No.10 透す向こうの異世界譚 作者:月並海 さん

「それどういう意味ですか!?」

 俺は思わず声を荒げ机を叩いた。その瞬間までざわざわと忙しかった編集部が静寂に包まれる。

「お、落ち着いてください。かがり先生」

 目の前に座る後藤君が抑えた声で俺をなだめようとしている。掌を下に向けたまま両手が宙を彷徨っていて、いつもクールな彼に似合わず慌ててるな、と沸騰した頭の端で分析した。

 パーテーションで区切られた打ち合わせスペースの前を人が通るたびに、何か危ないものを見るような視線が俺たちに注がれる。きっと奴らの中では大声をあげた俺が悪者になっているんだろう。

 クソが、と口の中で毒づいて俺は硬い座面に座りなおした。

「で、もう一回言ってもらえますか」

 担当作家が自分の不用意な一言で怒ったことに、彼は顔を青くしている。困惑と焦りで視線が定まらないさまを俺はじっと睨みつけた。

「えっとですね、その、悪い意味ではなくてですね」

 口を開いたと思ったら、今度は自己弁護のためのセリフが飛び出す。反射的に眉間にしわを寄せた。

「かがり火先生のキャラは、もっと執着があっていいと思うんです」

 と、後藤君は俺が大声をあげる直前に言ったのと同じ言葉を並べる。

「すみませんが、もう少し具体的にお願いできますか。後藤君の感覚だけで言われても困るんで」

 俺が不機嫌さを隠そうともせず足を組みなおすと、自信なさげな瞳が彼の足元に向けられた。

 今日は次の新作に向けて打ち合わせをするために編集部へ来ていた。少年誌の連載作品は入れ替わりが激しい。人気があったSFを数年連載していたが、先月ついに最終回を迎えた。それで、俺たちは次の連載に向けてアイディア出しをしているところだった。

 後藤君は去年の冬から担当になった新米編集者だ。なんでも希望して俺の担当になったらしい。殊勝な人間もいるもんだ、とまっさらなスーツで挨拶に来た彼を見ながら考えたことを覚えている。

 後藤君は概ね優秀な編集だった。読者の需要を捉えた言葉選び、王道になりすぎない展開、綿密なスケジュール管理。理性的な態度でサポートしてくれる後藤君は、理詰めで漫画を描く俺とは相性が良かった。しかしながら、普段の彼らしくもなく、時折感覚で物を言っているとしか思えないような指摘を飛ばしてくることがある。そのたびに俺は自分の作品を適当に批判されたような不快感を覚えるのだ。今回もその類である。

 後藤君は下を向いたままだった。言葉を選んでいるのだと思ったから、腕を組んで大人しく待つ。

 打ち合わせスペースの前を通った人間が五人目を数えた頃、ようやく彼は顔を上げた。生真面目な瞳が俺の顔を見つめた。

「率直に言わせていただきますと、先生のキャラはお話を進めるのに必要な役割を全うしているように読めてしまうんです」

 その言葉で俺の怒りはピークに達した。頭の中にある怒りの導火線に火がついて、沸騰したように血管がどくどくと脈打ってるのがわかる。

 漫画は、俺の人生そのものだ。今時はワークライフバランスなんて言葉が流行ってるらしいが、そんなものは俺には一切関係ない。目覚めている時間すべてを漫画に掛けている。漫画に描くものはすべて俺自身に等しいと考えているし、作品で一人でも多くの人を楽しませるのが俺の使命だと信じている。そんなふうに作った作品を編集者風情、ましてや漫画のまの字もわかってないような新人にケチつけられるなんて許せない。

 …………いや、頭では理解している。俺は、キャラクターを自分が構成したストーリーに合わせて、最適な行動を取る駒としてしか動かせない。『キャラクターに自我がない』と、これまで書評でも散々指摘されてきたことだし、何より自分でそのことは感じている。

だが、目の前の新米編集者はこれまでのどんな書評よりも的確に、俺の弱点を炙り出してくる。そのことがたまらなく俺のプライドを踏みにじった。

 叫びだしたい衝動を、ぐっと腹筋に力を入れて押さえつける。口を開かないように唇の内側の柔らかいところを力いっぱい噛んだら、血の味が口の中に充満した。

 馬鹿にしてるんですか、と出かかった言葉をすんでのところで飲み込めたのは、目の前の男が至極真面目で誠実な顔をしていたからだ。

 行き場がないせいで身体の中を暴れまわる熱を、深呼吸で逃がしてやる。

「そのネームのどのあたりでキャラが役割的になっているか教えてもらえますか」

 問いかけに後藤君ははっとして、次回作のネーム三話分を丁寧にめくった。

 次回作は王道のファンタジーにするつもりだった。主人公は国教の神から天啓を受けて、勇者となり魔王を倒すべく旅をするというのが大まかなストーリーである。

 一話で主人公は勇者に選ばれ、王都に向かうことを決める。二話、三話では道中の村で新しい仲間を迎える流れだ。

 よくあるストーリー展開だからこそ、展開についてもっとアドバイスがあると思っていたのに。まさか、何も悩まなかったキャラに注文が付くとは。

 紙をめくる音を聞きながら、後藤君の次のアクションを待っていた。不意に動きが止まり、彼はネームを俺が見えるように広げた。

「例えばここ。ヴィクトーは幼い頃からずっとリザのことが好きなんですよね? でもリザが勇者に着いていくと決めたとき、ずっと笑顔です。あまりに聞き分けがよすぎる気がするんです。村長の孫で村を離れることができない境遇を割り切っていたとしても、悔しがる素振りや悲しみを押し殺す描写があってもいいんじゃないでしょうか。それから、勇者が大蛇の魔物からリザを助けるシーン。構図やコマ割りはめちゃくちゃカッコよくて流石かがり火先生という感じなのですが、ここでの会話もあっさりしていて、次の宴のシーンでリザが勇者に好意を抱いているというのが唐突に感じられてしまいます。そりゃあ、年頃の女の子だしフィクションなんだから一目ぼれくらいあるでしょと言いたくなるんですが、折角メインキャラの出会いのお話なんですから、もう少しキャラ自体を掘り下げてもいいんじゃないかと僕は思います」

 こちらが口をはさむ暇もなく後藤君は整然と考えを述べた。

 予想外の彼の圧にたじろぎながら俺は指摘箇所を読む。やっと冷静になって思うのは、彼の指摘が俺の弱みを的確に言い当てていることだった。俺自身、特別にキャラに思い入れを持つ作家ではない。そりゃあ、長い間書き続けていれば愛着は湧くし、ちゃんと最後まで彼らの物語を書き上げてあげたいと強く思う。けれども、ストーリーの外で彼らの生活や心情を考えるほどではない。その深みの無さが後藤君や書評の批判する『役割を全うするだけのキャラ』なんだろう。

 数年漫画を描いているくせに未だ改善の兆しを見せない弱点に俺は頭を抱えた。ネームを下敷きにして、机に額を押し付ける。「かがり火先生!? 大丈夫ですか?」と慌てた声が後頭部の上を通過した。

「先生……? 体調悪いですか? タクシーお呼びしましょうか?」

 後藤君があんまりに心配した調子で呼ぶので、俺はのそりと上体を起こす。そうして、今しがたまとめた気持ちを口に出す。

「もう少し、練ってみたいと思います」

 そう言うと、後藤君はやっと緊張から解き放たれたように表情を緩めた。

「はい、よろしくお願いいたします。前作の単行本の発売もあるのでもう少しスケジュールに余裕はあると思います」

 立ち上がった後藤君はそう言って、机に頭が付きそうなほど深く頭を下げた。俺はそれに軽く返事をして、やり直しになったネームを片手に打ち合わせブースを出る。

 気まずいだろうに後藤君はエレベーターの中までついてきた。いつも通り出口まで見送ってくれるのだろう。二人きりの空間に重い沈黙が流れる。

──俺の作品に足りないのって、なんなんだろ。

 どんどん減る階数を示した数字を見ながら、前にいる彼に言われたことを考える。ストーリーや台詞はわりとすぐに思いつく方だが、キャラの掘り下げについてはちょっとやそっとじゃ解決しそうにない。

 地上に到着したエレベーターから降りて、自動ドアを抜ける。適当なところで声がかかるかと思ったが、予想外に後藤君は会社の外にまで着いてきた。

 もういいだろ、一人にしてくれよ。しびれを切らした俺が振り返って口を開いた。

「あのさ、もう」

 そのときだった。

「っ、先生危ないっ!」

「はっ?」

 愕然とした表情と言葉に顔を動かす。

 眼前に迫りくるトラックに対して、俺に成すすべはなく、ただ後藤君を力いっぱい押すことしか出来なかった。


***


 爽やかな風に頬を撫でられる心地がした。窓を開けたままで寝たっけな、と瞼を閉じたまま考える。やけに身体も頭も重い。風邪でもひいたんだろうか、と考えたとき背中の感触がベッドにしては硬すぎることに気が付いた。ついでに強い草の匂いがする。三年住んでいるマンションの十四階でこんな匂い、一度も嗅いだことはない。

「なあなあ、おじさん大丈夫か?」

 少年の声がして勢いよく身体を起こした。

 次の瞬間、自分はまだ夢の中にいると思った。

 目の前には、森が広がっているのだった。

 明らかに日本の雑木林や山、竹林ではない。似たような見た目の針葉樹がひしめき、昼間でも薄暗く、時折聞いたことのない鳥の鳴き声がする。俺が寝転がっていたのは、人が通るために整備された道のようだった。

「おじさん、だいぶ上等な格好してるけどもしかして王都から来た人?」

 上等な格好? と自分の着ているものを見れば、昨日編集部に行ったままのシャツとスラックス、革靴だった。自分の姿に記憶との違和感はない。おかしいのはこの状況だ。

 自分が置かれた状況を理解できず、周囲を見回す俺に少年が再度訪ねてきた。

 そして、俺はもう一度己の頭と目を疑った。

 こげ茶色の髪に翡翠色の瞳、控えめなボーイソプラノから想像したよりも強い意志を感じさせる面立ち、上半身を覆うマントと見ただけで薄い布だとがわかるぼろいズボン。そして、頭の上からは、背負われた巨大な聖剣せいけんが顔を出す。

 少年の見た目は、頭のてっぺんからつま先まで全て、俺の次回作の主人公である勇者そのものだった。

「お、まえ」

「ん? 俺の事知ってるの?」

 不思議そうに俺を見つめる瞳が陽光を受けて輝いた。その宝石のごとき瞳は間違いなく日本人のものではない。

 俺は深呼吸をして寝る前のことを整理する。昨日は、編集部に行ってネームのやり直しをくらって、それから……。

 そこまで考えて、俺は急速に全身の血の気が引くのを感じた。

 俺は、死んだはずだ。出版社を出た直後にトラックに跳ね飛ばされて。跳ねられた瞬間の景色や痛みは覚えていないから即死だったんだろう。ということは、ここは死後の世界か走馬灯、あるいは夢の一種か何かだろうか。

 死んだっていうのに自分の描いた漫画の世界にいるなんて漫画大好きかよ、と苦笑する。

 身体に痛みはなかった。そもそも今がどういう状況かも分からない。このまま自分で考えても埒が明かないから、俺の顔の前で掌を振る少年にこの状況について尋ねることにした。

「お前、名前は」

「俺? 俺は勇者のネロ」

「じゃあ勇者君、どうして俺を見つけた?」

「おかしなこと尋ねるんだね、俺が王都に行くために森に入ったらおじさんが道の真ん中ですやすや眠ってたんだよ」

「なるほど……。では、ここはどこだ」

「セウォールの端にあるリノアの森。おじさんは王都から国境を超えるためにここに来たんじゃないの?」

「俺は……」

 勇者の名前も、地理についてもネームで考えた通りだ。

 驚くほど自分で考えた設定と合致したこの場所は明らかに日本ではないのに、なぜか日本語は通じる。そして、よくあるファンタジー作品に出てくるような彼の見た目。考えたくはないが、どうやら本当に自分の考えた物語の世界にトリップしてしまったらしい。

 思考の容量は既にオーバーしているが、動かなければ自分がこのまま生きていける保証はない。確かこの森にも魔物はいたはずだ。だとすれば、身を守る術は1つしかない。

 頭の中で再構成した自分の設定を勇者に説明する。

「俺は、隣国の役人だ。セウォールの王都に重要な伝言を届けるためにこの森に入ったのだが、魔物に襲われてしまい荷物を全て奪われてしまった。だから、俺を勇者君の旅に同行させてもらえないだろうか?」

「役人か! それは災難だったな、俺で良ければ一緒に行こう」

 すらすらと並べられた真っ赤な嘘を、勇者は少しも疑う素振りも見せずに信用した。

 ここはファンタジー世界だし彼は勇者。ましてや男一人旅とはいえ、もう少し用心深さがあっても良かったか、と差し伸べられた勇者の手を取りながら考える。立ち上がって横に並ぶと、

「役人さんのことはなんて呼べばいい?」

 と尋ねられた。本名である加賀かが理人りひとを告げそうになったところで、自分の作品のキャラに本名で呼ばれることに何となく気恥ずかしさを感じた。

「かがり火、と呼んでくれ」

「よろしく、カガリビ! 王都はあっちだ!」

 勇者は声高らかに俺の名前を繰り返すと、太陽のある方へと歩き始めた。


 聖剣が背負われた勇者の背中を追いかけて、不慣れな森の中を進む。たびたび魔物のような、あるいは獣のような足音や鳴き声がしたが、勇者君の的確な判断で事なきを得た。そうしてまもなく日も暮れようという頃、ようやく俺たちは森を抜けることができた。

「はぁ、はぁ」

 俺はすっかり疲れ果てていた。運動不足の現代人にいきなりこの運動量はきつすぎる。汗は頬を流れ落ち、膝は疲労でガクガクと震える。もう今日はこれ以上歩きたくない。

「大丈夫かカガリビ?」

「いや……、正直もう今日は進めない気がする」

 俺とは対照的にエネルギッシュな勇者は、俺の様子を伺うと「んー」と悩むような声を出す。

「役人さんは体力ないんだなあ。俺がおぶってやりたいけど聖剣があるし……、今日はここらへんで野宿をしようか」

「はっ? 野宿? 断固拒否なんだが」

 周囲は次第に夜になろうとしていた。凍えるようほど寒い季節ではないから、最悪の場合には野宿ということも考えないではないが、昼間と比べて明らかに魔物の声が活発に聞こえる森の近くで寝るなんて考えられない。それに、ファンタジーの世界とはいえ、虫は普通にいるだろうし。描いてないけど、なんか常識的に。

「そんなこと言ったってカガリビがもう歩けないって言うんだからしょうがないだろー! どっか村か町でもあればいいけど」

 村か町。不満げな勇者の言葉を聞いて俺は思い出した。ネームの通りなら、きっとあるはずだ。

「ここからもう少し歩いたら、カイウーいう名前の村があるはずだ。今日はそこで休ませてもらおう」

「カイウー村か、いいぞ。で、どっちの方向だ?」

 方向? そんなことまで考慮して描いてねえよ。ネーム通りならお前は暗くなる前に村に着いて、今頃は村人から歓迎されてるはずなんだから。

 文句は喉元まで上がったが、俺に合わせていたからこその遅れだと思うとそんな言葉も口に出せない。そもそも予言者でもないのにこんなことを言ったら怪しがられる。

「お前はこの後どっちに向かおうとしていた?」

「俺? 俺はあっちだけど」

「よしじゃあそっちに村はある」

「はぁ? ちょっとよくわかんないよカガリビ!」

 勇者君が示した方に早速歩き始める。困惑した彼が大声を発したが振り返る元気もない。今はただただ早く清潔なベッドで眠りにつきたかった。


 予想通り、カイウー村はあった。森から二時間離れたところに。

 夜はすっかり更けていて吹く風は冷たさを増している。森からの距離なんて考えてもいなかったが、これは俺の描いた世界だから俺の脳内で決められた距離なんだろう。こみ上げてきた怒りのやり場を探したが、今はそれを吐き出す余裕もない。

 カイウー村は木の杭で出来た塀で囲まれており、俺たちは唯一の門の前に立っていた。門の上に位置するやぐらに向かって叫ぶよう、勇者に言う。

「別にいいけど、こういうときは役人さんの方が話が通りやすかったりするもんじゃないの?」

「いいから早く」

 そもそも彼一人で話が進むようにネームを描いたんだから、俺が手出しすることなんてない。俺はこの夢が覚めるのを待つだけ。ここが死後の世界だと言うなら、魔物に襲われる心配がない王都に行ってから身の振り方を考えればいい。そもそも勇者が王都に行くまでのストーリーはまだ考えていなかったからたどり着けるのか怪しいが。

 勇者がうるさいくらいに通る声で上へ声をかけた。

「誰かいるかー? 俺たちを一晩泊めてくれないか?」

 すると、見張り番がぬっとやぐらの奥から姿を現した。俺たちを一瞥すると、今度は門がゆっくりと開き始める。

 出てきたのは壮年の男たちが数人。確か村の見張り番だったはずだ。明らかに怪しげな二人組に対して警戒心はむき出しである。手に持っている槍は構えこそしないものの、いつでも使えるように携えられていた。

「何者だ」

 端的に発せられた問いに勇者が答えた。

「俺は勇者のネロ。魔王討伐のために王都に行く旅をしている。彼は隣国の役人のカガリビ、彼も王都に行くところだ」

 勇者? と男たちがざわめき立つ。何人かが村の奥へ走って行ったからもうすぐ話も進展するだろう。

 しばらく様子を見ていると、老人と年若い青年が見張りの男たちに先導されてやってきた。

 白いひげをたくわえた老人が俺たちを凝視する。そして、重々しい声色で話し始めた。

「聖剣の方をお見せいただけますかな?」

「おういいぜ」

 勇者は軽い調子で背後の柄を掴むと、その巨大な剣身を皆の前に披露した。

 どこからともなくほうっと感嘆の声が聞こえた。それもそのはずだ。この剣は天啓とともに魔王討伐のための武器として、神が勇者に与えた唯一無二のものだからだ。星明りでも煌めく美しさと普通はお目にかかれない規格外の大きさ。それを年端のいかない男の子が持つというのは、主人公として強いアイデンティティになると思っていた。

 自分の考えた設定が上手く活きていることにほくそ笑む。

「まさしくこれは伝説に登場する魔封じの聖剣です。わが村へようこそ勇者様、歓迎いたします」

「良かったなカガリビ! 歓迎してくれるってよ!」

「……いいんですか?」

 勇者の言葉を聞いてから俺は確認のために、村人たちの方へ問いかける。

 すると、白いひげの老人──村長が口を開いた。

「天啓があり東の村の若者が勇者に選ばれたという話は、私どもも聞き及んでおります。聖剣を携えているのがその印、勇者様もそのお連れ様も無下に扱うわけにはいきません」

 どうやら俺は勇者のおかげで屋根のあるところで眠れるらしい。自分の功績をよく分かっていない彼を心の中で拝む。

 村長が話し終わると今度は青年が前に一歩進み出でた。

「勇者御一行様、僕は村長の孫のヴィクトーと申します。村に滞在している間に何かあれば、僕にお申し付けください。早速ですが泊まる家について、」

 ──彼が出てきたということは、次はあのシーンか。

「ぜひわたしのうちに泊まってください!」

 ヴィクトーの話と俺の期待に被さるように飛んできた声のもとに全員の視線が集まった。

 声の主は俺の期待していた人物だった。

 村長たちがやってきた方から長いスカートと栗色の髪を揺らして走ってきた少女は、村人たちの横を駆け抜け俺たちの目の前に来た。

 赤い頬に満面の笑みを浮かべる彼女こそが、のちに勇者の仲間となるリザだ。

 ここは、リザと勇者の邂逅のシーンである。村の外に興味があるリザが勇者を自分の家に招こうとするが、母親と村長の反対により勇者は一日目は村長たちの家に泊まる。

 けれど、翌日に勇者が大蛇の魔物からリザを救ったことで二人は親しくなり、リザは勇者とともに旅を始める、というのが二、三話の流れだ。──そして、俺が後藤君に文句をつけられた話でもある。

「こらリザ、夜に一人で家を出ては叱られるよ」

 突然飛び出してきたリザをヴィクトーがたしなめた。

「でもヴィクトー、大人の男の人を二人ともあなたのおうちに泊めるにはベッドが足りないでしょう? うちならお父さんのベッドがあるわ!」

「それはそうかもしれないけれど。でも、お母さんに許可は取ったのかい?」

「うっ、それはこれからだけど……」

 記憶にある通りの会話が目の前で繰り広げられる。幼馴染で想い人である彼女の暴走を止めようと、おろおろとしたヴィクトーの視線がこちらに向けられた。

「いかがいたしましょうか……」

「どうする? 勇者君」

「俺はどっちでもいいよ。ベッドを貸してもらえるだけでありがたいから」

「じゃあ俺が村長のお宅にお邪魔しよう」

 どうせ明日には勇者とリザは親しくなるのだから、一日早くなっても問題ないだろう。リザの家は父親が出稼ぎに行っているため、母と娘の二人暮らしだ。そんな家には俺よりも少年の勇者が行った方が世間体も気にならない。

 喜ぶリザの声を聴いたヴィクトーは一瞬がっかりした表情を浮かべたが、すぐに元の真面目な顔に戻して俺たちをそれぞれの家へと案内した。

 村長の家で軽く夕食を食べてすぐにベッドに入る。残念ながら風呂はなく、明日近くの川で水浴びをすることになった。着替えもないため、着の身着のままで布団に包まる。

 野宿よりはマシだが、固い寝床に辟易する。身体が沈むマットレスや清潔なパジャマが恋しかった。なぜファンタジーなぞ描いてしまったんだろうと後悔が頭に満ちる。だが不平を並べたところで生き返るわけではない。今はこの悪夢が覚めてくれることを祈るばかりだった。


 寝返りを打つたびに腰や関節が痛むので、ほとんど寝た気がしないまま夜を越えた。窓から微かな光が入ってきている。夜明けのようだ。

「役人さん、起きてください。水浴びの時間ですよ」

「ん……」

 急かされて嫌々ベッドを出た。ヴィクトーは既に身なりを整えており、結わえられた黒髪がキッチンに立つ彼の背中で揺れている。朝日がまっすぐに伸びた鼻梁を照らしていて、理知的な顔立ちを際立たせた。我ながら良いキャラデザだなあと寝起きの頭で考える。

「役人さん、そろそろ行かれませんと」

「はいはい」

 不満げなヴィクトーに先導されて俺は水浴びのために家を出た。

 ヴィクトーは無駄なことは喋らない。俺も世間話は苦手だから沈黙のまま並んで歩く。鳥のさえずりを聞きながら考えるのはこの後のシーンのことだ。次は水浴びをしていた川で大蛇の魔物に襲われるリザを勇者が助けるシーン──後藤君に描写の甘さを指摘された場面である。

 ふとそこで『ヴィクトーは聞き分けがよすぎる』と言われたことを思い出した。折角登場人物に直接話を聞ける機会だ。俺は横の青年に尋ねる。

「ヴィクトー君は、リザちゃんのどんなところが好きなんだ?」

「はっ? えっ、はぁ? いっ、いきなりなんなんだよ!」

 何気なく呟いた一言は思いがけず、礼儀正しい青年の外面を破壊したらしかった。理知的にデザインしたはずの顔は真っ赤に染まり、動揺のせいで普段のゆったりとした口調から一転、流れるような早口が唇から零れる。その場で固まった彼につられて俺も足を止めた。

 なんだ、年相応なところもあるのか。『村の若きリーダーである立派な青年』と彼を描いていたから、見るからに慌てふためく彼に可愛らしさすら感じてしまった。思わず声を出して笑えば気に障ったのか非難の言葉が俺に投げられた。

「何笑ってるんですか。というか、そもそもなぜ僕がリザのことを好きだと思うんですか。あなたは昨日この村に来たばかりでしょ」

「それは、ほら。おじさんの勘というか、昨日の様子見てそんな感じしたっていうか」

「そんな……、今まで誰にもばれなかったのに」

 ──確かにそんな描写は一切しなかったな。

「リザにも意識してもらえたことは一度もないし、それどころかお兄ちゃんって言われるし。僕ってそんなに男として魅力ないんでしょうか……」

 ──確かにリザがヴィクトーのことを話す描写もほとんどないな。勇者に会ってからずっと勇者に夢中なところしか描いてないかもしれん。

「はぁ……。こんなこと聞くのはおかしいですが、役人さんから見て僕はそんなに田舎者のやぼったい男に見えますか?」

「えっ?」

 弱った声が問いかけだと認識して、やっと俺は思考から目の前の彼に意識を戻した。ヴィクトーは眉間にしわを寄せて俺を見つめる。まっすぐなその瞳を見たら、誠実に答えなきゃいけない気がした。

 でも、なんて答える? ネームはリザが勇者と共に旅立つところまで書いたからそこまでの流れは決定事項だ。リザは勇者に夢中だしヴィクトーに振り向くことはない。しかし、そのままを彼に伝えてしまうのは理解不能になるだろう。未来を知っているのは作者である俺だけだから。

 悩んだ挙句出てきたのは、

「お前は、十分魅力的だと思う。リザちゃんもきっといつか、気付くはずさ」

 という月並みな励ましだけだった。

 件のヴィクトーはというと、そうですかと何とも言えない相槌を打っただけでそのまま黙りこくってしまう。

 結局、俺もそれ以上かける言葉を見つけられないまま、先に水浴びをしていた勇者と合流したため、これ以上この話が進むことはなかった。

「カガリビとヴィクトー! 遅いぞ!」

「遅くはないが。勇者君は早朝から元気だねえ」

「勇者様おはようございます、リザは森ですか?」

「ああ、水浴びから上がって温まるための焚火用にって、薪を取りに行ってくれているぞ」

 勇者の言葉に、ヴィクトーは心配そうに川の向こうの森を見つめた。

 正確な時刻は分からないが、そう時間が経たないうちにリザと魔物がここへ来るだろう。俺は勇者と聖剣の位置関係を確認しすぐに逃げられるよう、靴紐を強く結んだ。

「ん? 何か聞こえないか?」

 勇者がそう言った次の瞬間、「助けて!」と悲鳴をあげるリザと共に森から魔物が飛び出してきた。

「リザ!」

 ヴィクトーが護身用に携えていた槍を構えると勇猛果敢に前に飛び出た。

 だがそれよりも速く、言葉も発さぬほど冷静に、上空に飛んだ勇者が自身の倍以上の大きさはある大蛇の魔物に向かって、聖剣を振り下ろした。

 黒板を爪でひっかいたような不快な金切り声をあげて大蛇が一刀両断される。

 見上げるほど大きい水飛沫を上げて大蛇の死骸が川に倒れこみ、美しく澄んでいた川の水が青く醜い液体に侵されていく。その光景を俺は声も出せずに見ていた。続いて青臭く嗅いだことのない臭いに息が詰まる。これが蛇の臭いなのか魔物の臭いなのか、想像もしたくなかった。

 生き物を殺す描写は、今までにも何度も様々な作品に登場させてきた。特にバトル物は殺生のシーンなんてあって当然だし、そのことを疑問に思ったことすらなかった。けれども、殺したことで生じる景色の異変や臭いや音については無意識で排除していたように思える。

 漫画では音もにおいも表現できない。一コマきりの景色の変化なんて細かい描写は、エンタメには必要ない。そう思っていた。けれど、その意識のままでいいのか?

 ぐるぐるぐるぐると思考が回る。考えすぎて吐き気すらしてくる。たまらず俺はその場にしゃがみこんだ。

 頭にはこの世界に来る直前に言われた後藤君の言葉が蘇る。

 ──かがり火先生のキャラは、もっと執着があっていいと思うんです。

 俺はずっと自分の描きたい世界を表現することが、最も漫画の魅力に繋がると考えていた。現実には存在しない世界の物語に読者は魅了されると。登場人物とは、物語の中へ引き寄せるため要素の一つだと考えていた。

 けれども、俺は自分が重要視したものすら満足に描けていないことに気が付いてしまった。世界観も、登場人物も、俺が描いていた漫画には足りないものばかりだ。

 プライドが、漫画家である自分を支えていた部分が、瓦解していく。

 離れたところではリザの身を案ずる勇者とヴィクトーと、それに答えるリザが話をしている。その会話こそ、後藤君に指摘された場面だ。本当ならちゃんとそれを聞いて、リザが勇者に惚れるポイントを、読者が納得する理由を見つけなきゃいけない。だけど、足は動かず顔を上げることもできなかった。


 そうこうしているうちに日が完全に昇ってしまった。結局禍々しく濁った色に変わった川で水浴びはできず、俺たちは急いで村に戻る。

 リザは嬉々として勇者の活躍を村中に話して回った。魔物の貴重な鱗を手に入れるために多くの男たちが川へと行った。鱗は武器や鎧の材料にもなるから、村にとっては喜ばしい収穫だ。すっかり気を良くした村長が今夜は宴だと言ったので、女たちも朝から忙しくは準備に追われている。

 俺はというと、早朝のショックから未だ立ち直れずベッドに逆戻りしていた。布団を頭まで被りながら、外から聞こえてくる賑やかな声に耳を澄ませる。

 ほとんどが聞き覚えのない女の声ばかりだが、時折特に気合の入ったリザの声もそこに混ざっていた。勇者の活躍のことをまた話しているのかもしれない。ここは描写していないから俺にも分からない。

 リザは女の自分にはない、勇者の分かりやすい強さに惹かれたのだろうか。それとも普段のあどけなさと戦闘時の凛々しさとのギャップ? それとも単純に顔が好みとか? どれもしっくりこない。いっそ一目ぼれということにでもしてしまったほうがいいのだろうか。

 目をつむって考え込んでいると、不意に「役人さん? 体調どうですか?」とヴィクトーの声がした。

「なんだ、お前は川へ行かなかったのか」

 毛布を顔から避けると、一仕事してきた風の彼の姿が見えた。

「ええ。催し物の準備を取り仕切るのは僕の役目ですから」

 そうなのか、と初めて知った情報に納得する。魔物を倒してから宴までの時間なんて数コマ分しか描かなかったから、その間彼らがどうしてたかなんて考えてなかった。

 窓の外からは女たちの声に混じって、またリザの声が聞こえてきた。俺がヴィクトーを見上げれば、彼の視線は窓の外へと向いていた。

「あのさ」

「リザは、きっと、勇者様に恋をしたんですね」

 俺が言おうとしたことを遮るようにヴィクトーは言葉を被せた。まるで、慰めなんて聞きたくないとでも言うように。

 ぐっと強く眉根が寄った顔でこちらを見る。悲し気な瞳には諦めに似た色を読み取れた。

「……、なぜそう思うんだ」

 それが事実だと知っているのに、わざと問いかける俺は意地悪だろうか。

 何も知らないヴィクトーは言葉を慎重に選んで吐き出した。

「物心ついた頃から隣にいますから、そりゃあ分かりますよ。元々村の外に出ていきたいと言っている子です。村の外の、強くて優しくて生き生きとした性格の勇者様を好きになるのもなんら不思議ではありません」

 と言ってカーテンを閉めた。部屋が途端に薄暗くなる。明かりはカーテンの隙間から入ってくるわずかな光だけだ。数歩分ほどしか離れていないヴィクトーの表情もほとんど見えなくなった。

 なぜか焦りの気持ちが強くなり、俺は思い浮かんだままを口に出す。

「お前だって彼女のことが好きなんだろ? それならお前が彼女に好きだと言って彼女を幸せにしてやればいいじゃないか」

 とまくしたてると、間髪入れずに反発はきた。

「僕はこの村を出ることはできません。この村を治めるのが村長になる家系に生まれた僕の役目です」

 ──そうだ。彼にその役目を与えたのは、他ならぬ俺だ。

「でもリザは村を出ていきたがっている。彼女の希望を曲げさせてまで得られる幸せがここにあるとは、僕には思えません」

 ヴィクトーは最後に苦笑を滲ませて言葉を締めくくった。

 俺は暗がりの彼を見上げながら、ネームに描いたリザを見送るヴィクトーの笑顔を思い出していた。旅立ちを祝う爽やかな別れにしたかったから、見送る彼の表情は笑顔にした。けれど、そこには彼の本当の胸中は表現しきれていなかった。隠しきった恋心、見ないふりをした寂しさ、無かったことにした村の外に広がる己の未来。そういう複雑な感情を、もっと表情で、描写で、シーンで表してあげることが作者の役目なんじゃないか。

 沈黙した俺が眠ったと勘違いしたヴィクトーは「宴が始まる頃に起こしに来ますね」と言い残して、家を出て行った。

 賑やかな声に一つだけ男の声が混じる。幼馴染との楽しそうな話声を聞くまいと、俺は毛布に潜り込んだ。

 

 太陽がすっかり落ち、部屋の中はいよいよ真っ暗になる。目が暗闇に慣れてきた頃、ヴィクトーは約束通り俺を起こしに来た。

 ベッドに座っていた俺を見て微かに驚いた後、外に出るように手で示す。

 けれども俺がなかなか立ち上がらないので近付いてきた。

「体調がまだよくなりませんか。そうしたら、薬を用意」

「なあ、お前たちが俺の描いた物語の登場人物だって言ったら、信じるか?」

「えっ?」

 突然の告白には、理解の伴わない返事が予想したまま来た。それでもかまわず俺は言葉を重ねる。

「俺はこことは違う世界に生きていて、この世界を物語として描いた人間だ。何を言われているか理解ができないと思うしそれで構わない。だけど、俺が未来を分かるということだけは信じてほしい」

「はぁ? 何を言っているか本当に分からないです」

「いいから聞いてくれ。これから始まる宴でリザと勇者はお互いの身の上話をして急激に仲を深める。そして宴の終わりにリザは勇者と共に旅をすると皆の前で宣言するんだ。村の中から勇者の仲間を輩出した誇らしさで、村人はみんな大喜びだ。もちろんお前もその場にいる。いいか? 昨日ここに来たばかりの男に想い人が奪われるのを、お前はニコニコしながら見守ることしかできないんだ。お前、それで本当にいいのか?」

 勢いのままに立ち上がってヴィクトーの両肩を掴む。彼はまだ困惑と動揺から抜け出せていない様子だ。大きく見開かれた瞳が忙しく泳ぐ。

 わななく唇が、微かに開いた。

「……僕に、どうしろって、言うんですか」

「宴が終わる前にお前の気持ちをちゃんとリザに伝えろ」

 昼からずっと考えていた。ネームに描いた内容は恐らく変わらない。それは俺がいるのに起きるイベントと記憶に相違が起きなかったから確信がある。なら、リザが旅立つという確定した未来に対して最もヴィクトーが報われる方法は一体なんだ、と悩んだ。そしてたどり着いた答えがこれだった。

 唇を引き結んでいたヴィクトーは目線を下に逸らすと、肩に置かれた俺の手をそっと払った。

「仰ることが本当に全て真実だとして」

 そう始めた彼の言葉には、諦めと悲しみと、怒りがごちゃごちゃになって溢れていた。

「それなら、俺がこの家に生まれることを決めたのもあなたなんですよね? そんな風に必死に訴えるんでしたら、あなたが元の世界に戻ってリザが勇者様に振り向かないように話を書き直してくれれば解決なんじゃないですか。勇者様がこの村に来ないように描いてくれたら、それでいいですよね。そもそも、俺がこの家じゃなくてもっと他の、自由に生きられる家に生まれるようにしてくれれば」

「ごめん」

 怒りを、嘆きを短い謝罪で遮られたヴィクトーは収まらない感情を全身に宿したまま、俺から距離を取った。

 行き場のない感情はすべて俺が受け止める気でいた。彼が感情を押し殺さなければならなかったのは、俺の責任だ。つまるところ、彼の感情がどう動こうが、幼馴染への絶対に叶わぬ想いを胸に秘めたままでいようが、物語の大筋にも結末にも何ら影響しない。そのことに甘んじて、俺は彼の気持ちを描写することをなおざりにしたわけだ。

けれど、ヴィクトーはそのまま何も言わずに家を出て行った。

 立ち去るときに見えた泣きそうな顔は、ネームを描いているときに一度も考えなかった表情だった。

 今がどんな状況で誰が何を思っていようとも物語は進む。作者の俺ですら今は何も変えられない。悔しさで唇の内側を噛みながら、俺も宴の会場へと向かった。

 会場は円形に並べられた松明の中心で、食べたり飲んだり歌ったり踊ったり──思い思いに収穫を神様に感謝する催しだ。勇者とリザ、ヴィクトーは簡易的な祭壇の前で食事をしていた。

「カガリビ!」

 最初に気が付いた勇者が俺の名前を呼ぶ。遠くで様子を見ていようかと思ったが、本日の主役に手招きまでされて呼ばれては逃げ場がない。

 三人はじゅうたんの上に座っていた。俺は空けられた勇者の隣に腰を下ろした。勇者の向こう隣にはリザがいる。対面といめんにはヴィクトーの姿があった。

 なんでそこにいるんだよ。ネームで描いたままの位置に座る彼にひどく苛立ちを感じた。

 宴は賑やかで華やかで楽しい空気だ。ギターのような弦楽器と鼓のような打楽器が音楽を奏で、昼間よりも少しだけ露出の多い派手な衣装を着た女たちが踊る。

 久しぶりに大人数と食事をする嬉しさで酒も進む。口をつけるもの全てがどこか知っている味なのは、俺の想像の産物だからだろう。今はその味さえも安心に繋がった。

 村長や村の男たちの会話に混ざりながら、意識は反対側の勇者たちに向ける。

 勇者が話しているのは、育った村のこと、家族のこと、天啓を受けてから今までのこと。村の外に人一倍憧れを持つリザはその話を無邪気に喜んだ。

 たまにヴィクトーを盗み見るが、彼も勇者の話に相槌を打つばかりでリザに思いを告げる動きは微塵もない。

 宴の前に見せた悲しみを笑顔で押し隠した彼は、俺と一切目を合わせなかった。その拒絶は、自分の物語を捻じ曲げようとした作者の傲慢さへの憤りにも感じられた。

 そのまま宴も終わりに近付き、一通り身の上話をして勇者と親密さを増したリザはおもむろに願いを声に出す。

「わたしも、勇者様の旅についていきたいな」

 勇者とヴィクトー、それと俺だけに聞こえた──酒が回りきった他の奴らには聞こえない囁きだった。それでも、物語を進めるには十分だった。

 松明の暖色に照らされた勇者の顔から、あどけない笑みがすっと抜け落ちる。残ったのはあの川で見た、冷静な男の顔だった。

「俺は、魔王を倒さなきゃいけない。その旅はリザが想像するよりも過酷で厳しいものになるだろう。……それでも、一緒に戦いたいと思うか?」

 勇者の問いかけに、リザもまた覚悟を決めたようだった。

 その表情や声色は、やはりネームに描いたものとは違って見えて、もし続きを描けるなら今度は余すことなく表現してやりたいと思う。

力強い瞳で勇者をじっと見つめた後に勢いよく立ち上がる。

「わたしは明日この村を旅立ち、魔王討伐のために旅立つ勇者様の一助となることを神さまの前で誓います」

 囁く程度だった願いは、少年と少女の覚悟によって高らかな宣言へと変わった。

 いきなりの告白に、村人たちも酔いがさめたように口を閉じた。

 鳥の声が聞こえる。ホーホーと、沈黙を埋めようとするかのように。

 結末を分かっているのに、その静けさに冷や汗が俺の首元を伝ったときだった。

 ヴィクトーが、沈黙を破らんばかりの勢いで拍手をしたのだ。

 それに呼応するように村人たちが拍手を始めて、次第に褒め称える言葉が口々に叫ばれる。先ほどとは違う音楽が演奏され始め、リザの決意を祝福する歌が口ずさまれる。

 一人の少女の旅立ちとしては、この上なく素晴らしいシーンに仕上がった。リザの旅が始まる物語としては、最高の終わり方だと思う。

 村人全員に祝われたリザは嬉しさで頬を上気させながら、ゆっくりと席に着いた。未だ夢見心地の顔が目の前に座る幼馴染に向けられる。

「ありがとう、ヴィクトー」

 歌の中に短い感謝が落とされた。

 物心ついた頃から好きだった人へ、ヴィクトーは告げる。

「リザ、気をつけて。僕は君の幸福と安全をいつも祈っているよ」

 ネームにはない二人の会話。しかしそれはしっかりと存在していたと俺は深く感じた。

 僅かに逸らされた瞳が俺を射抜く。ヴィクトーは満足そうに目を細めた。


「本当に良かったのか」

 宴の片付けを終え、村にはいつもの夜が戻ってきていた。俺はヴィクトーを家の外に呼び出して、あの拍手の真意を尋ねた。

 ヴィクトーは晴れやかな笑みを浮かべて頷く。

「はい。これが僕の選んだ答えです」

 ヴィクトーは一瞬の恋よりも永遠の友情を選択したのだと感じた。終わりの見えている恋情を選んで思い出になることよりも、望む限り傍にいられる友情を選んで彼女の拠り所になろうとしたのだろう。そういう関係があってもいい。そういう幸せがあってもいいと思う。

 そうか、とだけ言って俺は口を閉じた。

 この世界に来てからまだたったの二日だが、何もかもが予想外すぎて随分長くここにいる気がしていた。

 元の世界で俺は死んだんだろうか。ここは死後の世界なのだろうか。分からないが、そう長くは居続けられないという妙な確信があった。生きているうちに想像もしなかった世界を、俺はきっと体験できない。

 そう考えると眠るのがもったいなく感じて、俺はおもむろにその場に座り込んだ。すると横にいたヴィクトーも同じようにしゃがみ込む。

「あなたは、元の世界に帰れるんですか」

「さあね。帰れればいいけど。いつになるかも分からないからとりあえず、勇者の旅についていってみるわ」

 この物語の主人公は勇者だ。もし何かイベントが起きるなら彼絡みだろう。

 俺がそう答えると、ヴィクトーは夜の清純な空気を思い切り吸い込んで吐き出し、それから言葉を放った。

「もし、帰れたらちゃんと続きを書いてください。僕たちを生み出したのはあなたなんでしょう? あなたが表現してくれたら、それは僕らが生きていることの証明になりますから」

 信じてくれてたのか、と心底驚いた。同時に言いようのない満足と喜びが全身に駆け巡る。

 この溢れんばかりの感情を必ず元の世界に持っていけるように心に刻み込んで、俺は唇を開いた。

「ああ。約束する」

 街灯もネオンもないこの村では、代わりに満天の星空が暗い世界を淡く照らす。美しい、名前のない夜の話だ。

 もう描くことを苛むものは、何もなかった。俺はただただ、漫画が描きたくて仕方なかった。


 翌朝、村の周りの魔物が起きだす前──空が白む頃に勇者とリザ、それに俺はカイウー村を出発した。

 リザは涙を浮かべて母と村長と、それからヴィクトーに別れを告げた。感情がまっすぐに表現できて嫌味なところのない彼女は、きっとこの世界の人からも漫画を読んだ人からも、みんなに愛される女の子になるだろう。

 村の門を出た勇者が俺たちを振り返り言う。

「よしっ! 王都に行こう、リザ、カガリビ」

「ええ!」

「ああ。そう、だ、……な」

 門から一歩踏み出した瞬間、猛烈な眠気に襲われ全身から力が抜ける。

 五感すべてが急激に失われていく。勇者の声が、リザの声が、ヴィクトーの声が、次第に遠のき、意味を失っていく。

 そのまま俺の意識は途切れた。


***


 かがり火先生! 加賀さん? 聞こえますか? かがり火先生!

 耳はいくつもの人の声を捉えている。全身は焼けるように熱く、微動だに出来ないほどの痛みがある。口は血と砂の味がする。目はだいぶぼやけているが、俺を呼ぶ人たちの姿を見つけることができた。

「いっ……、た……」

「かがり火先生! よかった、意識が戻ったんですね!」

 名前をしきりに読んでいたのは、後藤君だった。

 朦朧とする意識の中で最初にわかったのは、元の世界に帰ってこられたことだ。けれども、あの二日間で経験したことは何一つ忘れていない。

 あの世界から、彼らから教わったことを今すぐに伝えたかった。思うように動かない唇に力を入れて、俺の編集者に話す。

「ご、とうくん」

「っ、なんですか先生」

「おれ……、まんが、か、きたい」

 後藤君は俺の手を痛いくらいに握りながら何かを叫んでいる。もう聞き取る力もなかったが、涙声が聞こえて、ああ伝わったんだと安堵した。力が抜けて瞼が落ちる。 

 状況を理解できぬうちに、担架に載せられて俺はまたしても意識が途切れた。

 後日、後藤君から出版社の前で居眠り運転のトラックに跳ねられたことを聞かされる。

 全治一か月の大怪我を負ったが、幸いにも後遺症などはなく俺は静かな入院生活を送った。

 後藤君は何度も見舞いに来てくれた。画材も用意してくれた。

 君に責任は何もないんだからそこまでしてくれなくていいと言ったら、

「僕があの作品の続きを早く読みたいんです」

 と言われてしまったから、もう描かずにはいられない。

 俺は入院中に、事故で読めなくなってしまったネームを新たに書き直した。頭の中にある勇者と歩いたリノアの森やカイウー村の宴のことを思い描けば、自分でも驚くほど筆が進んだ。

事故以前よりも後藤君と細かく意見交換をし、お互いが満足のいく形に原稿を完成させた。

その甲斐もあってか、退院して間もなくまた同じ雑誌で連載を始めている。

 二話の脇役のヴィクトーが予想外に人気を博し、番外編の主人公になるのはまた別のお話。

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