沢なはずのブレイクタイムを毎週遅れる様になっていた。



「おや、待たせてしまったかな?」


「いえ。ここで待つ時間が好きで早くきてしまいました」


「私も待ちきれずに仕事を早めに片付けて来たんだが、お嬢さんには負けてしまったか」



 特に待ち合わせ時間は決めてない。

 ただ、お互いの都合の良い時間を照らし合わせれば昼の一時が程よい時間帯だった。


 いつしか毎週土曜日の午後一時はこの店でコーヒーブレイクをすると決まり、どちらともなく時間を合わせる様になっていた。



「それより聞きました? 新豆が入った様ですよ?」


「耳が早いね。その情報はいったいどこで掴んでくるんだろうか?」


「それは内緒です。お互い秘密がたくさんある。それで良いじゃないですか」


「これは一本取られたな。さて、まず一杯目は」


「ええ、新豆をいただきたいですね」


「マスター、ではその様に」


「畏まりました」



 焙煎された豆が手摺りのミルでゴリゴリと削られていく。

 こういうのは焦ったらダメだ。

 勢いをつければ早く終わるけど、熱がこもりすぎて風味が褪せてしまう。

 豆を挽くだけではない。


 コーヒーはその一挙手一つとっても繊細で、とても奥深い物だ。


 そして待つ時間に香る、ミルからこぼれ落ちた薫香。


 これがたまらなく飲む前のコーヒーの情報を教えてくれる。

 どの様な豆であるか?

 浅煎りか中煎りか深煎りか。


 過程一つとっても選択肢はさまざまで。


 私達はその時間すら楽しんだ。


 この時間はいろんな風に想いを馳せる。

 ただ席に座ってるだけなのに、気持ちは原産国まで旅立ってしまうくらいにふわふわして、とても心地いい時間を味わえるのだ。



 そんな時、入り口に来客を知らせるベルが鳴った。

 おじさまは訝しむ。

 ここは会員制で、来店には招待状が必要だ。


 まさに貴族御用達のお店で、一般人には敷居が高い。

 というのに来客があったことに気分が一瞬そちらに引き寄せられた。



「誰でしょう?」


「今日は貸し切りだったと思ったけど」



 なにやら押し問答をしているようだが、細かな情報はこちらへは入ってこない。

 窓に面した個室になっており、ホールとはまた隔絶されている空間だからだ。

 外の喧騒も聞こえて来ず、ただ外の景色ははっきりと情景を映し出していて。


 少ししてマスターが事情を説明しにきてくれた。

 要は物乞いの類であったこと。

 気分を害したかもしれないとお茶請けをサービスしてくれた。



「なんだか得した気分ですね。物乞いの人に感謝、というのもおかしな話ではありますが」


「これはドライマンゴーかな? ほんのりと甘くてコーヒーにも合うんだ」


「さすがおじさま。博識ですね」


「お嬢さんだって言わなくても理解していただろう?」


「さて、私は見たこと食べたことのあるものしか知りませんので」


「では、そういうことにしておこうか」


「はい、そういうことにしておいてください」



 その後いただいた「ブルーマウンテン」は目が覚めるようなキレに複雑な風味が絡まって、モカとは別の余韻に浸れた。

 付け合わせのドライマンゴーが非常によく合い。

 コーヒーのキレや酸味を殺すことなく味わうことができた。



「これは、お気に入りが増えてしまったかな?」


「世の中はまだまだ私の知らない世界が広がっているのだと再確認してしまいました」


「私もだよ。新たな出会いに乾杯と行こうか?」


「はい」



 カップをカチリと合わせながら、それぞれの世界へと没入した。

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