第3話 春 福岡市 その1

(たった今、私がここから飛んだとしたら、どうなるだろう)

 天神の交差点の歩道橋の真ん中に立って、春野苗はるのなえは漠然と想像した。

 これだけ交通量の多い場所だ、落ちたところを撥ねられて即死か、良くて重症。一生今の状態に身体は戻らないかも知れない。否、もしかすると奇跡的にかすり傷で済むとか? 未来のことは解らない。

 では、その境は何だ?

 恐らくそれは運次第なのだろう。落下するのに、性格や頭の良し悪しも、増してや経済力など何の役にも立たない。だとすれば、運さえ良ければ人は生き延び、悪ければ淘汰されるということか。

 馬鹿馬鹿しい。人の将来など神様の機嫌一つでどうにでもなるということだ。努力が報われるという補償など、どこにも無いのだ。ならば面白可笑しく、やりたいように今を生きた方が良いではないか。飛びたければ今直ぐ飛び降りれば良いのだ。運さえ良ければ笑い話で済む。例えそのことで私という存在が居なくなったとしても、この広い世界に与える影響なんて高が知れている。せいぜい地元の新聞で活字となって取り上げられ、直ぐに忘れられるのが落ちだ。

「苗?」

 呼び掛けられて我に帰り、隣を見ると、クラスメートの永嶋冬香ながしまとうかが心配そうな顔をして、こちらを見ていた。

「大丈夫? 具合でも悪いと?」冬香に聞かれ、「うん。大丈夫。何でもないけん」と苗は答えた。他人に話すような内容ではない。

「うち、そろそろ帰るわ」

「え? 行かんと? そっか——けど、苗が帰るんなら」

「いいって、冬香は一緒に行ってきい。藤野君、来るっちゃろ」

 冬香は少し逡巡したが、「分かった」と言って、夜の街へと消えて行った。全く、最初から素直にしといたら良いのに。苗は、友人の後ろ姿を見送ってから、家とは反対に、中洲の方向へと歩き出した。

 特段、何か用事がある訳でも、どこかに行きたい訳でも無かった。ただ、川沿いの夜風に当たりたかった。

 屋台の立ち並ぶ夜の歓楽街を一人でブラブラしていると、この世界に多様な人種がいることに気付く。サラリーマン、飲み屋のお姉さん、ホストらしき人、チンピラ。皆、有象無象だ。私だってそうだ。

 私服の女子高生が、こんな時間に、独りで中洲を散歩しているなんて、親が知ったらどんな顔をするだろうか? あの厳格な父のことだ。引っ叩かれるくらいじゃすまないだろう。想像して、苗はゲンナリしてしまう。あの人には私が生き甲斐なのだろうから。

「お、姉ちゃん! 一緒に飲もうや」赤ら顔した大人が、ニヤけながら近づいて来たので、苗は顔を顰めて無視を決め込んだ。

「何や、ガキが。早よ帰って母ちゃんの乳でも飲んどけ」ペッと唾を吐いて、大人が言った。

 ——臭い。

 何を口にしたら、こんな匂いが出せるのだろう。

 本当に、ここは最悪だ。ここにいる人間全て、最低の生き物だ。下品で、傲慢で、汚く、おまけに臭い。耐え難い異臭だ。「ここは、汚染されている」苗は呟いた。

 否、汚染されているのはここだけじゃない。天神も、大名も、自分が通ってる、あの高校も、街全体が、日本全体が汚れ切っている。

 苗は天を仰いだ。いつ頃からだろう。私がこんな風になったのは。

 幼稚園、小学校と、常に苗はクラスの人気者という立ち位置だった。そして、それを彼女は、大好きな母のおかげだと考えていた。幼い頃から、母は苗にとって太陽の様な存在で、いつも周りを明るく照らしていた。でも——。

 中学校に上がるかどうかという頃、母は突然家を出て行った。あの頃は分からなかったが今は知っている。原因は父の浮気だ。

 あの厳しく生真面目そうな人間が、素知らぬ顔で母以外の女性と関係を持っていたなんて。苗には受け入れ難い事実だった。

 何故だ? 父は母を愛していたのではないのか? だから結婚したのではないのか? 父は私達も愛していないのか? 否、彼は私に向かって、今まで何度も愛情表現を繰り返してきたではないか。

 分からない。

 丁度その頃から、苗の中から何かが抜け落ちていった。以前は、あれほど明るかった彼女は次第に無口になり、親友はおろか友人と呼べる者も周りから減っていった。さすがにこれでは拙いと思い表面上は優等生を取り繕ったが、一度失った気力は戻っては来なかった。

 立ち止まって、那珂川の水面に映るカラフルな電飾を眺めてみた。特段、綺麗なものとも思えない。何故大人達は夜な夜なここへ集まるのか。苗には得心がいかない。

 お酒を飲むため?

 異性に出会うため?

 もしそうであるならば、どちらにしても、それは——虫と同じだ。

 大人達が、お酒や異性の匂いや、人工的な灯火に惹かれて集まるのだとすればそうだろう。どこに違いがあるというのだ? 両者の間には何ら相違が無いではないか。

 幼い頃から、苗は虫が苦手だった。

 不恰好で、もぞもぞと這いずり回る虫を見ると、ゾッとする。苗にとっては、この街の大人達も皆同様に、そうした嫌悪の対象と成り得るものだった。

 お父さんも虫だ。大っぴらに飲みに行ったりはしないけれど、別の女性の匂いに魅せられて、お母さんを捨てた虫。硬い殻を被って自分の脆さを誤魔化しているだけの団子虫だ。

 そして、その団子虫から生まれ落ちた私も又、虫なのだろう。

「畜生!」苗は川に向かって吐き捨てるように独り言ちた。

「おい君、高校生か? こんな時間に何をしている?」

 不意に背後から声を掛けられ振り向くと、丸目鏡を掛けたスーツ姿のおじさんが駆け寄って来るのが見えた。小太りな体型が、昔読んだ童話のハンプティダンプティを思い出させる。巡回中の指導員かも知れない。

「チッ——」

 一旦立ち止まる振りをして、相手が油断すると見るや、苗は全力で走り始めた。野生の兎の様なしなやかな走りだ。橋を越えて、春吉の狭い路地に出る頃には、ハンプティの姿は跡形もなく苗の視界から消え失せていた。

(折角の散歩が台無しだ。時間の無駄遣い。無駄は嫌いだ)

 肩に背負ったバックパックを担ぎ直すと、苗は携帯を弄りながら、天神の方向へと歩いて行った。

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