10



 見えているようで、朋香は何も見ないで歩いていた。考えているようで何も考えていなかった。


 内田さんの家の生垣を曲がると同時に、朋香は、銀縁眼鏡をかけた男の人とぶつかってしまった。


「あぶないじゃないか」

 大学生ぐらいのその人は、手に持った風呂敷で包んだ荷物を落とした。落とした物を拾いながら、黙って立っている朋香に「どうかしたの?」と聞いた。


 朋香は、なんていえばいいかわからず、口をパクパクさせた。いいたいことはいっぱいあるのにどういえばいいのかわからない。この人に今思っていることを全部いっていいものかどうかもわからない。


「この辺に野々村さんっていう家があるはずなんだけど、君、知らないかな?」

 朋香が、何もいわないので、その人の方から朋香に聞いてきた。

「え? 野々村は、おばああちゃんの家だけど……」

 朋香の口からやっと言葉が出た。


「あ、君が野々村先生の姪子さんか?」

「……」

 友香は、なぜこの人が有ちゃんを知っているのか不思議だった。その上、有ちゃんが友香のおじさんだということも知っている。


「野々村先生の家を教えてくれないかな、確かこの辺だといっていたんだけどなぁ」

 大学生は銀縁眼鏡を指で押し上げながら、辺りを見回した。

「あの家だけど……」

 朋香は腕を上げ、指さした。

「え、あそこ?」

 その人は、家を見上げた。

 朋香はうなずいた。


「あなた、誰?」

 朋香が聞いた。

「あ、ぼくは、野々村先生の教え子なんだ。先生に、もしもぼくが講座を休むようなことがあったら、実家をたずねて欲しいといわれたものだから……」

「有ちゃんは、大学にいってないんですか?」

「有ちゃんって、野々村先生のこと?」

 朋香は早く話を進めたくて、ぶんぶん頭を振った。

「ああ、休んで、もう一週間にもなるよ」

「そんなぁ……」

 朋香は体からすべての力抜けるぐらい後悔した。やっぱりもっと早くここに来るべきだったと思った。


「有ちゃんが、この家に来てっていったの?」

「ああ、そうだよ」

 朋香は、有ちゃんがこの人に相談しろといってるように感じた。

「有ちゃんが、大変なの!」

 朋香は叫んだ。

「え?」

「こっちに来て」

 不思議そうな顔をしている大学生の手をつかんで歩き出した。

「どこへいくの?」

「しっ、だまってついてきて」

 おばあちゃんの家が見えないところまで来て朋香が話し出した。


「有ちゃんが、大学を休むようだったら、ここへ来てくれってたのんだのね?」

「そう、そう。何かあったの?」

「えっと、えっと」

 朋香はまた口ごもった。


「この謡本を持ってくるようにということだったんだ。これと何か関係があるのかな?」

 大学生は、持っていた風呂敷の中から黒っぽい和綴じの本を見せた。その本の表紙には細長い短冊に『黒塚』と書いてあった。

 朋香はその本を見て、やっと一つクイズのヒントをもらった気がした。


「あなたは、何者?」

「何者といわれても……。ぼくは、立花佑慶だけど」

「タチバナ……。あの、能楽師の?」

「ああ、そう。父が能楽師だけど。君、知ってるの?」

「有ちゃんから聞いていたから、知ってる。ね、聞いて、聞いて」

 朋香は佑慶の着ているポロシャツのはしをつかんで引っ張った。


「そんなに、引っ張らなくっても、聞いてるよ」

 佑慶は朋香の肩に手を置いて朋香を落ち着かせた。

「『白本』なんかないのよ!」

 朋香は叫んだ。

「ええ? いきなりだね。野々村先生も、そんなことをいっていたけど……」

 佑慶は眉にしわを寄せ、首をひねった。

「私のいうことを信じてくれる?」

 朋香は、大きくいを吸ってゆっくりいった。


「もちろん、信じるよ」

 佑慶の目はやさしかった。

 朋香は、信じてもらえると思っただけでうれしかった。

 朋香は、おばあちゃんの家であったことを初めから話した。突然おばあちゃんが変わってしまったこと。そこには、何も書いてない白い謡本があったこと。有ちゃんが白い謡本を調べていたこと。そして、白い謡本が安達ヶ原の鬼女の演目らしいこと。

「今、おばあちゃんのところにいる有ちゃんは、有ちゃんじゃない」

 黙って聞いていた佑慶は、朋香の話が終わると「でも、『白本』というのは、ぼく達の世界では、有名な話しなんだよ」といった。

「ないの。そんな本は、ないの」

 朋香は信じてほしいと、両手を胸の前で組んだ。

「と、いわれてもね……。君が生きてきた時間より、もちろんぼくが生きてきた時間よりもずっと長い時間、謎とされてきた話しなんだよ。しかし……」

 佑慶は難しい顔をして黙りこんだ。


 朋香は、昔からの言い伝えが間違っていることを証明することはできないと思った。朋香は有ちゃんだったらどうしただろうと考えた。有ちゃんは佑慶にここに来るようにいっていた。本を持って……。


 佑慶が持っている本に何かがあるに違いない。さっき、ちらっと思ったヒントがこの本にある。

「その本は何?」

「『黒塚』っていう本だよ」

「黒塚?」

「そう、安達が原の鬼女……」

 そういって、佑慶は朋香の顔をじっと見つめた。朋香も見つめ返した。


「これは、ぼくの流派の本じゃないんだ。他流派の本を借りてきたんだ」

「どういうこと?」

「それが……、ぼくの流派の本がないんだ」

「やっぱり」

「やっぱりって、どういうこと?」

「だから、有ちゃんが白本なんておかしいって、いったの。白本は安達ヶ原の鬼女の話じゃないかって有ちゃんがいってた」

「どうして他の流派の『黒塚』は、ちゃんとこうしてあるのに、ぼくの流派の本は、無いんだろう」

 佑慶はあごに手を当てて考え込んだ。


「先生に会わなきゃ」

 佑慶がいった。

「うん。でも私、おばあちゃんには会いたくない」

「分かった。そっと、先生の様子を見ることができるところはないかな。庭から家の中が見えるところはないかな」

「庭には松の木や石灯籠などがあるから、庭に入りさえすれば家の中が見えると思うわ」

「そうか、じゃ、行ってみよう」

 朋香たちはおばあちゃんの家に急いだ。



 そっと門扉を開け、おばあちゃんの家の庭に入り込んだ。裕計が石灯籠の後ろに隠れ、朋香は茂みに身を隠した。

 網戸の中に有二が見えた。後ろを向いているおばあちゃんもいた。


「あれが、野々村先生? あんなに太ってしまって……」

「そう。だから、変だってことがわかるでしょう?」

「ああ、これは確かにただ事じゃない気がする……」

 朋香は、うんとうなずいた。


 その時、後ろを向いていたおばあちゃんが、ゆっくりと振り向いた。サングラスはしていなかった。目の色までは遠くてわからない。


「あっ!」


 佑慶が思わず声を上げた。口を手で押さえてその場にしゃがみ込んだ。


 おばあちゃんが何か感じたのか、網戸の方に歩いてきた。網戸を開ける。

 朋香はおばあちゃんから見えないようにと小さくなった。

 おばあちゃんは、庭をゆっくりながめまわしてからガラス戸を閉め、カーテンも閉めた。


 朋香は、佑慶のそばによって「どうしたのと?」ささやいた。

「これを見て」

 佑慶は、スマホの写真をを朋香に見せた。


「これは……、どうして……」

 そこには、おばあちゃんが写っていた。


「ここを出よう」

 佑慶が急いでいった。


「でも、有ちゃんを助けなきゃ」

「だめだ。助けるには、ぼくたちだけじゃ無理だ。もっと大きな力が必要な気がする。相談したい人がいる。きっと先生を助ける方法を知ってる。その人は、君のおばあちゃんもきっと助けてくれる。今この状態がどういうことかもわかってる。うん、ぼくたちは、相談しなきゃいけない」

 朋香もよくわからないまま、うんとうなずいた。



 朋香が、佑慶に連れられてきたのは、佑慶の家だった。長い塀が続く家が何軒も続いていた。その中でも、一番大きな門を持っているのが佑慶の家だった。

 朋香は「あっ」と思った。ここは確かにおばあちゃんがあの日忍び込んだ家だ。


「私、ここにきたことがある」

「いつ?」

「おばあちゃんが、変になった時」

「やっぱりね」

「どういうこと?」

 佑慶はなにもこたえず、門を入り、敷石を踏んで玄関に入った。


 玄関には「立花清一」という表札がかけてあった。玄関の戸を開け「ただいま」と佑慶が声をかけると、奥から、佑慶のおかあさんが出てきた。


「お帰りなさい、あら、可愛いお客さんね。どうぞ、お上がりになって」

 髪はショートカットにしていたが、きちっと着物を着たおかあさんが、にっこり笑ってくれた。


「こんばんは」

 朋香は、小さく頭を下げた。

「おとうさんは?」

 佑慶が聞いた。

「お稽古場にいらっしゃるわよ。お父様にご用事?」

「はい。じゃ、そちらに行きます」

「まあ、恐い顔ね。こちらのお嬢さんもお稽古場にお通しするの?」

「はい」

「じゃ、お話が終わったら、こちらにいらっしゃいね。お茶の用意をしておくわね」

「はい」

 おかあさんは、もう一度にっこり笑い「ごゆっくりね」といって奥の方に入ってしまった。


 長い廊下を通って稽古場の前まで来ると、佑慶は正座をして中に声をかけた。

「おとうさん、佑慶です。お話があります。入ってもよろしいですか?」

「ああ、佑慶かい。入りなさい」

 佑慶は、座ったまま戸を引き開けた。稽古場は、畳敷きでおばあちゃんの稽古場の三倍ほどの広さだった。一角には能舞台が作られていた。


「話しがあるとは、めずらしね」

 立花さんは、能舞台の前に黒っぽい着物と袴姿で座っていた。

 朋香達は、立花さんの前に座った。

「こちらのお嬢さんは?」

 立花さんがきいた。

「ぼくの大学の先生の姪子さんで、朋香さんというんだ」

「朋香です」

 朋香は、小さい声でいった。

「佑慶の父、立花です。よろしく。それで、話しというのは、このお嬢さんに関係することかね?」

 立花さんは、佑慶の方に顔を向けた。


「はい。この人のおばあさん、先生のおかあさんのことなんだけど、能のシテに取りつかれているかもしれないんだ」

「どういうこと?」

 立花さんは眉をひそめた。


「実はね……」

 佑慶は、おばあちゃんのことと有二のことを話し出した。

「おとうさん、ぼくの名前を付ける時の話しをしてくれたことがあったよね」

「ああ」

「その時は、不思議な話としか思わなかったけれど、今、先生のおかあさんのことを考えると、話しが符合するような気がするんだ。だから、もう一度その話しを聞きたいんだ」

「その取りついている能のシテというのは、安達ヶ原の鬼女だというのか?」

 立花さんが眉間にしわを寄せて聞いた。


 佑慶は立花さんをにらむようにして、うんと力強くうなずいた。

 朋香は、立花さんが、おばあちゃんの話をなにも疑うことなく信じてくれたこと、すぐに安達ヶ原の鬼女と結びつけたことに、もうひとつ大切なクイズのヒントが手に入ったと思った。


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