8
「ただいま」
家に着くとどっと疲れがでた。玄関で、朋香はくたくたと座り込んでしまった。
「どうしたの?」
おかあさんが驚いて、朋香の顔をのぞき込んだ。
「おばあちゃんの家で何かあったの? そんな顔をして、顔が青いわよ」
朋香は、何もないよというように、首を振った。
「ちゃんと話さなきゃだめよ。そんなに疲れたような顔をして何もなかったっていっても、信じられないわ」
おかあさんは、心配そうに眉をひそめていた。
「どうしたら、いいかわからない……、有ちゃんが有ちゃんが、私に帰れって、恐い顔をして怒ったの……」
朋香はおかあさんの顔を見上げて、とうとう泣き出してしまった。
「有ちゃんが、どうしてあなたを怒らなきゃならないの? あなた、有ちゃんに何か悪いことでもしたの?」
朋香はまた首を振った。
「いいわ。まず、お部屋に上がりましょうね。それから、ゆっくり話してくれればいいわ」
おかあさんは、朋香の腕を取って部屋に連れて行ってくれた。
「まず、冷たいお茶でも飲みましょうね」
冷蔵庫を開ける音がした。おかあさんの好きなジャスミンティーをコップにそそぐ音がする。
おかあさんが、テーブルの上にコップを置いた。氷の崩れる音がカランとした。
「どうしたんだい、さわがしいね」
朋香の様子が変なのに気づいたのか、テレビの前にいたおとうさんもテーブルの方にやってきた。
「何かあったの?」
おとうさんが、おかあさんに聞いた。
「それがよくわからないのよ。ちょっとましになったけれど、さっきは、顔が真っ青だったのよ。まるでお化けを見たみたいに」
おかあさんは、おとうさんにそれだけをいって、朋香には「少しは落ち着いた?」と聞いた。
朋香は、うんうんとうなずいた。
「それで、おばあちゃんは、家にいたの?」
おかあさんが聞いた。
うん、と朋香はうなずいた。
「そこには、有ちゃんもいたのね?」
「有ちゃんがいて、おばあちゃんが帰ってきたの」
朋香は、おばあちゃんの家でおこったことを思い出しながら話した。
「それじゃ、あなたが行った時は、おばあちゃんがいなかったのね」
「キッチンのテーブルの上が、汚れ物でいっぱいで……」
「あら、めずらしい」
おかあさんがのんびりといった。
「有ちゃんが、有ちゃんが、おばあちゃんに食べられちゃう!」
朋香は耳を両手でふさいで叫んだ。
「何いってるの、落ち着きなさい」
おかあさんが朋香の肩に手を置いた。おかあさんとおとうさんが目を見交わしている。それを見て、朋香は、自分のいうことをこの二人は信じてくれないと思った。
「何もない」
朋香は、冷静を装った。
「ただ、自転車で転んで、ちょっとびっくりしたから……。転んだことがとってもショックで、心臓がばくばくして、それで、顔が青くなっちゃったんだと思う」
朋香は、おとうさんとおかあさんの顔をうかがいながら話した。
「そう、それで、けがはなかったの?」
おかあさんは、朋香の背中をなでおろした。
「だいじょうぶ。ちょっとびっくりしただけ」
「有ちゃんが、おばあちゃんに食べられちゃう話しはどうなったの?」
「そんなこと、いってない」
朋香は、くちびるをかんだ。
いつの間にか、朋香の側に立っていた翔太が「ねえちゃん、食べられるっていったよ。ちゃんとぼく、聞いたもん。食べられる。食べられる」とさわいだ。
「うるさい!」
朋香は立ち上がって、翔太の口を手でふさいだ。どうすればいいか分からない力を、翔太を抱きしめることで消そうとしていた。
「そうよ。翔太は少し黙ってなさい」
おかあさんがいった。
「食べられちゃうってぼくも聞こえたような気がするけど?」
おとうさんがいった。
「何が何だか?」
おかあさんは、両手を広げた。
「食べられちゃうんじゃなくって、有ちゃんが食べられるものはないかって聞いて、ないといったおばあちゃんにちょっと恐い声を出したの。それはきっと、とっても、お腹がすいていたんだと思う。その声が今までに聞いたことがなかったような恐い声だった。それから、有ちゃんは私に帰ってご飯を食べろって、また、恐い声を出して……。だから私もびっくりして、帰りに転んじゃった……」
朋香は、早口で話し終えた。そして、おとうさんとおかあさんが、この話しを信じてくれているかどうかと、上目遣いで二人の顔をうかがった。
翔太が、力の抜けた朋香の手から逃れた。
「ちがうもん。食べられるっていったもん。おねえちゃんは、有ちゃんが食べられるっていったもん」
そういいながら、翔太は走って部屋を出て行った。
「よっぽどお腹がすいていたのね。有ちゃんにしてはめずらしいわ。何があったのかしらねぇ」
「お願い、おとうさん。有ちゃんがどうなったか、見てきて欲しい」
朋香は手を合わせた。
「有ちゃんは、そんなに心配するような怒り方だったんだ」
「そう。そうなの。お願い」
朋香は必死でたのんだ。
「じゃ、ちょっといって何があったのか聞いてくるか」
「そうね。朋香がこんなに心配するぐらいだから、きっと何かあったのよね」
おかあさんも、うんうんとうなづいていた。
朋香は、どうぞ有ちゃんが無事でありますようにと祈った。
「お腹かがすいた」
翔太が情けない声を出した。
「おとうさん、まだ帰って来そうにもないから、先にご飯食べちゃおうか?」
おかあさんが朋香に聞いた。
おとうさんからの、何にもなかったよという電話を、朋香は待っていた。だから、何も食べる気がしない。
「お腹がすいてないから、私はおとうさんを待ってる」
朋香の胸がまたドキドキしてきた。
「そうお、じゃ、翔太先に食べちゃいましょう」
おかあさんは、翔太に夕食を食べさせていた。翔太は、夕食を食べ終わると、お気に入りのテレビ番組を見るために、テレビの前にちょこんと座っていた。
「有ちゃんだいじょうぶかなぁ?」
朋香は、キッチンにいるおかあさんに聞いた。
「だいじょうぶに決まってるわ」
「そうだよね」
朋香はちょっと笑った。
「おかあさん」
「なあに?」
おかあさんは、朋香の前のテーブルのイスを引いて座った。
「おかあさんは、おばあちゃんがどうして能を好きになったのか聞いていない?」
「若いころから好きだったって聞いたことはあるわ。おかあさんのおじいちゃん、おばあちゃんのおとうさんのことね、も好きだったから、遺伝かな。どうして?」
「うん、ちょっと思っただけ。おかあさんは好き?」
「そうねぇ、好きかもしれない」
「かもなの?」
「だって、よく知らないんだもん」
「そうか」
「朋香は、好き?」
「よくわかんない」
「ほらね」
朋香は、くすっと笑った。おかあさんも笑った。
「おばあちゃんね、昔、舞台の上が、本当の桜の花が咲いている山道になったのを見たんだって。知ってた?」
「ああ、聞いたことがあるわ。でも、それは例え話よ。そういうふうに見えるぐらい舞台が素晴らしかったということよ」
「私には、そういうふうには聞こえなかったわ。おばあちゃんは本当に桜の花と桜の精を見たんだと思った」
「ふうん。どうだろうねぇ」
おかあさんは首をひねった。
朋香はベランダから外を見た。夏なのに、桜の花びらがひらひらと落ちていく。
ひらひら、ひらひら。
花びらの向こうに人影が見える。ゆっくりとこちらに振り返る。その人は、鬼女の面を付けていた。
朋香は息を詰めて目を閉じた。目を開けたとき、桜の花びらも鬼女の面を付けた人もいなかった。
時計の音がカチカチと聞こえた。朋香は、時計の音で、よけいに不安になっていくような気がして眉を寄せた。
おとうさんと有ちゃんが二人がかりだったら、おばあちゃんがもしも鬼に変わっていても、その鬼を封じ込めることができるのだろうか? いや、鬼なんているはずがない……。
そう思った時、電話の音が鳴った。
朋香は、電話に飛びついた。
「おとうさん?」
「そうだよ」
「有ちゃん、いる?」
「ああ、いたよ。元気に飯をパクパク食っていたよ。朋香の話をしたら、何を勘違いしたんだろうって笑っていたよ。おばあちゃんも、大笑いだったよ」
「おばあちゃん、サングラスしていた?」
「いや、してなかったよ」
「どうして?」
「どうしてって、夜だろ、必要ないんじゃないかな」
「目、目は普通だった?」
「普通って、どういう意味だい?」
「普通は普通よ。まぶしそうだったとか……」
「いいや。何のかわりもなかったよ」
「そこに、有ちゃん、いるの?」
朋香は、そこに誰かがいてこの電話を盗み聞きしているような気がして、小さい声で聞いた。
「いや、もう家を出て電話をしているから、ここにはいないよ。だいじょうぶだよ、朋香が心配するような様子は全くなかった。みんな普通にしゃべっていたし、なんの変わりもなかった。キッチンもきれいに片付いていたし、晩飯もおばあちゃんはきちんと作っていたよ。これで、朋香も安心しただろう?」
「うん」
朋香は、納得するしかなかった。
おかあさんがこちらを見て、よかったわねというように微笑んでいる。
おとうさんの話。おかあさんの笑顔。何か違うと思いながら、自分の思いをぐっと胸の中に押し込んだ。
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