第26話


 私達夫婦は目に見えない爆弾を抱えていた。

 

 一見して幸せそうに見えるが、常に見えないところで不満を募らせ続けている。


 それが爆破する気配を見せたのは、泥酔して帰ってきたあの夜から二週間もせぬうちだった。




 ◇




 それは晴れ渡る青空の日。

 お洗濯物がよく乾きそうだと朝から洗濯板を使ってゴシゴシと泡立てた洗濯石鹸で汚れを落としつつ水洗い。そして庭に洗濯物を干した頃合いだった。


 時刻はお昼前。

 前日に泥酔して帰ってきた夫は寝ぼけ眼に私の顔を見てこう呟く。



「マナリィはもうちょっとがんばったほうがいいよ?」



 一瞬何を言われたのかもわからず、硬直した。

 自分で話を振っておいて、すぐに話を切り替える。夫。



「それよりご飯、ある?」


「今ご用意しますね」


「早くして。おなかぺこぺこなんだ」


「ええ」



 突然浴びせかけられた冷水に対して謝るでもなく、まるで家政婦に対する物言いに腹が立たない訳でもない。

 

 遅い時間の朝食を取り、もう出社には間に合わない時間にも関わらず、夫のハルクは悠長に室内を眺めていた。

 そんな彼に対して急かす様に準備を整えるのは癖の様な物だ。



「ほら、早く着替えないと会社に遅れちゃうわ」


「大丈夫。会社は辞めたんだ」


「はい?」



 聞いてない。そんな大事な話は勝手に決めないでほしい。

 今月もお給料が入ると思ってアテにしていた部分もあるが、それ以上にそのお金無くしてどうやって生活していくつもりだろうか?


 結婚して5年。

 勤続時代に溜め込んだお金は底をつき、あの日レーシャに漏らした「大丈夫」はただの虚勢だった。

 保てている日常は、私が食い詰める事で浮き出た僅かなお金を貯めて捻出した物だ。

 余裕なんて当然ない。



「そんな大事な事、どうして話してくれないの?」


「もう決めた事だから。それで、この家も売り払おうと思う」



 決めた事だから従ってほしいという夫の瞳には、私が今後どの様に生活するかがすっぽりと抜け落ちている。

 思わず大きな声が出た。



「待って! 聞いてないわ」


「今言ったじゃないか」



 私の声量に驚きつつも、何をそんなに怒っているんだと呆れた様に肩を竦める。



「もう決定事項だから。それと君とも別れようと思う」


「なんで?」



 なんでそんななんでもない風に私を切り離せるの?

 私がそんなに気に食わなかった?

 ダメなところがあれば直すから。

 だから見捨てないで!


 私は自分で築いた幸せが音を立てて崩れ落ちていくのを恐れた。ツギハギだらけの幸せに、それでも取り繕うと抗った。


 そんな風に縋りつこうとも、夫ハルクは耳を貸してくれそうもなかった。

 もう私になんて毛ほども興味がない様に、他人を見るような瞳で見下ろしていた。



「それとマナリィ、貯金はいくらある?」


「なぜそんなことを聞くの?」


「夫婦の今後のためにと貯めていたお金だよ。あれが必要になったんだ。いくらある?」


「なぜ今になって聞くのよ!」



 そんなお金、とっくに使い果たしてる。

 むしろ率先的に自分で使っておいて何を言っているのやら。

 当然使ったお金は戻っておらず、そのままだ。



「ないわ」


「1ゴールドもか?」


「あなたが率先的に使っておいて、誰かが補充してくれるの!? 毎月おかづかいを貰っておいて! その上でどこから出てくるの!?」



 私の慟哭に少し後退りつつ、それでも己の主張を取り下げずにハルクは室内を値踏みして私の私物を取り上げた。



「何もないとか言っておいてあるじゃないか。これを売ろう」


「待って、それは私物よ。いくら夫婦でも妻の私物を勝手に売る権利は夫にはないわ!」


「そんなこと言ってる余裕ないだろ? 会社は辞めちゃったんだ。貯金をあてにしてたんだぞ? 私物でもなんでも売って賢く生きろよ。ほんと、マナリィはそういうところダメだよな」



 なんの相談もせずに勝手に仕事を辞めておいて妻の私物を売る?

 なんの正当性もない暴論に空いた口が塞がらない。



「とにかく! 今日限りでこの家は売るから。マナリィも出てってもらうぞ」


「離婚するのだって手続きが必要だわ。あなたの気持ち一つでどうにかなる物でもないのよ?」


「君のサインならもう書いて提出したよ。今の僕たちは事実上の他人だ」


「どうして? どうしてそこまでして私を切り捨てられるの? 変われたんじゃなかったの? あの日の約束は結局嘘だったの!?」



 捲し立てる様にドロドロした感情が胸中から漏れ出る。

 私達夫婦は一度破局した。

 夫の浮気に対して私がプチ家出をする形で、決を取った。


 でも家出中に親友を通じていろんな横のつながりを持てて今がある。

 当時の私はまだお子様だったのだ。

 大人の女性と出会えて、そして夫の不甲斐なさを笑い飛ばすほどの体験談を聞いて、私の心に落とし所ができた。


 実家を持たない私の拠り所になってくれた人たち。

 そんな人に出会えて私は変われた。

 そして夫も自分一人では何もできないと私の存在を再確認してまた一から夫婦をやり直そうと、そう誓いあったのに。


 結局その言葉もそんな簡単に撤回してしまえるんだ。


 こんな人の為に私は頑張って来たのか。

 自分の不甲斐なさに涙が溢れて出てくる。

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