第6話 春 ボウエンアイランド その3

 ぼうぼうに伸びた背の高い草が道の右側を埋め尽くしている。

 左手には、競馬場のパドックのようなちょっとした広場があり、焦茶色の馬が一頭、呑気に草を食んでいる。その奥には、丸太を組んで建てられた小屋が、森の番人といった風情で佇んでいる。

『——ほら見て、あの小屋の左手に樫の木が見えるでしょう。あそこの根元がいいわ』

 言うが早いか、ブロンドの髪の少女は、樫の木に向かって駆け出した。

 

「はあ、はあ」ブレンダは目を覚まし、ベッドの周りを見回した。

「夢……か」

 額を両手で抱えヨロヨロと歩いて台所まで行くと、無造作に蛇口を捻り顔に水飛沫を飛ばした。鏡を見ると、目の周りが腫れぼったくなっている。

(何て生々しい。それに、あの少女は……私だ)

 もしかすると、失った自分の過去に関係しているのかも知れない。

 そうであれば、あの場所まで行けば、何か思い出せるかも知れない。

 夢かどうかは定かではないが、先程見たビジョンは、この島のどこかだと察しが付いた。根拠はないが、小屋の周りの風景がそういう雰囲気を醸していたからだ。明日、探してみようと彼女は思った。

 気を取り直して、ベッドへ戻ろうと背後を振り返った時。

「え?」床が汚れている。気が付かなかったが、よく見ると、ベッドに向かって点々と床に黒い塊が付着していた。

 慌てて電気を付け床を確認する。それは泥だった。さっきまで横たわっていたベッドから、自分の歩いた足跡が泥の塊となって床に残っていたのだ。

「どうして?」

 見ると、彼女の脚は、ところどころ固まった泥に覆われていて、それは脹脛付近にまで及んでいた。ベッドの横の床には、まだ乾き切っていない衣服が放置されている。

 意味が分からない。何故こんなことになったのか。

 今日は、夕方にはキセツから帰って、荷物を整理して、確か十一時頃には床に入ったはずだ。その間どこにも出ていない。帰宅して直ぐシャワーを浴びたのだから泥など着く訳がないのだ。

 時計を見ると、時刻は午前五時を少し回っている。その間に何があったのだろう?

 慎重に、それ以上泥を落とさないよう注意しながら彼女は風呂場に行き、脚に付着した泥をシャワーで流した。彼女は、そのことについて考えることを放棄したかに見えた。

 ブレンダはシャワーが終わると直ぐに、再びベッドへと潜り込んだ。

 

 翌朝、ブレンダは七時前に起きて床の上に残った泥を掃除し、近所へ散策に出掛けた。どうしても、昨夜夢で見たあの小屋の風景が気になって仕方がなかったのだ。

 あの場所は、背の高い草と広場、小屋の周りをぐるりと緑の木々が取り囲んでいた。道だって未舗装の砂利道だった。もし、あれがこの島内だとすれば、間違いなくこの森の中のどこかだ。

 とはいえ、島はその大半が森で覆われている。いくら狭い島とはいっても、ピンポイントで探し出すのは、中々骨が折れるだろう。

「でも、やらないと」

 覚悟を決め、ブレンダは林道の奥へと入って行った。

 薄暗い森の中に、スポットライトを当てた様に、木々の間から無数の光が差している。縦横無尽に走る未舗装の道路は、あるものは広く、またあるものは人や動物が気侭に踏み固めたであろう獣道だ。

 その中を気の向くままに歩いて行くと、時折、自分以外の生物の気配を身近に感じることがある。

 恐る恐る振り返るが、そこには誰もいない。多分、鹿や栗鼠など、この森の先住民達なのだろう。彼らもまた。森の異端者である私を畏怖しているのかも知れない。

 否、それだけではない。

 ブレンダは立ち止まり、腕を大きく広げ深呼吸した。

 あれは森だ。この森そのものが生きているのだ。木々や、動物達、水や土に至るまで、この土地に存在する全てのものが、長い時を経て、今日に至るまで、命の営みを伝え続けているのだ。

 そうした数多の生命によって構成されているこの森を、生きていると言わずして何と言えば良いのだろう。

 そう気付いた途端、彼女は少しだけ身体が軽くなった。自分も、この森の一部になれた様な気がした。いずれ夢で見たあの場所に、この森が導いてくれるだろう。そんな気がした。

 結局、二時間ほど森の中を彷徨い、ブレンダは帰宅した。これといった成果は挙げられなかった。また明日だ。そう決めて、彼女はさっさと着替えを済ませ、キセツへと歩いて向かった。

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