11.楽しく生きる方法論。

「汚された…………」


 数十分後。漸くあざみから解放されて、浴槽に浸かった私は両手で顔を覆ってよよよと泣く仕草をした。横からメイドさんがぽんと肩を叩いて、


「強く生きてください」


 と慰めてくれる。ありがとね。でも君のご主人様がした粗相なんだから、諫めて欲しかったな。


 私の向かい側にいた風歌ふうかさんはおっとりと、


「大丈夫。あーちゃんが貰ってくれるよ~」


 その隣にいた薊が、


「ああ、幸せにすると約束しよう」


「だって、良かったね?」


「良くないです…………」


 いや、客観的に考えれば非常に魅力的な話なんだ。観音寺かんのんじ家は超の付く名家だし、そこの娘に見初められたとなれば、生涯は安泰と言っていい。私の人生はいきなり勝ち組のイージーモードに突入だ。そう。客観的に見れば。


 だけど、


「私、言ったよね。友達からって。だからまだ付き合う気はないんだよ」


 それを聞いた薊が「はっはっはっはっ」と笑い飛ばし、


「つまり将来的には付き合うってことじゃないか。結婚しよう!」


「ポジティブシンキングが過ぎる!」


 はあ。


 そりゃ、薊自体は嫌いじゃない。嫌いじゃないよ。だけど、それと付き合うとか、け、結婚とかなってくるとまた話は別。そもそも私はもっと平凡な人生が良いんだよ。そんな、波乱万丈大歓迎!みたいな人生は送りたくない。


「私はもっと普通に生きてたいんだって……」


 そう言いながら浴槽に沈んでいく。水面より上に出ているのは目と鼻だけになる。髪が浴槽についちゃうけど、気にしない。


 そんな私にメイドさんが、


「普通……」


「ん?」


「あ、すみません。独り言です」


「いいよ、別に。話してよ」


 そんな私を見た薊が「私よりも心を開いている気がする……」と文句を垂れたが右から左に聞き流した。


 メイドさんはぽつぽつと、


烏丸からすま様は、普通に生きていたい、ということですか?」


「ん?うん。そうだねー……」


 私はなんとなしに上を見上げる。当然だけど、そこに夜空が広がってることは無かった。あるのはただただ無機質なタイル張りの天井だ。


「そりゃ、楽しいこととか、凄い体験とか、そういうのに憧れることもあるよ?だけど、結局は普通が一番だなーって思っちゃうんだよね。身の丈に合わないって言うか」


 そう。


 身の丈に合わないんだ。


 ハイパーなお嬢様も、豪華な一軒家も、世界各国の料理を取りそろえた晩餐も、銭湯顔負けの大浴場も、全て私の身の丈にはあってないものだ。


 それらはどれも素晴らしいものだ。だけど、身の丈に合っていない以上、どこかで帳尻があう。人生って言うのはそうやって出来ているもんだと私は思ってる。激しい喜びの裏には必ず深い絶望があるんだ。


 それを聞いていた風歌さんが、


「楽しいことは楽しいよ?それじゃ、駄目?」


 と、聞いてくる。


 思う。


 きっと彼女は今まで「楽しいこと」だけを見て暮らしてきたのだろう。度を越えた箱入り娘ということから見るに相当過保護な環境で育ったことが分かる。だから、私の言うような「深い絶望」を味わってきていないのかもしれない。


 けれど、それを実現するにはとてつもない労力が必要だ。これから先、風歌さんが大人になっていく過程で、経験しなければならないことなんていくらでもある。


 女性が家事、という考え方はもう古いとしても、結婚するならば家事育児や仕事をしないという選択肢は恐らくないんじゃないだろうか。もしそれが実現するのならば、それは両親の、家族の恩恵があればこそだ。少なくとも私では実現不可能だ。


 私が返答に迷っていると薊が、


「そうだな。風歌の言うとおりだ」


「あーちゃん?」


「楽しいことになにも悪いことなんてない。だから、五月さつきは私と結婚してくれればいいんだ。そうすればきっと楽しいことだらけだ。な?」


 そう聞いてくる。


 私は条件反射で「いや、ないから」と返事しようと思った。


 思って、顔を上げた。


 顔を上げたら薊の表情が、その瞳が視界に入った。


 その瞳は、自信満々なその言葉とは裏腹に、弱く、揺れていた。


「薊──」


 その瞳に、私はどんな言葉をぶつければいいのかが分からなくなった。


 やがて、揺れは収まり、いつも通りの力強さで、


「しかし五月もなかなかに欲しがりだな。あれだけ気持ちよくしてあげたというのに、まだ足りないなんて。もしかして、ムッツリか?」


「違うわ」


 うん、やっぱり観音寺薊は、観音寺薊だった。


 っていうか気持ちよくって言ったな、今。やっぱり身体を洗う気なんて端からなかったんじゃないか。

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