第4話 春 ボウエンアイランド その2

「宜しくお願いします」と言って、ブレンダは丁寧に頭を下げた。

「オー! ジャパニーズ オジギデスネ。ハウ ワンダフル!」

 オリヴィアは子供の様にはしゃいで「ノープロブレム」と言って微笑んだ。

 結局、日和に押し切られ紡はブレンダを「キセツ」で雇うことにした。住む所についてはオリヴィアに相談し、どうにか彼女の所有しているキャビンを借りれることになった。

 取り敢えず、今はこうするしか他に方法がないのだろうが、体の奥の方から漠然とした不安が湧き上がってくる。どんなに偉そうな大義名分を掲げようと、見付かれば自分は犯罪者だ。店は潰され、借金を返す手立ても無くなる。それどころか日本に強制帰国させられる可能性すらある。そうなったら悔やんでも悔やみ切れない。

 紡はブレンダの整った横顔をちらりと見た。

 ——これは現実なのだろうか。

 年齢不詳、家族構成も住所すらも不明なこの少女は、本当にこの世の者なのだろうか。

 幾度となく考えてみたが簡単に答えなど出るはずもない。ただ、この無邪気な少女が嘘を吐いているなど到底想像できない。やはり今は、黙って様子を見守るしかないのだろう。

 紡はブレンダを連れてオリヴィアに挨拶をすると、キセツに向かって戻って行った。

 予想に反して、店は目の回るような忙しさだった。

「やっと帰って来た。早く、早く手伝って!」こちらを見て日和が悲鳴を上げる。

 予報では今日から一週間は毎日晴天が続く。ここのところ気温十五度を超える日も多くなり、フェリーに乗って島にやって来る観光客は増える一方だった。

 紡とブレンダは急いで店に入ると、エプロンを着けて接客に加わった。照りつける日差しと海風が心地良い。夏は確実に直ぐそこまで迫っている。

 やっと店が落ち着いた時には時刻は午後三時を回っていた。用意しておいた弁当も、その大半が売り切れてしまい、おにぎりに使うご飯もあと僅かだ。

「今日はこんなもんかな。ちょっと仕込みしないと」

 紡が奥にあるキッチンへと引っ込む。その後を「私も手伝う」と言って日和が追い、表はブレンダ一人となった。仕方ない。これから訪れる客の大半は、お茶や珈琲などのドリンクを買いに立ち寄るだけだ。店頭は一人でも何とかなるだろう。

 閑散となった店先に、さっきより少しだけ柔らかくなった海風がそよそよと吹きつけた。眼下に見えるフェリー乗り場では、暇そうに次のフェリーを待つ人や、その辺に適当に座って読書をする人など、皆が思い思いの時間を楽しんでいる。まるで世界中の時が止まったかのようだ。

(空も海も真っ青だ)

 どこにも焦点を合わすことなく、ブレンダは、その風景に見惚れた。


『——こんにちは。素敵なお洋服ね。あなた、お名前は?——』


 突然、耳元で話し掛けられ、慌てて周囲を見渡したが、自分以外誰もいない。先程までと同じ、青い空と海だけが目前に広がっていた。

(今のは、何?)

 確かに誰かの声が聞こえた気がした。それとも自分がおかしいのか。ブレンダは頭を左右に振った。

 一体、何が起きているのだ。私は誰なんだ。何故、何も覚えていないのか。いくら考えても分からない。それに——

 どうして私は彼処・・に突っ立って居たのか。

「ブレンダ! 今日から、キャビンへ引越しでしょ。ここは大丈夫だから、先に帰っていいってさ」店から日和が顔を覗かした。

「あ、はい。ありがとうございます」ブレンダは咄嗟に笑顔を取り繕う。

「それから、これ。紡さんと私からの引っ越し祝い」そう言うと、日和は紺色の風呂敷包みをブレンダに向かって差し出した。

「凄いでしょ! カナダで風呂敷に包んだお弁当なんて。しかも味は保証付き」

「ええー。本当に? ありがとうございます」

「いいのよ。紡さん、手が離せないから、また明日ね」

「はい。すみません」

「道間違えないでね。ここは、一歩間違えると森の中だから。キラーニーレイクまで行っちゃわないように」

「分かりました。また明日」そう言うと、ブレンダは、お弁当の風呂敷包みを受け取り、フェリー乗り場から続くメインストリートを、西へと向かって独り歩き出した。

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