第28話


 ──さ──


 ──じょ──ん。



 誰かから呼ばれている気がする。

 誰?


 放っておいて。私はもう何をやる気力もないの。



 ──おじょ──ん!



 強く、呼びかけられて。私の意識は気持ちとは裏腹に浮上する。



「お嬢さん!」



 肩を揺さぶられて、すぐに目に入ったのは壮年の男性で。

 父親程の歳の離れた人だった。



「良かった目を覚ましてくれた。こんな場所で行き倒れていたから心配したんだよ。何があったかまでは無理に話さなくて大丈夫。こんな雨の日に、こんな姿でいる時点で良くない事が起こったんだろう? 失礼ながらあのままでは風邪をひいてしまいそうだったのですぐ近くの喫茶店に避難させて貰ったよ」


「え、と……」



 なぜ、この人はこんなに私の心配をしてくれるの?

 一番最初に思い浮かんだのはそんな些細なこと。


 擦り切れた感情は痛いほどに敏感で、少し触れただけで激昂してしまうほどに情緒が安定しない。


 だと言うのに暖かく包み込まれた大きめなコートが私にかけられていて、これはつい先ほどまでこの人が着込んでいたものだとすぐにわかった。

 だってその人はこんな雨空の中外出するにも関わらずコートを着込んでいなかったから。



「無理をしなくていい。今コーヒーを淹れて貰ってる。あ、飲める?」


「えと、飲んだことはありませんが。知識としては知ってます」


「そう、苦い様だったら無理しなくていいから。でももし、飲める様だったら付き合ってくれたら嬉しいな」



 まるで自分の娘を宥めるかの様な口調で、その方は私なんかに気遣ってくれる。

 こんな人も居るんだ。

 左手にリングが光る。


 ああ、やっぱりと思った。


 こう言う素敵な人はすでに誰かにとられている。

 私にチャンスが舞い込んだとかそう言うのではない。


 だから警戒心はすぐに霧散した。

 なにせ親子ほどの歳の差があるのだ。


 先方は本気でこちらの身を心配してくれている。

 それに付け込むのはマナー違反だろう。


 室内は暖房が行き届いていて、体に熱が戻ってくる。

 それよりも気になるのは、室内を覆う様に匂う香ばしい香り。


 思わず鼻を鳴らし、その姿を微笑ましそうに見届けられてしまった。


 赤面する。こんな風に誰かに無防備な姿を見せることはなかったのに、今の自分はどれほど警戒心を抱いていないのだろうかと、少し自分を戒める。



「良い香りだよね。私もこの香りが好きでね、私の憩いの場所なんだ、ここは」


「そう、ですね。ささくれたった心が落ち着いていくのがわかります」


「そうか、お嬢さんとは話が合いそうでよかった」



 そこまで聞いて、自己紹介していないことに気がつく。

 そもそも成り行きでここまでして貰ったのに、何もお礼を言えてない。

 改めて私は感謝を示し、頭を下げた。



「あの、私は……」



 そこまで言いかけた時、男性の方から話を遮られる。

 自己紹介は不要。そう言われてる気がした。


 少しだけ悲しくもあり、逆に言えばそれが彼なりの優しさなのかもしれないと受け入れる。


 もし私に父親が居たら、こんな人だったらいいな。

 そう思ってしまう程に不思議と視線を惹きつけられた。

 

 そして不思議な時間はあっという間に流れて、香ばしい香りの正体が私たちの座るテーブルへと届けられた。



「モカでございます」


「産地は?」


「エチオピアのイルガチェフェにございます」


「うん、分かってるね」


「お褒めいただきありがとうございます」



 言ってることの半分以上もわからない。

 産地なのだから取り入れた場所のことだろうと漠然と思い浮かべ、先方が口をつけたのを確認してから私もカップを手に取って口につけ──



「!!」



 世界が一変した。



 なに、これ。

 知らない、こんな飲み物知らない。

 たった一口で私の今までの雑多な感情を一瞬で掻き消し、そしてそれを上書きする様に湧き上がる興味に対して感情を抑えきれないでいる。


 一体この飲み物はなんなのか?

 今まで蓄積させた知識を総動員しても答えは一切明かされない。

 お茶でも飲む様にごくごくと不用心に飲むものではない。

 それだけは分かった。


 対面で男性の口角が上がる。

 それは共通の趣味を見つけた同志の様に、歓迎する形で送られたサインで。



「気に入って頂けたかな?」


「はい。正直コーヒーがここまで凄いものだとは思っていませんでした」


「そうか。なら薦めた甲斐があったよ」


「ん、ふふ。なんて言いますか、私の知らない世界がまだまだあるんだなぁと知識欲が刺激された気分です」


「そう思ってくれたなら良かった。先ほどまでのお嬢さんはどこか生きることを諦めた様な瞳をしていたからね」


「あ……」


「別に責めているわけではないよ。誰にだって言いたくのない悩みはあるさ。人は抱えた悩みの多さで大人になっていくものだと私は思っている。お嬢さんにとっての悩みがどれほどのものかは想像もできない」



 私は不思議とその言葉から耳を離せないでいた。


 優しく語りかけているようで、自分の内に募る懺悔をする様な口調のそれを聞いて目の前の男性も自分以上に多くの悩みを抱いているのだと感じたからだ。



「でもね、一時的にそれを忘れることでリフレッシュすることもできるんだ」


「それがコーヒーなのですね」


「うん。庶民が飲むには少しお高いが、期間を決めて息抜きとして飲むのならこれほど優れた飲料を私は知らない」


「おじさま程の方がそう仰るのなら、きっと凄いことなのでしょうね」


「よかったら、お嬢さんもそれにお付き合いしてくれたら嬉しいなと思っているのだけど?」


「えと……すいません。実は……」



 ずっと言えずに居た事情をこの場で話してしまおうか?


 けど話してしまったらせっかく良くしてくれた人に恩を仇で返してしまうのではないか?


 流れでそうな感情をどうにか水際で食い止めることに成功させた。



「うん?」


「いえ、なんでもありません。では御相伴に預からせていただいてよろしいでしょうか?」


「勿論。むしろ私の方がお誘いしているのだからね」



 コーヒーを飲み終わったら随分と気持ちが軽くなった。

 衣服は乾き、靴はまだ濡れていたが前を歩く気分の前では細末な事だった。


 確かに私は夫に捨てられた。

 でも、それがなんだ。


 世界には掃いて捨てるほど男がいるのだ。

 あんな小さな男、こちらから捨ててやったと思えば良い。


 不思議と気持ちが大きくなっていく。



「さて、私はそろそろお暇しよう」


「あ、私も。そうだ、これ!」



 思わず借りていたコートの存在に気が付き、しかしおじさまは首を横に振って否定した。



「それは次に来た時のサインとして持たせておくよ。マスター、お嬢さんが次に来た時受け取っておいてくれ」


「畏まりました」



 外はすっかり快晴模様。

 蒸し暑いくらいの気候がコートを必要としないくらいにシャツを照りつける。


 あんなにも打ち付けていた雨はいつの間にやら消えていて。

 まるで私の心を照らす様に晴れやかだった。



 夫と親友には裏切られたけど、頼る先はまだあった。

 裁縫を通じて出会った奥方様。


 その方達に連絡を入れて、それから……


 後のことはそれから考えれば良いか。

 今はただ、コーヒーの余韻を味わっていたかった。

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