第5話 春 福岡市 その2

「苗、苗ってば。もう起きんと遅れるぜ」

「ちょ! 何しようと。ああ種かあ。今何時?」

「もうとっくに九時過ぎとうぜ。早う用意しい」

 苗は大きな欠伸をすると、弟に「サンキュ」と言って、緩々とベッドから身体を起こした。

 日曜日、今日は家族で祖母の病院に見舞いに行く予定だった。何もわざわざ、家族総出で行くことないのに。苗は寝癖の付いた髪を手櫛で整えながら溜息を吐く。

 祖母・鈴が、肝臓癌を患い入院したのは、二ヶ月ほど前のことだ。

 もうずっと以前から、入退院を繰り返して来たのだが、数年に及ぶ癌治療の結果はおもわしくなく、医者から勧められて病院内の緩和ケアセンターへの長期入院に踏み切ったのだ。

 鈴が高齢だったことと、近しい肉親が父と、苗・種の兄弟だけで、常に家で面倒を見ることができる人間が居なかったことも、今回の入院を後押しすることになった。

 苗はおばあちゃん子だった。

 小さい頃から何かと面倒を見てくれて、父や母が匙を投げるような悪戯を仕掛けた時だって、祖母だけはいつも自分の味方だった。弟の種だってそうだ。二人ともおばあちゃんに大切にされて育った。

 それだけに祖母の入院は堪えた。彼女の唯一の味方——種を除けば——を失ったっような気がしたのだ。

 実際のところ、苗も種も事あるごとに祖母の病院を訪ねていた。病室へ行って祖母に今日の出来事や、自分の中に溜まった想いを聞いてもらうのだ。そうすることで、彼女自身、精神の安定を図ることができていた。

「こんな時刻に行っても、おばあちゃんは喜ばんちゃけど」

 入院当初、晴れた日はいつも祖母は中庭に出ていた。中でも庭の中央にある小さな池が大のお気に入りで、側のベンチに腰掛け、そこが若い頃見た水辺の風景に似ていると言っては、良く昔話をしてくれた。

 ただ、そこがどこなのか、祖母には判らずじまいであった。父から伝え聞いた話では、祖母は、父が生まれるずっと以前に記憶障害を患ったのだという。何らかの強いショックを受けて、若い頃の記憶の一部を失ったと言うことだった。

 池の辺りで白い紫陽花が咲いたのを見つけた時のことを、今でも苗は鮮明に覚えている。

 その時、祖母は特に懐かしそうに、「ああ、何てこと、ここにも咲くのね。白い紫陽花が——」そう言って、陽が落ちるまで飽きることなく、その花を眺めていた。その横で、苗もずっと一緒に時間を費やしたのだ。

 でも、それが良くなかったのかも知れない。ある日、いつものように病室を抜け出した祖母は、池の側で、全身ずぶ濡れで倒れているところを看護師によって発見された。何とか一命は取り止めたものの、その後、祖母の中庭への外出は禁止された。

 それからの祖母は、一日の殆どを病室で寝て過ごすようになった。自分達が訪れた時だってそうだ。彼女が目を覚ますのは、決まって夕方の六時から八時の間のいずれか。それ以外の時間は、例え誰が訪れても、ベッドに横たわって目を瞑っている。こんな時間に行ったところで何の助けにもならない。寝ている祖母に向かって、勝手に話を聞いてもらうことはあるが……。

 父は何をしたいんだろう? 

 あの清潔な個室は、居心地が悪くはないのだが味気ない。苗は一方的に父が定めた、この定期訪問に何の意義も見出せないでいた。

「おーい、早く支度しろ。十時には出るぞー」父だ。

「はーい」苗と種は、同時に返事を返した。

「ちぇ、返事だけは良いっちゃけん」

「あんた、せからしかねー。いいけん、早よ用意しい」弟を睨んで苗が言った。

 

 祖母の病室に到着したのは、結局お昼前になった。

 病床の祖母は軽く口を開いて、いつものように眠っていた。

 看護師から何度も昼食を摂るよう勧められたのだが、彼女はそれを拒み続けた。食事は一日一度、夕方の六時から八時の間。それが祖母の提示したルールだった。主治医も余命幾ばくもない老婦人の願いを聞き届けることにしたらしく、それ以上は煩く言わなくなっていた。

 到着して直ぐに、父は医務局へ担当医の先生を訪ねて行った。苗と種は病室で鈴と共に帰りを待つことにした。

「おばあちゃん窓ば開けようか? 少し換気した方が良かっちゃなか?」

 ベッドに横たわる祖母に向かって種が声を掛ける。

「あんたね、おばあちゃんに分かる訳ないやん。そういうの止めてくれる? わざとらしくて、鬱陶しいっちゃん」

「何だよ。良かろうもん。自分だって、いつも、寝ているおばあちゃんにあれや、これや話しようくせに」種が唇を尖らす。

「何ね。もう子供じゃないっちゃけん、そんな顔せんと」

 そんなんじゃ、モテんよと苗が言うと、馬鹿馬鹿しいとでも言うように、種は両手を大袈裟に広げた。

「姉ちゃんこそ。そげな態度じゃ、男が寄ってこんばい」

 苗は完全無視を決め込んだ。

「ところで、あんた、昨日も来たと?」

「うん? ああ、来たよ」

「おばあちゃん、何か言いよった?」

「いやー。特に何も。何で?」

「いや、いい」

 数日前にも苗は祖母の病床を訪れていた。

 その日は学校で面談があって、苗は担任の先生から色々と注意を受けた。最近、様子がおかしいんじゃないか? 成績が落ちているぞ。このままだと——

「とても志望する大学へは入れないぞ」

 ショックだった。勉強は好きではなかったが、ランクを落として入れる大学を選んだつもりだった。何より東京の大学に行って、早く今の家を出て行きたかった。

 その後、苗は一人で祖母の元を訪れた。静かに眠っている祖母に向かって、自分の心情を吐露した。話しているうちに自然と涙と嗚咽が止まらなくなった。こんなにも弱い自分を、他人に見せたことは初めてだった。

 祖母なら受け止めてくれると、そう思った。

 しかし、祖母は何も答えなかった。

 当たり前だ。おばあちゃんには私の声など届いていないのだから。

 それでも何か反応して欲しかった。答えてくれなくてもいい。ただ、目を開いて聞いていて欲しかった。

「お姉ちゃん?」

 不思議そうに、こちらを見詰める種の視線に気付き、苗は、顔を上げた。

「何でもない。私、そろそろ行くわ。お父さんには、適当に言っといて」

 そう告げると、目を瞑ったままの祖母の顔をチラリと見て、苗は病室を後にした。

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