第17話

 その瞬間、ぐいっと腰を後ろに引かれ、私は悲鳴ではなく吸い込んだ息をそのまま吐き出しました。


「ごふ」、とも「ぐえ」、ともいえない、変な声が漏れました。


 眼前に迫ってきていた黒い服の人が、弾かれるように飛び退きます。


 背後からいきなり引っ張ってきたのは、フィルでした。

 彼は侵入者の姿を追って、物凄い勢いで部屋の中へ飛び込んでいきます。

 銀色の何かが煌めいて、ガチンガチンと、金属のぶつかり合う硬質な音が響きます。


 暗いうえに速くてよく見えないのですが、あれは多分、短めの剣なのでしょうか。

 侵入者とフィルは真っ暗な部屋の中を目にも止まらぬ速度で跳ねまわり、やがてパリンと、窓の割れる音が響き渡りました。


「逃がした……、おい、大丈夫か?」


 立ち尽くす私に近寄ってきたフィルがそう言った途端、私はへたりと床に座り込んでしまいました。

 人が戦う姿というのを、映画の中でくらいしか見た経験のない私ですが、獣人たちのそれは、映画とは全然違うように見えました。いえ、速すぎて見えませんでした。まるで、部屋の中で台風が起こったようでした。


 ……そして、映画といちばん違うのは、それが目の前で実際に行われていたという事です。


「フィル、ち、血が……」


「ああ、かすり傷だ。治療ジェムで治る。それよりお前だ。怪我はないか?」


「そ、それよりって……」


 怪我をしているのは、フィルのほうです。

 彼の腕からは、ぼたぼたと血が滴っておりました。


「ち、血を止めないと、痛いですよ」


「さほど深くはない。怪我はないな? 奴の顔は見たか?」


 フィルはなんでもない事のように血を流し続けながら、しゃがみ込んで、私の顔を覗き込みました。


 私は少しむっとしました。

 ミーシャ・フェリーネに大怪我をさせられた影響でしょうか? 以前は多少の血で取り乱すような事はなかったのですが、目の前に怪我があるという事自体が、今はたまらなく嫌で怖かったのです。


 あるいは、自分ではなく、フィルが怪我をしているからかもしれません。……いえ、決して深い意味ではなく。

 目の前で腕から血をどばどば流しながら、『怪我はないか?』と尋ねてくる人がいたら、普通はこう言います。


「先にご自分の怪我を治療してください!」


「む? だが、」


「だが、も何もありません! 痛そうです! その治療ジェムっていうのはどこにあるのですか!?」


「……俺の自室だ。なあ、ユイ、さっきの男、顔と尻尾を隠していたが、お前は見たか?」


「見てません! フィルの部屋ですね! すぐに行きましょうっ!」


「……ああ」


 私は、嘘はついておりません。

 先ほどの……おそらくはリカルド様である方の顔は、隠れていたし、暗くて見えませんでした。

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