No.9 おはなしアヒル 作者:PanLCR さん

 リアムらは草むらで並んでいた。少しずつ少しずつ、横へ横へ移動しながら。

 

 あれは何をしているのか?

 授業内容と同様にいっこうに頭に入ってこず、窓からその様子を眺める。広い社会に出ればその意味は明白になるのだろうか?

 邦明はそう思い、窓ガラスに反射するクラス内の照明と草むらとを交互に見る。この学校を呪う儀式、あるいは応援団、または理由もなくあそこに居るというのか?

 草むらで少しずつ横へ動くことに、どういった意味があるのか、それは学生などにはまだ不可解なのだろう、と自分で決めつけることに。


 草むらからは、学校だけが見えているのではないだろう。道路やいくつかの商店、白い団地、山の中のなんらかの施設など。山を切り崩した住宅地だが、まだまだ緑が多い。緑でもながめているだけではないか。


 だんだんと邦明は、草むらの団体に腹立たしい感覚を覚えはじめる。彼らはこっちを見ていったい何をしているんだろうか。もちろん自分を見ているわけではないが、主観や客観を分別できず、ハトやネコのように警戒した。あの集まりに落雷でも落ちればいい。


「あの人たちはなんなんでしょうかね」

 バスク先生は窓の外を見ながら、団体を発見したようだ。さっきまで自分だけの発見だったのに、クラス全体が見るようになったではないか。

 邦明が発見した時から5メートルほど横に移動した、それだけが今や自分だけが知る情報になった。


 邦明には、草むらの団体のほうがクラスの連中などよりも親近感を覚えはじめたところだ。自分の居場所はこのクラスや学校にではなく、もっと広い社会、国際的であるべきで、あれはもしかしたら国際的な団体かもしれぬと。


「あの人たちは何をしているんですか?」

 誰かがバスク先生に尋ねる。それは邦明も知りたいと思っていた。

 しかしこのバスク先生とはそれほど面識がなく、そもそも窓の外のよそ見について尋ねるよりも授業に集中したほうがいいのである。


「さあ、工事の測量かなにかかな?」

 どう見ても工事の作業着ではなかったが、まあ測量などは作業着でなくてもいいのかもしれない。

「事件かもしれない」

 とまた誰かがバスク先生に言う。

 おやおや、「事件」なんかがこの授業風景の、くだらない窓の外の景色で起きるとでも本気で思っているのかね?つまらないおしゃべりの周囲が最高にトレンディだと、どうしようもなく勘違いしている。


 バスク、その名を知る人は5〜6人しかいまい、そう邦明は思いながら学校から帰宅するところだった。邦明は、途中の酒場ロレーヌに入る。「駄菓子」を買う、という名目でこの酒場でしょっちゅう駄菓子を買う。飲酒したい、などと法に反したことを思わなくもなかったが、幼少時からここに出入りしているので、いまさら酒を買い始めるわけにもいかず。


 スナック菓子などを無意識に手にとり、酒のつまみのような売り場コーナーの前に立ってみたものの、酒類がならぶ冷蔵庫の方向へは、今までに一度も目をやった事はない。罪悪感がその冷蔵庫にある。金属的な冷たい色合い(冷蔵庫なのだが)によって客である邦明を突き放していた。


「バスク、バスクをよろしくお願いいたします」

 店の外からぼんやりと音声が聞こえる。バスクは選挙かなにかの立候補者で、町中にポスターが貼ってある。しかしニュータウンが寂れたような(何年代からあるのか誰も知らない)街にはほとんど誰もおらず、その選挙ポスターを誰かが見、さらに名前を覚えてもらう、という可能性がどれほどのものかは、そのへんの通行人からアンケートをとるわけにもいかず、選挙にもまるで関心がない。


 同じような無関心さで、どのような客がその冷蔵庫から毎日買っているのか、さっぱりわからない。うかつに冷蔵庫を開け、買う、その行為が客らとの共通点となって顔見知りになり、その日から街でヤツらと偶然道ですれちがう頻度が増える可能性は十分にあり、面倒であった。


 スナック菓子を、レジというか会計をする机にいるオヤジに持っていく。

 邦明は店の常連ではあるのだが、オヤジと会話らしいものをした事はない。

 オヤジは、ほとんどサングラスのような眼鏡をしており、目がどこを見ているのかサングラスごしには判別しにくい。それはむしろ客の「酒を買う」罪悪感を軽減させるべく、そんなサングラスのような眼鏡をかけて無言で会計をしているのにちがいなかった。


 オヤジは無言でスナック菓子の値段をレジに打ち込む。「二百なんとかゴールド」と言ったようだが、いつも無意識的に三百ゴールドを払って釣りをもらうので、実際にいくらだったかは全くよくわからない。

「バスクをどうぞよろしくお願いいたします」

 そう聞こえたが、オヤジが「二百なんとかゴールド」と言おうが「誰それを選挙の際はよろしくお願いいたします」と言おうが、全くふだんからのコミュニケーションに差し障りがなかった。


「バスクって名を知ってるか?」

 不意にそう質問すると、すぐにオヤジは

「ああ、彼は後輩ですよ、よろしく」

 と飄々と言ったあと、邦明の次の発言を待つかまえを見せている。


 驚いたのは邦明のほうで、バスクを知っている人間がおり、しかも先輩だという偶然。

「あんなヤツを知ってるんですか?」

 と不意に質問した。「あんなヤツ」といっても全く知らない他人なのだが、ポスターによって勝手な親近感がある。


 報道などで邪険に呼ばれている「バスク」とは、何なのか? その邪険な扱いから察するに、それは人名ではないのは明らかだった。


 肉のローストをたべながら邦明はそんなことを思索していた。店内のラジオから「バスク」というキーワードが聞こえたような気がしたからである。何の話題かは知らないが、確かにテレビでも「バスク」はキャスターによって反対すべき、忌むべき、あってはならない社会問題のように扱われていたのを邦明は思い出していた。それは何なのか? なに語? 人間か?


 家長的な、えらく支配的な言葉の響きを「バスク」に感じる。山賊とか強盗団とか、盗賊の長(おさ)の名のようでもある。またはテレビゲームに登場する、奇怪な忌むべき呪われたモンスターで、なぜ敵キャラなのかは出典もよくわからず、おそらく学問などの権威でもまともに研究する人はいないであろうポッと出の怪物バスク。


 「バスク」はそうした類いの、なにやら架空のものな気がしてきた。でなければ報道キャスターにあそこまで露骨に邪険な扱いは受けないはずだ。だが瓦版でつまらない風刺画を毎日ながめたり、広告の妙なサプリメントについて真剣に問い合わせる客層には通用している、半分ほどマジメなキーワードなのかもしれない。


 チャーハンを注文し、食べ終わると、金を払わずに店を出る。20メートルほど歩いたところで、気づいた店員が追いかけてきたので戦闘になる。店員の名はバスク。バスクを攻撃、バスクを倒した。「無銭チャーハン殺人」として半分ふざけたようなニュースとして小さく報道される。その次が「バスク」のニュース。バスクを殺人事件だと混同する人間もあらわれる始末。


 食い終わった皿を見つめながら、邦明はそう思索してみたものの、それでも「バスク」が何なのかの手がかりはつかめなかった。もともと知らないのであるから、急に「バスク」について「無銭チャーハン殺人」などを妄想したところでわかるようになるはずもなく。


 そもそも、どこでそれを知ったのか思い出せない。どこかの国の都市の、灰色か黄色っぽい空撮のような映像が「バスク」に付随している記憶にあったが、それはビルから撮った写真なのか、そもそも写真か CG か。あるいは風呂(バス)のなにかの CM か広告だったかもしれない。


 しかし風呂の CM だと仮定しても、キャスターがあからさまに「バスク」を失笑したり、数日におよぶ話題になるほど国民の関心が風呂事情にあるとも思えないのだが。


 それは瓦版で見た広告かもしれないが、瓦版は購読していない。知人が「バスク」について言っていたような記憶もあり、その知人が持っていた雑誌の広告だったかもしれない。「バスク」について得に何も意見を交わすこともなく、すぐ違う話題になったのではなかったか? そうでなければバスクが何なのかくらい知っているだろうからだ。


 邦明は眼鏡をかけようとしたままフレームを凝視して静止し、未消化のローストとチャーハンを吐いた。


 呑みすぎたリアムは、本能的に、深夜営業のディスカウントショップ等で油っ気などのキツい食べ物を買って、胃を酒以外のもので満たす必要性を感じた。それで二日酔いは回避できる。


 リアムのような若い女性が、深夜に食料コーナーを徘徊するのを怪訝そうに見てくる人間もおらず、2階や3階に登ってみたが、4階の時計売り場に男性店員が見えただけで、店内にはほとんど誰もいない状態だった。服コーナーの服に埋もれた、搬入通路のような狭い入り口をだれか店員が出入りしているような気もしたが、一般客にはよく察知できない。


 だからといって、万引きして逃げようものなら、ブザーが鳴り、どこからともなく騎士団が素早くやってくるような仕組みに違いなかった。そうでなければ、こんな無防備に深夜営業しているはずがない。リアムはそう思いながら4階の時計売り場から、目的の2階に食品コーナーにやってきた。


 食品コーナーには、1000ゴールド近くするものの単調な味の揚げ物が数十個入った商品ばかりが並んでいた。どれも売れ残りといった雰囲気で、新鮮さはなく、どこか乾涸びた印象。

 しかしリアムが求めているのは、とにかく胃を酒以外のもので満たす、油っ気の多そうな、なんでも良い食料だ。しかし1000ゴールドも出して買いたいかは予算になかったので、400ゴールドくらいで何かないかと探しまわった。


 展示の仕方が雑然としており、茶色い、単調な味の揚げ物ばかりが目に入ってくる。もっと本気で商品の山を押し分けてでも探すべきなのだが、たかが油っ気の多そうな何でもいい食品のために、本気で探すような気力はどうも湧いてこず。


 不意に、今年の干支は何だったかを考えた。大量の商品のパッケージの中に、なにかドラゴンを彷彿させるイラストがあったのかもしれないが、たんに食欲を誘発させるための異国的なパッケージだったかもしれない。リアムは、それがどの商品だったかを探そうとしたが、どれも似た茶色い揚げ物が大量に目に入ってくるばかりで、自分がどの売り場を歩いてきたかすら見失った。


 それよりも400ゴールド程度の何か油っ気のある食品を、さっさと探すべきだろう。リアムはそう思い直し、干支の描かれた(ような気がする)パッケージ探しを中止する。

「うまいと十回言って(中略)食べるんだ棒」などという長い商品名の食品が目にとまった。これなら200ゴールドくらい、いやもっと安いか。しかし長すぎるタイトルのために中身が全く見えない袋に入っており、どういう食品かがさっぱり予想できない。


 しかしリアムは、こういう路線のパッケージを探すと400ゴールド未満のものを探しやすいのではないかという感覚はつかんだ。大量の茶色い1000ゴールドの揚げ物の中から見分ける勘のようなものだ。


 数分後、それはまったくの誤った戦略だった事に気がついた。そういったタイプの食べ物では、胃にある酒に対して比重を稼ぐ事ができないのだ。1000ゴールドでもなく、「うまいと十回言って(中略)棒」のような路線でもない、とにかく油っ気の多い商品を探す方法はないのだろうか? ふと、店員に聞けばいいような気もしたが、そこまでして探す商品だとも思えず、人間のまったく居ない店内で途方にくれていた。


 7月中旬、ワニ肉コーラ製造業(略称ワニクォーラ)は、社員旅行で観光地にいた。社員のリアムは、とくにする事もなくタバコを買い、バス停のようなコンクリートの台に座って観光気分を持て余していた。


 観光客の団体がやかましく騒ぎながら写真を撮りあっている。リアムは、この団体のファッションが気になっていた。材質がビニールのような短パンに、サンダル履き、上はシャツだけで、あまり見慣れないサングラスをしている。

 観光地は日差しが強く、美容にサングラスは必須だろうが、しかし、短パンやシャツによって肌の露出度が必要以上に高い。


 リアムは、なにも肌の露出度がまぶしくて見ているのではなく、そのファッションが一昔前のテレビのなかで以来、いままで見た事もなく、当時の残党が目の前にいるとしても彼らは若いのである。


 若い人間というのは、最新のファッションでなくとも、その末端であれ今の時代に合ったものを着ているものではないか? 

 それは、ふだん若者とは接点がないことによる思い込みかもしれないが、それにしても目の前の団体のファッションが、世の中の発展とは全く断絶したシロモノであって、それは若さへの冒涜にも近い。


 「最近の若い者は、なっとらん」などと言うのは、その若者のカルチャーが異国かどこかからいきなり接ぎ木された、ルーツを持たない不自然な、不気味な侵略をたやすく受け入れてしまった異物として見えているのかもしれない。老人らに外国文化などが抜けていることから、若者が急に取り入れはじめた帽子やネックレスのようなもののルーツが不気味に断絶した、なにやら空虚な一時的な流行として映る。


 しかし、この団体のファッションは、一昔前のテレビからそのまま目のまえに電送されたものであり、見る角度によっては奇妙に見える髪型や、現代の基準でテレビ放映するにしては古すぎる雰囲気の若者らが、目の前に団体でいる。団体でいるという事は、それは文化として未だにあるのだろう。


 ワニ肉コーラ製造業(ワニクォーラ)は、ワニ肉とコーラを混ぜた炭酸飲料で、社長がワニがたくさんいる水場の茶色っぽい写真を見て思いつき企業した。もちろん味は、ワニがたくさんいる茶色な水場をイメージして調合されているわけではなかったが、ワニ肉の味と独自製法のコーラの何かの成分がなんらかでマッチして、ワニがたくさんいる水場の写真を見て連想する水の味である。


 ワニの危険なイメージと、本来は異国文化であるコーラとのコラボの結果、コーラが持っていた野生的なイメージを復古させたとして、全国コーラ振興会から評価された。


 もともと会社でコーラを作るための研究員だったリアムは、当初はワニ肉などといった、ルーツが自社周辺にあったわけではない食文化を、いきなり会社の商品ラインナップに加える事について猛反発をしたが、「コーラ」という半ば日常化した異文化も、それの発祥が外国かどこかなのかが全く意識されることなく、他社のコーラの味に似せる努力というかコピー品を作るための研究すらしていたのではなかったか?

 そう思い直すよう促されたリアムは、ワニ肉コーラというワニがたくさんいる水場のような茶色い炭酸飲料の開発に加わったのである。


 目の前にいた団体の観光客はとっくに視界からいなくなった。ほかの観光客も、ワニ肉コーラの存在など全く知らずに有名観光地を見物している様子だった。

 不意にリアムは、この観光地においてはワニ肉コーラの社員であることが、ルーツを持たぬ異世界からの旅行者か、それ以下の不自然さがあるように思えた。


「一昔前のブームに特有の、古さについて」

 気を抜くと、バスクは考えてもしょうがない事を考えるクセがあった。

 SNS にそう書いたものの、分析力も文章の構成力もないので、それでおしまい。


 バスクというのは本名ではなく、 SNS での名前らしかったが、そんなこと他人は知りようがない。バスクなどという、どうでもいい偽名を使うことも、彼のどうでもいい考えてもしょうがない事を考えてしまう性格の表れである。


 バスクの SNS のフォロワーの中に、某国の諜報機関員カニエケがいた。彼はまるで映画のような暗殺やミサイル攻撃を専門としており、彼を怒らせたりキレさせると危険にちがいなかった。

 そんなカニエケ氏は、いったいなぜバスクをフォローしているのであろうか?


 それは以前、バスクは外国人のツイッターアカウントを無差別にフォローしまくっており、その中にリアムという凶悪テロや凶悪犯罪、サイバーテロ、核兵器の開発を専門とする人物のアカウントがあったのだ。そしてあろうことかリアムもバスクを相互フォローしてしまった。


 リアムは別段、バスクの PC をハッキングするなどの目的はないようだ。

 それもそのはずで、 SNS は犯罪的な目的で使っているのではなかったし、この人ならアニメやゲームのツイートでもするだろうとフォローしたにすぎない。

 それはそうしたタイプの人への偏見かもしれないが、フォローする動機などその程度の認識だろう。アートだとか、食べ物かなにかを他人に期待してフォローする。


 リアムを諜報機関員カニエケは追っている。

 だから、彼の SNS の相互フォロワーもフォローする義務というか任務があり、バスクもフォローされる事となったのであった。


「昔の流行などどうでもいい」

 バスクはまたもや書き込みをした。しかしさっきからの考察が深まるでもなく、やはりそれでもう終わってしまった。諜報機関員カニエケは、そうしたバスクのどうしようもない発言に時折イライラするようになっていた。


 問題提起のツイートと、分析力とが全くつりあっていない。問題提起するだけで何も考えていないのが、諜報活動員でなくとも分析できる。


 SNS を見ている PC にはミサイル攻撃のスイッチがあり、それを押すことも辞さない気分になっていた。


「こいつバカだろ」

 その書き込みを読んだ時、みな、一瞬よく理解できなかった。カニエケさんは普段そういった過激な発言はしないのに加え、こういう誰に向けたかわからないような文を書かない。


「手の尽くしようがないね」

 カニエケさんは普段は

「仕事おわってビールのんでまーす」

「こんな試合は見たことない。みんなの熱気に圧倒されちゃった」

 といったふうな文を、日に5回くらいのペースで書き込んだりイヌの写真を載せたりしている。

それが今のように、過激な罵倒に近い文章を連投するカニエケさんを、誰も見た事がない。


「こいつら、どうやって生活してるんだろ」

 カニエケさんも、見苦しい書き込みをやわらげるためか「こいつら」と対象を広げ、特定人物への中傷ではないように気を使って書かざるをえない。


 そこへ

「まったくそうですよ、醜態を晒しつづけるほうが苦痛でしょう、もう消えてほしい」

 という誰かのレスポンスがついた。リアムの書き込みである。


 しかし、カニエケさんの意図を汲んでそう意見しているのか?

 リアムの意見は、便乗した、ただの悪口雑言を書き込んだだけでは?

 まだ誰へ向けたのかすら判然としないカニエケさんの意見を、己のストレスをただ発散するために利用したリアムこそ「消えてほしい」と、何人かは感じているのではないか。電流の通ってない安全な場所でピーチクパーチク言うだけで、各家庭に送電している電線に比べれば、それは全く無価値である。


 しかしそれは周囲の思い違いかもしれなかった。

「あ、リアムさん、こないだはごちそうさまでした。あのあとピクシーは大丈夫でしたか?」

 というカニエケさんのレスポンスがついたのである。何かを食べさせるほどの知り合いらしく、しかも話題についての返答が全くないことから、意思疎通で相互理解にまで及んでいるらしかった。我々はリアムさんに心のドアを開けざるえない。


 最近の「ピクシー」に足りないものは何か?それはニューロマンティックである、そう結論に至ったリアムは、町に一昔前からある美容室の前で店の中をのぞいていた。


 美容室の看板には、笑顔のニューロマンティック風な女性か男性のイラストが描かれてある。そして窓にはモヒカン状のくすんだ緑色の毛をしたマネキンの首が置かれてある。リアムは、入店していいものか迷った。入店するとポリス服を着たような人物にムチで叩かれやしないだろうか?


 しかし「ピクシー」の黄金期のようなマンガを描くためには、ニューロマンティックを見極める必要がある。そうでなければ、最近のすぐに打ち切られるような流れを絶つことはできない。もちろんリアムは「ピクシー」にマンガを持ち込むつもりなどはない。そうではなく、趣味で描いているマンガを「ピクシー」の黄金期のクオリティにしていきたいと願っているのだ。


 街に数件ある一昔前からある美容室をくまなく調べることにしたリアムは、また別の美容室の前にいた。「キャット」という名のその店は、シャッターが半分閉まっているが、入り口は開いているようだ。しかしそれは今や会員制か、たんに居住空間になっているのかもしれない。出入り口から一般人が入っていいものか?シャッターに描かれた黒いハサミのイラストが、さらに入店を思いとどまらせる。「アブない」という形容詞が、このイラスト経由で一昔前のニューロマンティックの刹那を伝える。


 たった数年の短期間に、美容室をはじめ「ピクシー」などに影響をもたらしたニューロマンティックとは一体なんだったのか?そんな深淵を目の前に、リアムは入店を保留し、次の美容室へ向かった。


「ゴブリン」という名の美容室は営業中のようだった。なんのためらいもなく入店すると、奥の暗がりから店員が出てくる。どうやら客はおらず、店を観察したりイスで雑誌を読むことなく、すぐに髪の毛を切られようとしているのが店員のしぐさや表情からわかる。しかしリアムは店内をしばらく観察することにした。


 店内にはシャンプーなどのポスターがあり、これもニューロマンティックな女性の写真が主流。都会の美容室ではこういうポスターはまず見た事がなく、ニューロマンティックという古く濁った水に住みつづける人種と、そうじゃない都会の人種とが、並行世界のように交わることなく業界を形成しているのだろうか。それとも全く異業種なのであろうか。


 店員はリアムをずっと見ていたが、自分の店を見定められている様子なので、何も言わずにいた。もし都会の人種であれば、カットせずに無言電話のように出て行く。しかしリアムは待合のイスに座り、雑誌を読み始める。


 「また失敗だ」

 

 芝生に白いカーブを描いて「おにぎりジョーンズ」のおにぎりがバスケットに投げ入れられる。バスケットの中にはおにぎりが6個ほど丁寧に並んでおり、それは外国ではやや珍しいものの、昼食かなにかの支度中の風景に見える。しかしそれらは、おにぎりジョーンズの失敗作らしかった。


 おにぎりジョーンズは広大な庭の芝生に立ちながら地平線を見ている。おにぎりジョーンズの目は、今ここではないどこかを見ようと真剣だった。しかし、おにぎり発祥の地である異国や異世界を幻視しているわけでもないようだった。


 おにぎりジョーンズは、おにぎりを上手に作る作り手として全国で有名であり、彼のフィギュアが売られ、伝記が「ピクシー」で連載されているほどであった。しかし彼はどうも自分のおにぎりに自信がない、というあらぬ噂も全国にインターネット経由で知れ渡っており、ネットでそれを読んだおにぎりジョーンズは、本当に自信をなくしてしまった。


「畜生め、俺のおにぎりの何が駄目だというんだ?」

 おにぎりジョーンズのおにぎりを客観的に評価してくれたのは、友人のボギーであった。ボギーはもちろん、おにぎりなど食べたことも、見たことすらない。


 おにぎりジョーンズは、最初は白飯を手で固め、それを大量に売るビジネスがメディアで紹介され、またたくまに人気の握り手になった。たかだか一日で作れるおにぎり個数には限度があるので、実際に食べた客は60人程度だったが。


 おにぎりジョーンズは再びにぎってみたが、また気にいらない様子で、5メートル先のバスケットに投げ入れ、おにぎりが増えていく。彼自身は気がつかないが、おにぎりを正確にバスケットに投げ入れ、しかもそれが奇麗に並びそろう技能はたいしたものだ。


 スローモーションで芝生の上を白いおにぎりが弧を描いてバスケットに入る。もちろんスローモーションはおにぎりジョーンズの技能ではなく、ビデオでスローモーションで再生するとそのように見える。隠しカメラを4台設置し、本人には知らせず、おにぎりジョーンズの様子をボギーは監視している。


 ただボギーは彼がスランプに陥っている事などまるで見抜けず、おにぎりジョーンズがおにぎりを作ってはバスケットに投げ入れる行動をスローモーションで観察しているだけだった。

 おにぎりは、たんに三角に固めればよく、まさかスランプが存在するなどボギーは思わない。インターネットでおにぎりジョーンズを誹謗中傷をしたい人間はいろいろ書くかもしれないが、有名人であるおにぎりジョーンズにはその辺のスルースキルくらいあり、なければこんな事で有名になるべきでない、とも考えていた。


 おにぎりジョーンズは8個目のおにぎりを作り、それも気に入らず、空に向かって叫ぶ。しかし残念ながら隠しカメラには音声を収録する機能はついておらず、その声はボギーには決して届かないのだった。


 ワニ肉コーラ製造業(ワニクォーラ)社長であるボギーは、イノベーションにはチームワークなどよりも社内の厳格な上下関係や、ほとんど因習のようなマナーが必須である、と昼休みにイスでひとり考えていた。なぜならそれによって駆け引きが生まれ、ギスギスした上下関係からこそ誰にも思いつかなかった新しいアイデアが生まれる(ボギーの発想であり、筆者のものではない)。


 昼休みが終わると、ボギーはさっそく会議室に数名の重役を呼び集めた。

 彼ら重役同士は全く面識がなく、人づてにそれぞれがイヤな奴であり、会社にとってマイナスであるらしいというような噂だけは聞かされていた。


 ボギーは「我が社はイノベーションを必要としている、なんでもいい、新しいアイデアを諸君から募集する」とは言わず、会議室のイスに重役らを座らせ、無言のまま数分経過していた。


 昼休みを終えたばかりの重役らは、なぜ呼ばれたのかさっぱり検討がつかず、会社が倒産とか、そんな話かもしれないと社長の発言を待っていた。壁にかかった時計の秒針の音だけが聞こえる、といった音もなく、壁には時計がないので何分経過したのか、それぞれチラチラと腕時計を見ていた。


 いきなり重役のひとりが「おもしろダックスフンド」という、イヌではないが玩具であるらしい何かのアイデアを述べた。彼はこの「おもしろダックスフンド」について何十年か考えていたが、それが具体的にどういったモノなのか漠然としたまま、ここで初めて会議室の発言として社長らに聞かれる事となった。


「おもしろダックスフンド」のあと、ほかの重役が負けじと

「おはなしアヒル」というアイデアを出してきた。さきほどのアイデアをすぐさまマネたもののように思われたが、その場の者には全く新たなアイデアのように思われており、「おもしろダックスフンド」と「おはなしアヒル」がイノベーションの候補として社のビジョンに補充される事になった。


 小動物、つまりコンパクトでありながら、ワンタッチで愉快な体験ができる商品、そんな感じが最近のイノベーションなのだろう。もちろんその場の誰一人としてイノベーションだのは一切考えていなかったが。


「おもしろダックスフンドと、おはなしアヒルが出たわけだが、他にないかね?」

 しばらくそれぞれが思案する沈黙が続いたが、アイデアは出ない。


「おはなしアヒルがいいと思います」

 と「おはなしアヒル」発案者が唐突に言った。

「おもしろダックスフンド」発案者も、何十年も考えたにせよ具体的になにもなかったので、この「おはなしアヒル」になにか具体案があるのではないかと期待していた。むしろ「おはなしアヒル」がそのまま企画として通ってしまうような勢いに身を任せている。


「おはなしアヒルとはいったいどういう企画なのかね?」

「アヒルのぬいぐるみの中に、水が入っておりまして、それを電力で沸騰させることでブクブクブク、ブクブクブク、ブクブクブクという発話が聞こえるという玩具であります」

 と簡潔に答えた。

 なるほど、これは「おもしろダックスフンド」などよりもアヒルが話す具体的な動作がシンプルに実現できるではないか。これこそイノベーションである。


 しかしボギーにとってイノベーションとは前述の通り、ギスギスした社内の競争から生まれるという信念を持っていたので、「おもしろダックスフンド」発案者にその「おはなしアヒル」と全く同じメカニズムの玩具を作るよう命令し、「おはなしアヒル」はボツ案になってしまった。

 水を電池で沸騰させ、なおかつダックスフンドとして「ブクブクブク」など発話させるのでは、イノベーションでも何でもなくなってしまうのだが。


 自由の女神に酷似した人形を、海外みやげにもらう。50センチほどの大きさで、こんなものを海外から持ち帰ったことが疑わしいほどの重さの、陶器の人形。

 自由の女神にしてはポーズをとっておらず、ズボンのようなものを履き、ところどころに革ジャンの鋲のような突起がある。

「これ、なんの人形?」と聞くタイミングもなく、また海外に行ってしまった。


 大学では、1+1=2ではないのを学ぶ。邦明はそう学校で聞いたことがある。

それが誰が言ったかは30歳になった邦明には記憶がおぼろげで、確か、数学の教師の発言だったが、数学の教師が高校生に1+1=2ではないと教育するのは問題ではないだろうか。むしろ現代はなんでもかんでも問題視しすぎだろう。しかし1+1=2ではないという問題は無視できない。


 そんな事を考えながら、親友の(20代からの親友で高校時代には他人)ジョーンズと酒場ロレーヌで甘い何かを飲みながら、窓の外に見える信号機の横顔のようなものを眺めていた。

 しかしながら信号機は、いつのまにか薄いタイプの最新技術のものに全てが取り替えられた。もちろんずっと前からそれは認識しているが、邦明の世代には、薄いタイプの信号機を見るたびにそれを再認識してしまうのだった。薄いタイプの信号機は、昔の奥行きのある信号機に比べて、どうも横顔のようなものブサイクだからだろうか。昔の人は「薄さ」を想定して信号機を発明しなかっただろうから、どうも「薄さ」と「信号機の発明」とのイノベーションの均衡が未だとれていないのでは、と。


 親友のジョーンズは、おにぎりをやたら時間かけながら食べている様子だった。親友といっても、もはや会話がはずむムードではなく、テレパシーかなにかによって黙って長時間いることが可能になっていた。ジョーンズは食べるのと、メモ帳に持参のペンで落書きをするのとを交互にやっている。電話中に描くような意味のない象形を描いては、また新しい象形を描いている。


 邦明は、窓の外の薄い信号機が赤や青になるのを交互に繰り返す横顔のようなものを見ている。ふと、薄い信号機の赤と青が、邦明とジョーンズとの関係性に非常に似ているのではないかと思い始めた。

 それは禅問答のようでとくに意味はないのだが、そう思わざるえないような不思議な納得があった。薄い信号機の赤と青は、その薄さというイノベーションとは無関係に、大昔に外国かどこかで信号として発明された時から惰性で続いている赤と青という記号である。


 そして1+1=2ではないように、信号の赤と青を足しても、それは紫ではなく赤と青の信号にしかならないのだ。つまり1+1=2ではなく依然として1である。


 邦明とジョーンズの関係も、1+1=2ではなく、信号の赤と青の関係に似ているのかもしれない。

「まったくそのとおりだ」

 と言ってくれる大学の教授(1+1=2ではないのを教える)が第三者として判定でもしないかぎり、邦明とジョーンズの関係性が本当に1+1=2ではなく1のままなのかは、わからない。そう結論するに至るほど、お互いのキャラは強力なものではないからだ。もっとマンガやドラマのような2人組であるなら、その答えはすぐさま出るのだろうが。


 そこに突然、体育教師バスクが、酒場へ入ってきて隣の席に座った。

「こんにちは」

 バスクは、邦明の知り合いであり、高校の体育教師をしているらしい。しかも生徒指導の会長のような重役でもあるらしかった。初老の男だが体格の良く、チョビ髭がトレードマークのためか、生徒らからは恐れられていた。彼にタバコの現場を見つかって退学になった生徒もいた。

「こんにちは」

 そう会釈して、再び窓の外の信号機を見る。体育教師バスクはメニューを見ながら食べるものを選んでいるからだ。できれば選び終わらずメニューでも見ながら、こちらには介入してほしくない。


 邦明とジョーンズの「薄い」関係性に、体育教師バスクは明らかに強烈で場違いなポテンシャルを決定的にもたらすだろう。体育教師バスクは、チョビ髭がトレードマークの海軍指揮官か船長を彷彿させ、一度会えば決して忘れることのできない風貌だった。邦明が体育教師バスクと知り合いなのは、たったそれだけの理由なのかもしれない。

 ひやかしに両者のなれそめなどを聞けば、厳格な海軍指揮官のごとき体育教師バスクが、どんな拒絶反応や癇癪を起すかわかったものではない。彼はタバコをやっていた学生を退学させた事すらあり、その血痕のついたタバコや武器とか生首がまだ校庭に転がっているそうだ。


 外の信号の赤と青を眺めながら、ジョーンズは「お二人はいつ知り合ったんですか?」

 とぶしつけに質問してしまった。まだ体育教師バスクはメニューをずっと見ており、その質問が自分に向けられたものとは思っていないようだった。


 邦明は、今日も庭でエサを手で高い位置へ上げることにより、あたかもイヌに二足歩行をさせているようだった。この世界の名称である「足立ガルド」とは何の足が立っているのだろうか? それをマトモに考えた住民は、いないこともなく、調べればわかるはずだが、住民の96%は無意識下でそういうことを調べるのも下らないと思っていたので、誰ひとり足立ガルドの意味を知る者はいなかった。


 イヌは、エサ欲しさに二足歩行のような状態で立ち上がる。これが「足立」だ。しかし本当にそうだろうか?「二足歩行」で検索すれば、二足歩行ロボットの写真が「目立」つ。二足歩行をするイヌの写真は0、皆無だ。つまり二足歩行をするイヌというのは実在せず、いたとしても二足歩行ロボット学会によって「それは二足歩行ではない」といった判定をされる。あなたも、イヌのロボットがイヌの範囲内で二足歩行をしたあとすぐに四足歩行にベタっと戻れば、そういうのは二足歩行ロボットではないと判定するはずだ。


 ではいったい「足立」は何が二足歩行をしているのか?「足立ガルド」という地名になった時代には、まだ二足歩行ロボットは世の中に一体も存在しない。その時代の二足歩行ロボットはブリキとかベニヤ板で作られた、今でいう顔出しパネルをロボットと呼んでいたであろう。顔出しパネルは中世からあったが、それはまだ騎士や妖精にはロボットとは呼ばれなかった。


 足立ガルドは神々によってその名称がつけられた。おそらくマンガやテレビの影響で「足立」というネーミングが陽気な下町やラーメン屋などをイメージさせるということで、そういう名がついたのだ。しかし、今となっては「足立ガルド」つまりこの世界の何が陽気な下町やラーメン屋なのか、はたまたそれが面白いのかどうかすら、もう感覚的にはわからなくなっている。それは昔の音楽が、当時の人々以外には全く理解できない音楽であるのと同じである。


 邦明は、イヌがエサをもらおうと二足歩行する様子をカメラに撮り、インターネットのブログに掲載することによって「足立」の画像検索結果にそのイヌの二足歩行の画像がズラッと並ぶのを期待した。しかし何ヶ月続けてもイヌの二足歩行の画像は「足立」にはひっかからない。


 半ば諦めていたところ、最近、庭にニワトリが出入りするようになったのだ。

 邦明はいままでにニワトリを見た事がなく、それが何なのかわからなかったが、二足歩行する生き物であり、イヌと比較すると、その「足立」の生物のほうが遥かに二足歩行を極めており、二足歩行をするために生まれたかのような動きを見せているではないか。


 二足歩行ロボット学会が、ニワトリを「二足歩行である」と公認しているのをインターネットで知った邦明は、さっそくニワトリの写真をブログに載せ「これが二足歩行をする生物である」というキャプションのニワトリの写真ばかり載せる。それまでイヌのブログであったのがウソだったようにニワトリ一色のブログになり果てたので、ブログ読者の95%は読まなくなってしまったが、これで「足立」の検索ワードにひっかかるようになれば、イヌ目当ての読者をどれだけ失おうが検索から何万人も訪問してくるようになる。

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