11



 佑慶が生まれた時のことを、立花さんが話し出した。朋香と佑慶は、口をはさむこともなく黙って聞いていた。


 佑慶が生まれた日、私は、安達ヶ原の鬼女を題材にした能のワキを演じることになっていたのです。ワキというのは、脇役ということです。

能は約束された型である動きや謡の調子、面、装束などで一見自由のきかないもののようですが、本当は、自分なりに曲をさまざまに解釈し表現するものなんですよ。


 私も、この鬼女の演目はとても気になる物だったので、どう演じればいいのかあれこれと考えていました。


 そして、その日。

 開演の前、橋掛けの幕が上がっても、私の頭は今日にも生まれてくる子供の方に気が散っててしまい、集中を欠いていました。


 話はどんどん進み、山伏である私達が長い旅の果てにようやく陸奥の辺りに人里もないところにたどり着きます。そして、火の明かりを見つけて「人家がある。一夜の宿を借りよう」といいます。


 その瞬間、舞台は安達ヶ原に変わりました。


 その瞬間はとても不思議でした。女主人公これをシテといいます。このシテが独り言のように謡うと、そこはもう夕暮れの山の中だったんです。


 もう、私は私でなくなりました。子供が生まれてくることも、まったく忘れていました。


 その時の安達ヶ原の女は、寂しく一人暮らしをしている人間でした。


 私達山伏は、ただ宿を借りたいという気持ちで戸をたたきます。


 女はあまりにもみすぼらしいから貸せないといいましたが、私達は重ねて頼み込み、なんとか泊めてもらうことになります。


 くつろぐ私達は、小屋の隅に置かれた糸繰り車に目が止まりました。それを使って見せてほしいと頼みます。女は卑しい業を見せるのは恥ずかしくつらいといいましたが、何度も頼むうちに、ゆっくりと糸を繰る様子を見せてくれました。


そこで私は、胸を掻きむしられるぐらいの衝撃を受けたのです。


 女が糸を繰っているところに、月が差し込んでくるシーンがあります。普通、女は月を見るように上を見ます。月は空にありますからね。けれど、その時のシテは、右下の小屋の内に射し込む月の光をじっと見たんです。これは衝撃でした。わかりますか?


 シテが向けた目の先には、本当に月の光が粗末な小屋の隙間から射していたのです。


 月を見上げることができるのは、まだ、幸いなのだと知らされました。月を見上げることもできないほど、この女は、辛く悲しいのかと舞台の私は感じました。


 舞台の上でこんな気持ちになるのは初めてでした。この後は、何を謡い何を演じたのか全く覚えていません。


 この舞台を見た人から後から聞くと、舞台だとは思われないほど迫力があったといわれました。

 それはそうでしょう。その後、約束を破られ激しい怒りの鬼女に変身したシテは、全くの鬼女でした。ふわりと両手を広げ私の前に立ち上がった鬼女は、私の何倍もの大きさで私を食らおうとしていました。


 私は恐ろしかった。本当に食われてしまうと必死で山の中を逃げ回ったのです。


 実をいうと、私は、舞台を終えるとすぐに、子供が産まれたということを聞いたらしいのです。らしいというのは、全くその辺りの記憶がないのです。人の話ですと、私は、衣装も替えずに車で病院へ走ったそうです。


 現実の私は、ただ、鬼女から早く逃れたかっただけでした。


 その時のシテ方が、どういうふうに演じた鬼女を抜かれたのか。本当に抜くことができたのか。今でも私はわかりません。


 逃げて病院まで来た私は、半紙と筆を所望したそうです。そして、何かを書き留め、この子の母親に見せました。そこには「佑慶」と書かれていました。


 そうです。「ユウケイ」と名付けて欲しかったらしいのです。その時の私の演じた名は「東光坊 佑慶」というものでした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る