獅子、吠える!

 ——なにやってんだお前ら?

 立ち竦む自分に向けられた声の冷たさに川俣かわまたは僅かに冷静さを取り戻した。同時になんの躊躇もなく汚物を塗り固めた泥人形にスマホを向ける鞍馬あんばの何の感情も読み取れない横顔に化物に抱くのとは別種の恐怖が湧いた。

 或いはそれは嫌悪感と呼ばれるものかもしれない。

 そんな場合ではない事は分かっているつもりだ。だが、被害者への考慮をかなぐり捨てて取材に熱を上げるマスコミに対するような、非人間的な印象をこの相手に抱かされたことに戸惑いを隠せずにいるのは確かだった。

 流石に止めようとした時にはもう遅く、鞍馬は派手なシャッター音を夜の静寂しじまに響かせた。

「逃げるぞ!」

 目的は果たしたとばかりに退散を促す鞍馬に、川俣は自分の中に湧いた感情の種類をはっきりと確信させられた気がした。

「コイツの目当ては俺らだ! あの爺さんから引き離す!」

 ああ、やっぱり君は——。

 まったくそんな場合ではないのは分かっているのに、鞍馬の見せる英雄的ヒロイックな一面に裏切られた気分が吹き飛んで川俣は泣きそうになった。

「立て! 部長! 追ってくんぞ!」

 バックで自転車の向きを変えた鞍馬が、地面にへたり込んだままの部長の肩をバシバシと叩いて急かしている。

『ミツケタ……ミツケタ……ミツケタ……』

 べたっ、べたっとまるで馬糞が地面に落ちるような音をさせて、こどもほどの背丈の腐った肉だるまのような醜悪な異形が向かってくる。体のあちこちから飛び出ている何の動物の物か分からない毛にゾッと生理的嫌悪感が背中に湧き上がる。

 近付いてくる化物の顔に無造作に埋め込まれた、左右ともにあらぬ方を向いた眼球に捉えられた気がした。

「ひ……うわわわ!」

 本能的な恐怖に後ろ足でたたらを踏んだ川俣は、慌てて鞍馬の加勢に回る。部長の自転車に駆け寄ると、ハンドルを握って後ろ足でスタンドを蹴り付ける。

 ようやくふらふらと立ち上がった部長のもとへ自転車を押していき、

「ほら! 部長! 乗って!」

 押し付けるように自転車を部長の方へ傾ける。

「あ……あ……殺され……」

 が、恐慌状態が抜けきらない部長は塀の切れ目から姿を現した化物に怯えた顔を向けてガチガチと歯を鳴らすだけだ。無理もなかった。自分達はあれに襲われて無抵抗になっていく柴犬の姿を見てしまっているのだ。そう思いながらも祈るように、

「頼むよ部長!」

 川俣が絶望的にそう叫んだとき、その背後——まるでそういう生き物コアラのように黙って鞍馬の背中に貼り付いていた真歩まほが右手を大きく振り上げた。

 バッチーンっと派手な音を立てて手の平を部長の背中に叩き付ける。まさに背後から撃たれたように仰け反った部長は後ろを振り返り、

ったぁ! なにするのよ!」

 食って掛かる部長に真歩はしれっと化物に顔を向け、

「さっさとせんと、やられてまうよ」

 その言葉に我に返って状況を把握した部長は「ひっ」と声を上げて、差し出されたままの自転車のハンドルに飛び付く。

 同時に、化物が得体の知れない汚物をまき散らしながら飛びかかってきた。

「ひぃいいいい!」

 あられもない悲鳴を上げて恐怖に顔を引き攣らせる部長。鈍重そうな見た目からは想像もつかない、尋常ではない跳躍力で上から覆いかぶさるように化物が襲い掛かってくる。

「あ……あ……」

 噎せ返るような悪臭を放ちながら、大口を開けて自分に食らい付こうと迫ってくる化物を見上げるしかない部長の視界を影が覆った。

 川俣の大きな背中だった。

 上体を反らして砲丸投げのような構えをとったその背中が膨張した筋肉をはち切れそうなTシャツに浮き上がらせている。

「うおおおおおお!」

 腹に響く雄叫びを上げ、全身の筋肉バネでもって繰り出された川俣の拳が飛びかかってきた化物の顔面に突き刺さる。

 空中で化物の頭がぜた。

 周囲にびちゃびちゃと汚泥じみた肉片をまき散らしながら、後方に飛ばされた体がべしゃっと音を立てて地面に叩き付けられる。

「うっそだろ、おい……」

 フー、フーとそれを見下ろしながら肩で荒く息をする川俣の、人間離れした剛腕の威力を目の当たりにして鞍馬が呆然と呟く。

「あ、ありがとう川俣君」

 振り返った川俣の顔は化物から降り注いだ汚物に塗れていた。川俣はぐいっと持ち上げたシャツ——これもあちこちに汚れが散っているが——の裾でそれを拭い、

「いやぁ、殴れる相手で良かった。無我夢中でやってみたけれど、自分のパンチにこんな威力があったなんて驚きだよ。火事場の馬鹿力ってやつかなぁ?」

 自身の惨状を気にもしていない晴れやかな笑顔を見せるのだ。その底抜けの人の好さに部長が何も言えずにいると、

「おい、見ろよ」

 倒れた化物を注視していた鞍馬が注目を促す。顔の上半分が抉れた化物が手足をもそもそと動かして、鞍馬達から逃げるようにずるずると地面の上を這っていた。

「どうする? 追ってみるか?」

 どういう神経をしているのか、この期に及んで化物の方へ自転車の向きを変えて意欲を見せる鞍馬に、部長と川俣は顔を見合わせる。お互いそんな気が起こらないのは確認するまでもないことだった。

「よし、行くか」

 が、鞍馬が二人の無言を勝手に肯定と受け取ってしまう。

『まあ待てや。鞍馬よ、今日のところは俺らも退こうや。深追いしたとこで5人目ノートを完成させねぇと奴をどうにか出来ねぇんだろ? 少なくとも、頭吹っ飛ばしたくれぇじゃくたばらねぇのは今のでわかったじゃねぇか』

 落ち着いた声で逸る鞍馬をミヤモリが諫めた。そんなミヤモリを部長が意外そうに見やる。見直したといった顔だ。

「それはそうだけど——」

 今一つ納得いかない顔で捜索に未練を残す鞍馬だったが、しばらくしてどの道諦めるしかなくなった。

 化物は近くのマンホールまで這っていくと、溶けるように崩れた体を隙間に流し込むように蓋を押し上げてその下に潜り込んでいった。

『見ろよ鞍馬、下手に追わねぇで正解だったろ? あの化物ばけもん、今食った犬をもう消化しちまったみてぇだぜ』

 ミヤモリの指摘に、物理攻撃の利く相手をどこか見縊っていた鞍馬は、改めて化物の脅威に実感が湧いて「だな」と苦い笑いを返す。

「言われてみれば……じゃあ、俺のこれも早く落とした方がいいかもしれないなぁ」

 自分の体を見下ろして川俣が不安そうな声を出す。

「そうね。あ、よかったらこれ使って」

 部長がリュックから取り出したウェットティッシュを差し出す。

「ありがとう。助かるよ。汚すと悪いから、何枚かとって渡してくれるかなぁ?」

「お礼なんて良いのよ。全部使って。川俣君は命の恩人なんだから」

 部長に笑顔で言われ川俣が「いやぁ……」とウェットティッシュを受け取りながら赤面して照れた。

「けど、ほんと凄かったぞ川俣。なんてハードパンチャーなんだよお前。これで特に鍛えてないってんだから神様は不公平だよな」

 鞍馬からの称賛に、これまた照れるかと思えば川俣は実に微妙な顔を引き抜いたウェットティッシュで拭いながら、

「いや、本当に今のはたまたまのまぐれ当たりだよ。あれが自分の実力だなんて俺自身も信じられないのが正直なところさ。同じ事をやれと言われても自信がないからあまり当てにしないでくれよ」

 その奥ゆかしさを鞍馬はやれやれと笑い飛ばして、

「謙遜すんなって。まぐれであんな真似が出来るかよ。ありゃ正真正銘お前の実力だ。流石は我ら『オズ作戦』が誇る百獣の王ってとこか。これからもいざって時は頼りにしてるぜ」

 と、手放しで川俣を讃えていると、後ろに乗った真歩が何故かシャツの上から背中を抓ってきた。

 なんだよ? と鞍馬が振り向いて文句を言おうとしたとき、

「お前らぁ……」

 庭先から道路に出てきた老人が目に憎悪を滾らせてこちらを睨み付けてきた。右手には相変わらず傘を握っている。

「ギャーギャー騒ぎおって。うちの飼い犬がこんな姿になったのがそんなに楽しいか?」

 掲げた左手で握りしめた愛犬の首輪を鞍馬達に見せつける老人の泣き腫らした目は、お前らも同じ目に遭わせてやると怒りに燃えている。

「特にお前だ。面白がって写真なんぞ撮りおって。SNSとやらで晒して笑い者にしようってんだろう」

 自分の言に興奮するように老人の目が吊り上がっていく。その目はもちろん、物見遊山で女の子を自転車の後ろに乗せている——ように見える——鞍馬に向けられている。

 キェエエエ! と怪鳥のような声を上げて老人が傘を振り上げた。

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