9

  


 土曜日、あの日から一週間が過ぎていた。その後、有二からもおばあちゃんからも連絡はなかった。有二には何度もスマホに連絡をしたが、忙しいのか、繋がることはなかった。


 朋香は、もう一度おばあちゃんの家に行ってみようと思った。あの夜、おばあちゃんはサングラスをしていなかった、というおとうさんの言葉がどうしても気になった。あれだけ、朋香の前や有二の前では、サングラスをはずさなかったおばあちゃんがはずしていたなんて、どう考えても何かおかしい。それに、有二のスマホが繋がらないのも気になった。


 自転車に乗って風をうけていると、朋香の思いがみんな思い過ごしのような気がしてくる。日の光がこんなに明るく、風がこんなにここちよいのに、物語と現実が交差して、妖怪がどうしたこうしたということがあるなんて、そんなばかげたことがあるわけないと思えてくる。


 朋香はペダルを踏んで、少し汗ばんだ髪を風にゆらせた。


 おばあちゃんの家の生垣を回って、朋香は自転車を止めた。玄関の引き戸を引くと、するすると開いた。足を一歩入れると、ぷんと食べ物の匂いがした。良い匂いというのではない。いろんな匂いが混ざっていて変な匂いだった。思わず朋香は鼻や口を押さえた。


 同時に、どうしてもっと早くここへ来なかったのかと後悔した。何か良くないことがおこっていると思わずにはいられなかった。


 足下を見ると、有二のくつがあった。ふと顔を上げると、目の前に有二が立っていた。その姿に、朋香は目を疑い、思わず後退ってしまった。


 有二の髪の毛は、もう何日も洗っていないことがわかった。ところどころ固まってあちこちにはねていた。白いTシャツやねずみ色のズボンには食べ物のシミがついていた。もっと変だと思ったのは、一週間でこんなに太ってしまうのか思うぐらい、顔が丸くなりお腹がせり出していたことだった。そんな有二が、チャーハンが山盛りになったお皿を持ったまま、そこに立っていた。


「ゆ、有ちゃん……」

「やあ、いらっしゃい……」

「どうしたの?」

「何が……?」

 朋香と話していても、有二の目はぼんやりしていて、何を見ているのかわからなかった。


 そして、切れ間なくスプーンでチャーハンを口に運んでいた。

 朋香が驚いて見ていると「お前も食べるかい?」と聞いた。

 朋香は、ぶるぶると頭を振った。


「有ちゃん、その恰好、どうしたの?」


 有二は、朋香が聞いているにもかかわらず返事もせずに、誰かに呼ばれたように台所に引っ返してしまった。


 朋香は、逃げなきゃいけないと思った。このままここにいてはいけないと思った。何かよくないことがおこっている。


 朋香が玄関の戸に手をかけたその時

「朋香ちゃん、いらっしゃい」

 おばあちゃんの声がした。


 朋香はゆっくり振り返った。


 サングラスをしたおばあちゃんが、そこに立っていた。


「有ちゃんに、何をしたの?」

 朋香は聞いた。


「何をって、ご飯を食べさせただけよ。あんなに痩せてたんじゃ、可哀そうでしょう。あなたも、痩せてるわね。さあ、上がってご飯を食べていきなさい」

 おばあちゃんは、朋香の腕をつかもうとして、手を伸ばしてきた。


「いやだ」

 朋香は手を振り払って、玄関を飛び出した。


 どうしよう、どうしよう。どうすればいいのかわからない。

 慌てていた朋香は、乗ってきた自転車も忘れて走り出していた。


 ドンッ!

「痛い」

 朋香は人とぶつかって、しりもちをついた。


「あら、朋香ちゃん、そんなに急いで、びっくりするじゃない。だいじょうぶ?」

 となりの内田さんのおばさんが、朋香に手を貸してくれた。


「おばあちゃんのところに遊びに来たの?」

 内田さんはいつものように、朋香に聞いた。


 お尻を払い、うん、うんと朋香は首だけを振った。

「もう、帰るの?」

 うん、うんともう一度首を振る。そして、「いないの」といった。

「おばあちゃんが?」

 今度は、うなずけなかった。でも、内田さんはおばあちゃんがいないと理解したようだった。

「あら、不思議ね。さっきスーパーであったわよ」

「有ちゃんもいっしょだった?」

 有二がいっしょだったら、内田さんも有二の変化に気づいてくれていると思った。しかし、

「うううん。一人よ。有ちゃんも来ているの?」


 朋香は、だめだと思った。この人は、何も知らない。説明しても分かってはもらえない。

「来ていると、思ったけど、家には誰もいなかった。ねぇ、スーパーにいたおばあちゃん、サングラスかけていた?」

 朋香は、やはりサングラスがとても気になった。


「ええ、かけていたわよ。白内障は、太陽がまぶしいのよね。もうすぐ、手術をするらしいわね」

「白内障?」

「そうよ。年を取るとよくなる目の病気なのよ。ああ、心配しなくてもいいわよ。手術も簡単らしいわ」


 朋香は、本当におばあちゃんが目の病気だと思いたかった。

「夜でも、サングラスをしなきゃいけないの?」

「まさか、いくらなんでも、夜までは必要ないわよ」

 朋香の胸の中で、また一つ不安の種が増えた。

「おばさん、一週間ぐらい前、おばあちゃんは旅行へ出かけていた?」

「一週間ぐらい前? えっと……、いいえ、毎日お顔を見たわよ」


 やはり、おばあちゃんは友だちと旅行なんかにいっていなかった。

「一週間前の夜に、私のおとうさんを見なかった?」

 どうしても、朋香はサングラスが気になる。あの日、おとうさんは、おばあちゃんがかけてなかったといった。なぜ?


「あ、あの夜ね」

「知ってるの?」

「ええ、いつものように行方不明のねこを庭にさがに出た時だったわ。おばあちゃんの家からガチャンという音といっしょにあなたのおとうさんが飛び出してきたのよ。何事かと思っていると、すぐにおばあちゃんも飛び出してきてね。何か話しているみたいだった。ちょっと気になったんだけど、すぐに仲良く家の中に入っていったから、私も気に止めなかったんだけど、その時に、おとうさんの姿を見たわよ」


「ガチャンって……、いう音……。何だったんだろう?」

「食器が割れたんじゃないのかしら。そんな音だったわ」

「おとうさんは、何かから逃げているようには見えなかった?」

「逃げるって……」

 内田さんは、思い出すように目をパチパチさせた。


「そういうふうに見れば見えたかもしれないけど……、ひょっとしたら、おとうさんって、ゴキブリが嫌いとか?」

 内田さんはおかしそうにうふふと笑った。


「ええ、そうなんです」

 朋香は、なんとか話しを合わせた。

「その時も、おばあちゃんはサングラスをしていた?」

「どうだったかしらね。あ、手に持っていたわ。出てくる時にこんなに暗いのにどうしてサングラスをしているのかしらと思っていたら、おとうさんと話している時は、もう手に持っていたから、その時に外したんでしょうね」

「そうなんだ……」

「どうしたの、朋香ちゃん、そんなにおばあちゃんの目が心配なわけ?」

「うん、……」

 朋香は生返事をしながら、あの日、おとうさんが、おばあちゃんはサングラスをしていなかったといったことが、やはりおかしいと思った。


 おとうさんは、おばあちゃんと有ちゃんが変になってしまっているというのに気がついたんじゃないだろうか? 逃げようとして、おばあちゃんに気づかれた。

 そして、庭に逃げ出した。


 目。金の目が人の記憶を消すとしたら……。説明がつく……。

 金の目を見たから、いや、金の目に見られたから、おとうさんはその時のことを覚えていない……。

 有ちゃんは、今もおばあちゃんの金の目につかまっている……。

 太らせる理由は? 

 食べる……? 

 朋香の身体がぶるぶる震えだした。


「どうしたの、朋香ちゃん」

 内田さんの声が遠くで聞こえた。

「だいじょうぶ? 顔が青いわよ」

「は、はい。ねこちゃん、早く見つかるといいですね」

 朋香は、ふらふらと歩き出した。

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