嘘も方便

 こ、こえぇ——。

 奇声を上げて襲い掛かってくる老人に鞍馬あんばは心底ビビっていた。一見、温厚そうに見える年寄りが目を血走らせて怒り狂う姿はそれだけで恐怖を与えてくる。

 だが、不謹慎な真似をした自覚はある。

 鞍馬は目を閉じて覚悟を決めると、甘んじてその一撃を受けることにした。

「喰らえぃ!」

 怒号と共に気合一閃、頭に振り下ろされる傘に備えて鞍馬は固く目を閉じる。

 が、予想した衝撃はやってこなかった。

「な、なんじゃあこの小娘こむすめぇ! 危なかろうがぁ! 女子おなごは引っ込んどれぇ!」

 代わりに届いた老人の怒声に薄目を開けると、横から伸びた白い手が鞍馬に振り下ろされた傘の切っ先を掴んでいた。

「うちは、『オズ作戦』が誇る案山子スケアやから」

 体中を強張らせていた鞍馬は気付かなかったが、いつの間にか自転車から降りていた真歩まほが隣でなんか言っている。

「お前の事なぞ知るか! いいから離せ! 離さんか!」

 老人が左手を加えて両手持ちで傘を握り、体ごと揺さぶるように真歩の手を引き剝がそうとするがまるでビクとも動かない。

「うちの部員に悪さする人は追い払わんとあかんの」

 必死の形相でヘッドバンギングしているようにしか見えない老人を真歩が無表情で煽る煽る。

 その挑発に老人のボルテージは鰻登りだ。

「なにぃ⁉ 悪さをしとるのは貴様らの方じゃろうがぁ!」

 額に青筋を浮かべた鬼の形相でガックンガックン、見ていて心配になるほど首振りヘドバンを加速させる。

『ま、いいけどよ。適当に加減しろよマホ子』

 ミヤモリの余計な一言が老人の闘争心を決定的に焚き付けた。この老人、老体とはいえ大工仕事で鍛えた自負がある。力比べで斯様かような小娘に後れを取ることなど……。

「なにをぅ! そぅれぃ!」

 掛け声一発、丹田たんでんに力を込めて一気呵成いっきかせいに両の腕に体重を掛ける。

 が、その涼しげな顔、小柄な体躯のどこにそんな力を秘めたるものか。右手で軽く掴まれただけの傘は万力で締め上げたが如く頑なに一ミリと動かない。

「ええい! この小娘ぇ! なんだぁ貴様この小娘ぇ⁉」

 それどころか、自ら傘に掛けた膂力でもって老人の足が地面から浮き始めているではないか。

「こ、小むす?」

 それに気付いた老人の真歩を睨み付けていた目が信じ難いものを見るそれになったとき、負荷に耐えかねた傘が中ほどでへし折れた。

「ぬおお!」

 支えを失って全体重を乗せた勢いで顔から地面に転びそうになる老人の肩を、真歩が左手で軽く受け止めた。

 勢い余って老人の顔が夏服を下から押し上げる真歩の胸にうずもれる。

南無なむ……観音かんのん……菩薩ぼさつ

 そこにあまねく迷いの衆生しゅじょうを救済する慈悲の光を見たのか、虚脱したように老人の体から力が抜け、垂れた右手から折れた傘が地面に落ちた。同じく垂れた左手には首輪が握りしめられたまま。

「お爺ちゃん、大丈夫?」

 今さらながら意外な敬老の精神を見せた真歩が自分の胸に乗った老人の頭に声を掛ける。

「完敗じゃあ……。ワシも歳には勝てなんだか」

 ゆるりと真歩の胸から顔をあげた老人はすっかり覇気を失っていた。先ほどまでの威勢は見る影もなくしぼんで枯れ落ちるようにそのまま地面にすとんと腰を下ろす。

「さあ、悪童どもめ。煮るな焼くなと好きにせい」

 生きて虜囚の辱めを受けぬ、と憎々しげに鞍馬達を睨め上げる。

「好きにって……私達は別に」

 見当違いの悲壮感を漲らせる老人に部長はほとほと困り果てた。巌の如く硬化した態度を前に弁解の余地など見出せるはずもない。

 ともかく、謝って帰ろう——。

 建設的ではないものの現実的ではある結論を出して実行に移そうとしたとき、鞍馬が自転車を降りて老人の前に歩み出た。

「まず、失礼な事をしてしまった事をお詫びします。大変申し訳ありませんでした」

 深々と頭を下げる鞍馬に老人が奇異の目を向ける。

「なんじゃいまさら」

 その意図を探るようにジロジロと顔を眺めてくる老人と目線を合わせるように、鞍馬は地面に左膝をついた。

「これを見てください。俺もあなたと同じ憎しみを抱えているんです」

 老人につま先を向けた右足のジーンズの裾をたくし上げる。

「貴様、その足はまさか……」

 装具に包まれた鞍馬の右足に老人が顔色を変えた。

「ええ、あの化物に襲われたのはあなたの飼い犬だけではないんです。俺達は訳あって奴に呪われてしまって、その所為でずっと狙われているんです。もう、いつ俺達の中の誰かが奴に殺されてもおかしくない。だから、そうなる前にあの化物の正体を突き止めないといけないって必死で……」

 そこで歯を食い縛るように「くぅっ……」と喉を鳴らして顔を伏せる鞍馬。その肩が何かに耐えるように震えているのを見た老人の表情からはすっかり険が取れ、中から気遣わしげな好々爺の顔が姿を現した。

「そんなことが——。何分、こちらもついカッと頭に血が上ってしまってね。そうとは知らず乱暴な真似をして済まなかった」

 胡坐を組んだまま居住まいを正して頭を下げてくる老人に合わせるように鞍馬もいま一度頭を下げた。

「いえ、俺も仕方なかったとはいえ不謹慎な真似をしてしまって。本当に申し訳ないと思っています」

 そんな鞍馬と老人のやり取りを部長はドン引きとしか言いようのない心地で傍観していた。一度本気で何かを志した事のある人間はこれほどまでに勝利もくてきに貪欲になれるのかと。自分には辿り着けない境地をただ遠巻きに眺めるより他なかった。

 隣で川俣がそわそわと「いいのかい?」と繰り返し目で訴えてくるが、そんなの私に問わないで欲しいと心の底からそう思う。

 真歩は真歩でぼんやりとオレンジ色の街灯に集る羽虫を見上げていた。ミヤモリの餌に丁度いいのかもしれない。

「いや、いいんだ。言われてみれば可哀想に、あの子なんか髪の毛が真っ白になってしまっているじゃないか。随分と怖ろしい目に遭ったのだろうね」

 先ほどの事などすっかり水に流して真歩を痛ましげに見やる老人に、もちろん鞍馬は誤解をとくことなどしなかった。神妙に眉を寄せて重々しく頷き、

「それで、こんな時に厚かましいことは承知なんですが、あの化物について心当たりがあれば教えて貰いたいんです」

 白々しくも遠慮がちにそう願い出た鞍馬の視線を老人はしかと受け止めて、

「わかった。家に上がってくれ。今はともかくこの子をうちの庭に弔ってやりたい。そのあとで良ければ私の知っている話をしよう」

 そう言って立ち上がると、膝立ちのままの鞍馬に右手を差し出した。

「ありがとうございます」

 鞍馬が握手するようにその手を掴んで立ち上がる。

「君らもついてきなさい。特に君、酷い有様じゃないか。案内するからうちの風呂場で汚れを洗い流すといい」

 他の面々に声を掛けて自宅の玄関に向かう老人の隣を当たり前のように鞍馬がついていく。

 部長と川俣が呆気にとられていると不意に鞍馬が戻ってきて、

石井いしいさんが庭に自転車入れとけって。さっさと俺らを家に通して犬の弔いをしたいそうだから急いでくれよ」

 言うだけ言って、自分の自転車に跨って老人宅の庭に入っていってしまう。

「え、と。じゃあ、いきましょうか?」

「そ、そうだねぇ。俺もお風呂場を借りられるのは有難いよ」

 部長と川俣、それぞれ色々と思う所はありながらも、鞍馬の目的の為なら手段を選ばない姿勢が頼もしくあるのも確かなのだった。

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