No.5 狐の嫁入り 作者:小川葉一朗 さん

「人は何のために生まれて、どうして死ぬんだろう」


 国際線のターミナル。この国の入口と出口に臨む展望デッキ。天気はとても晴れやかで、けれども、細やかな雨が、煌びやかに降る。バックパックに隠れてしまうような小さな背中。湿気を帯びてくるりと跳ねるボブカット。離陸する飛行機の音の隙間を縫って、彼女は僕にそう言った。


「何のために生まれたか、って聞かれたら、出来ることなら、「音楽を作るため」って胸を張って言いたいものだよ」


 飛行機は轟音と共に空の彼方へ遠のいていく。空気が切り裂かれる振動は僕と彼女まで同時に届く。なびいた風に乗って、雨粒が僕の顔に触れた。お天気雨だ。旅立ちにぴったりの晴れ空に、別れにふさわしい雨模様。僕は小さな彼女の背中を見つめている。バックパックを背負ってしまえばほとんど覆われてしまう彼女の背中が、いつまでも自分の記憶の中から霞んでしまわないようにと願っている。


「でも実際はそんなにかっこいいこと言えないなあ。強いて言うなら、こうやって旅立つためかもしれないね」


 なんて、これもなんか気取ってるね。彼女はきゅっと笑って言った。


「死ぬほうはさ、」

「ん?」


 彼女はこちらを振り返る。晴れ間と雨の間に溶けた、黒い瞳をこちらに向ける。


「無くてもいいんじゃないか? 意味なんて。死ぬのには」


 彼女の頬にも雨粒が触れる。艶やかな透明が太陽の光を反射して輝いた。

 彼女はこの国を離れて、ここからどこか遠く離れた場所で、自分だけの音楽を奏でる。彼女の作る音楽は沢山の人に愛されて、沢山の人の生きる力になった。人は何のために生まれるのか。少なくとも彼女の曲は、誰かの背中を押すために生まれてきたのだと思う。

 次の飛行機が離陸の準備をしているようだった。ゆっくりと滑走路に向かって歩み始める。もうあと僅かな時間でこの飛行機もどこかへ旅立ってゆく。そしてもう数えるほどの時間で彼女も海の向こうへ旅立ってしまう。誰も自分を知らないどこかで、自分だけの新しい音楽を生み出せたら素敵だよね。雨粒を滴らせながら、彼女はまだ幻想的に微笑んでいる。


「試してみようよ」

「え?」

「人はどうして死ぬのか」


 立ち尽くす僕に笑みを残し、彼女はスマホの画面を開く。映し出されたSNSの彼女のアカウント。彼女のファンがたくさんフォローしている、彼女の言葉の綴り場所。


「これが私のパスワード」


 彼女のアカウント『シタキリキツネ』

 雨に濡れた、キツネのイラスト。



「もしも私が死んだらさ、君に更新してほしい」



 彼女の微笑みは晴れやかに。彼女の声は雨粒のように。

 彼女は最後まで笑っている。旅立ち別れ、その一日が終わるまで。

 小さな背中は凛々しくいる。その命が尽きるまで。


 あるいは、彼女が死んだ、その後もまだ。




***




『二〇一七年六月二十四日 私は死にました。ニュージーランドの南島は大勢の人と車が行き交っていて、国立公園に集まった若い人たちはこの瞬間が人生で最も眩い一日のように賑やかでいたりして、誰かが流す音楽が生き生きと生きる喜びに満ちた音を響かせて、涼しい風が伸びやかに吹いていました。


私は仰向けに寝転がっていて、私のはるか上の方を一羽の大きな鳥が通過していって、それが何の鳥だったか、渡り鳥なのか、この島固有の鳥なのか、そういうことは何にもわからないまま、優雅に飛ぶその鳥をぼんやりと眺めていたんです。


鳥はゆっくりと羽を大きく羽ばたかせて、かと思えばすっと首筋を伸ばして私の上を通過して行きました。その鳥はすぐに山波の向こうに飛び去っていって、私は、ここから日本はどっちの方向だろう?とか、あの鳥は日本の方向に向かったかな?とか、そういうことを考えてました。私は段々と眠くなってきてしまって、うとうとしながら日本にいる誰かのことを考えました。私が日本を去ってから、結局一度も会っていないな〜とか、私がいなくても元気でやっているかな〜とか、私を見送ってくれた時の事とかを、一つずつ、ぼそぼそと引き出しを開けてみるように、思い出していました。


名前も分からない鳥は優雅に私の上を飛んで行って、その行く先はどこだか私には分からないけれど、でも迷うことなくどこかに向かって真っすぐに飛んで行って、それがとても美しくて、綺麗で、私とは無関係に生きているその鳥が何だか愛しく思えてきて、安心してしまって、私はもう眠ってしまっても良いかなと思って、ゆっくりと目を瞑りました。


そうしていたら、ふと、私の顔の上に、いくつかの雨粒がぽつりぽつりと落ちてきたんです。山の天気は変わりやすいから、さっきまであんなに晴れていたのに、いつの間に雨が降り出したんだって思って。そして眠い目をもう一度だけ見開いてみたら、そこで私はびっくりしてしまいました。雨が降っているのに、天気はすっかり晴れていて。



『狐の嫁入り』と言うそうです。晴れた日に降る雨のことを。



二〇一七年六月二十四日 私は死にました。

だからこの先は、私が死んだ後の世界です。

私が死んだ後の物語です。』



***



 まるっきり嘘だと思った。思いたかった。


『シタキリキツネ』のアカウントはパタリと投稿することをやめ、彼女が新しく生み出す哲学のような曲を聴くことができなくなった。私は壊れたレコードのように、シタキリキツネの過去の投稿を読み返しては、忘れられてしまいそうな彼女の曲を何度も何度も繰り返し聴いた。そうして私の中の空虚さを彼女の言葉と音楽で満たしては、自虐のように取り返しのつかない傷を増やしている気分だった。


 事故死だったらしい。彼女と交流があったアーティストやイラストレーターや作家やライターが揃って彼女の訃報を伝えると、彼女を失った彼女のファンたちは生きる自信を根こそぎ奪われたように悲観した。彼女の言葉に勇気をもらって、彼女の音楽に背中を押されて、少なくとも、私はそういう風に生きていたからだ。まるっきり嘘だと思いたかった。誰かが嘘をついて回っていると思いたかった。本当は彼女ではない誰か知らない人が無惨に死んで、彼女は生きているんじゃないか。不謹慎だけどそう思いたかった。本気で、そう思いたかった。


「えいっ!」


 不意に、私の左耳からイヤフォンが引き抜かれる。と同時にこの世界の雑多な音が釘を刺すように頭の中に響き始める。机に突っ伏していた私は顔を上げると、條澤燈子(しのさわ とうこ)は八重歯をちらつかせながら微笑んだ。


「ちょっと!」

「傘音ちゃん、何聴いてんの?」


 燈子はそのまま私のイヤフォンの片側を自分の左耳に持っていった。私の右耳にはまだもう片方のイヤフォンが残っていて、私と燈子は一つの音楽をほんのわずかな時間共有する。シタキリキツネが紡ぐのはベースと電子ドラムが複雑に鳴るギター不在の抽象音楽と、溺れてしまうような言葉の羅列、そしてそれを読み上げるの女性の声を模した合成音声が織りなす音楽だ。電子ドラムのハイハットが強く響く。と同時に合成音声は産声のような言葉を歌い始めた。


「この曲知ってる!シタキリキツネだ!」


 私はスマートフォンを操作してその音楽を止める。シタキリキツネの曲は途絶えてもなお、揺るぎないものを私の耳の奥に残している。燈子は薄紅色の舌をちらっと出して、また私に向かって微笑んだ。


「私も好きだよ、シタキリキツネ」

「良いよ別に、気を遣わなくて」

「ほんとだって。だから結構ショックだったんだ。死んじゃったって聞いたとき」

「止めてってば」

「悩んだときとかはいっつも聴いてたからさ」

「止めてって!」


 雑音の折り重なった教室に、私の不協和な声が鳴る。その声に教室にいるクラスメイト達が一斉に、私の方を向いた。

 途端に、私の身体のあらゆる細胞が、怯えるように委縮する。


「燈子、どしたの?」


 私は燈子からイヤフォンを取り上げてそのまま自分の両耳に押し付けると、また机に顔を伏せる。再び流れたシタキリキツネの音楽に、身を潜めるように目を瞑る。


「ううん!何でもないよ~」

「こいつなんか叫んでたじゃん。ほんとに気持ちわりいな。あんたもこんなのと話すの止めなよ」


 シタキリキツネの音楽は、今日も私に寄り添ってくれる。

 だから私にとって、彼女の音楽は、決して死んでなんかない。





 彼女は間違いなく死んだ。彼女のSNSには未送信のメッセージが何十何百と溜まっていて、世に発信されなることのなかった膨大な数の彼女の言葉が遺品のように残されていた。

 例えば、『朝起きるのが苦手な人は、誰かを愛しく想えば良いのに。例えば自分の大切な友達が大切にしている人や、はるか遠く離れた顔も知らない誰かのこととかを』とか、『もし自分が才能に溢れた人間だとしたら、私は私のことを好きで居続けることができるだろうか』とか、『公園のブランコが錆びていくのを見るたびに、私は少しずつ大人になるのかもしれない』とか。そういう彼女が生前心に留めたあらゆるものが断片的に語られている。これはまだこの世界のどこにも紡がれていない言葉たちで、そしてこの先の世界のどの瞬間においても、彼女の口から語られることがなくなった言葉たちだ。


 彼女が亡くなったと聞いてすぐに、彼女と最後に会った時のことを思い出した。小さな背中に、子供の玩具箱のように彼女らしさを詰め込んだような大きなバックパック。あの時の彼女はいつにも増して、これから向かう行き当たりばったりの旅を心から楽しみにしているようで、僕はその後ろ姿を素直に勇ましいと思ったのだ。


 僕はまた彼女の遺したSNSのアカウントを開く。まさか彼女の言葉が、こんなにも早く現実になってしまうなんて思いもしなかった。けれど人が死ぬのはいつだって突然で、いつだって誰もが周りの誰かが死ぬ準備なんて出来ていない。そうやって不意打ちのように心に風穴を開けられては、その塞ぎ方さえ知らぬままに、死んだように生きるしかないのかもしれない。彼女の訃報を聞いた僕は、遺言となってしまった彼女の言葉通り、彼女のSNSを開いた。彼女の葬儀や告別式が全て終わって、小さなお墓の下で彼女が眠りについた頃、僕は彼女のSNSを開いた。そのSNSに保存されている未投稿の下書きのメッセージ、その一番新しいものは、たったの一行だけだった。



『私が死んだと思っているでしょ?笑』



 それを見た僕は、途端に、なんだか背筋が伸びてしまったのだ。


「何を一人で笑ってんだ」

「いや、ごめん。何でもないよ」


 哲人は二杯目のビールを飲みながら、大皿に盛られた唐揚げに箸を伸ばした。俺はまだスマホの画面を見つめている。彼女が亡くなってから一カ月半、四十九日が終わった頃、僕は彼女のアカウントから一つの投稿をした。それは彼女が死んだときの話で、そしてこれからは彼女が死んだ後の世界だというような内容だった。投稿を見た彼女のファンやアンチや生前関わりがあった友人知人たちは揃って彼女の投稿——それはすなわち僕が投稿したもの——に対して困惑や喜びや悲しみや怒りのメッセージを送ってきた。僕は一つ一つ、彼女に向けられた、命の吹き込まれたメッセージを丁寧に読んだ。


 哲人は水滴の付いたグラスを口に運ぶ。僕もスマホの画面を上向きにテーブルの上に置くと、残りの唐揚げのうちの一つを食べた。油が口の中でじゅわっとなるように広がっていく。鶏の肉は油と塩胡椒で化粧されて、僕の口の中でいつまでもその存在を感じさせてくれるようだ。鶏はもうとっくに死んでいるのに、だ。


「哲人はさ、」

「おう」

「人はどうして生まれるんだと思う?」


 哲人のビールは残り三分の一まで減っている。あと三分の一も残っていると考えるか、もうあと三分の一しかないと考えるか。哲人は何となく後者だと思う。みんな消えていくものを惜しみながら、次の一杯を選ぶんだ。僕はどうだろう。彼女のSNSに届いた沢山のメッセージは、どれもその人の血の通った言葉だ。シタキリキツネがまた投稿をしている。その事実と、彼女は死んだという現実に挟まれてなお、色褪せていかない思いの丈が一つ一つのメッセージに込められている。叶うなら彼女に見せてやりたくなった。そしてそう思うたび、彼女とはもう言葉を交わすことが出来ないことを実感する。


「哲学は苦手なんだよ」

「名前負けしてるね」


 うるせえ、と哲人は唐揚げを頬張る。哲人の声は賑やかな居酒屋の中でも、一本芯が通ったように耳まで届く。僕はははっと笑った。


「何かをするために生まれたとか、誰かのために生まれたとか、理由を後付けするのは良いと思うけど」

「うん」

「生まれること自体の理由は、無くてもいいんじゃねえの」


 僕のビールも残り三分の一くらいになっている。僕はきっと前者だ。まだあと三分の一のビールが残っている。


「それ、あいつが聞いてきたの?」

「そう」

「そうか」


 僕はきっと三分の一の残りを、いつまでも惜しんで飲み干すことが出来ないのだろう。彼女が死んだその後も、彼女が三分の一くらい、この世界に留まっているように思っているのかもしれない。彼女はもう死んでしまったけれど、それは必ずしも彼女がもう生きていないということではない、と思い込みたいのかもしれない。自分でも滑稽で、まるで巧妙な嘘に騙されているような感覚だけれど、もし仮に彼女に騙されているのだとしたら、いつまで僕は彼女に騙されたままでいられるだろうか。


 スマホの画面をアンロックする。彼女のアカウントは通知を切っているけれど、沢山の通知が溜まっているが一目でわかる。今日もこの言葉の一つ一つに、彼女に対する思いが綴られているのだろう。束になった通知を見て、僕は彼女の葬式を思い出した。沢山の花に囲まれて、沢山の人の前でいつまでも眠る彼女の姿を思い出した。


「次、何飲む?」


 僕は哲人に次の酒を勧める。哲人は残り三分の一のビールを飲みながら簡単にタッチパネルを操作して何かのお酒を選ぶ。いつか終わりを迎えてしまうなら、いっそ自分で飲み干してしまえばいい。そういう哲人みたいな強さを、僕はまだ持てずにいる。


「お前は?」

「まだいいや」


 そっか、と言って注文を確定させた。僕はもう少し残ったビールをもう一度口にした。口の中にあった唐揚げの味は、いつの間にか遠い過去のものになっていた。



***



『二〇一七年七月二日 日本に帰ってきた私は両親と再会しました。すごく久しぶりで、二人とも少し皴が濃くなっていて、髪の毛の白い部分が増えていて、でも久しぶりに会った二人は、間違いなく私の両親でした。お母さんは私を見てじわりと目に涙を浮かべて、お父さんもいつも通りだんまりと私を見つめていました。私はというと、ニュージーランドのお医者さんにエンバーミングの処置をしてもらっていたので、思ったよりも元気な姿を二人に見せることができました。でも二人は私の知らないうちに、私が全然会えていなかったうちに、なんだか更けちゃったなと思いました。


二人はこじんまりとですが、私のお葬式を行ってくれました。何人かの親戚と、私の友達と、中にはこれまた久しぶりに会うような子の姿もいたりして。みんな大人になったな~とか、立派にやってんだな~とか、そういうことを思っていました。みんな泣いたり悲しそうな表情をしてくれて、なんだかこそばゆい気持ちでした。


時間はいつだって、誰にだって平等に流れているもの。そういう風に思いました。私が嬉々として生きているその間にも、私の生活とはてんでかすりもしないどこか遠いところで同じ時間を過ごしている人がいて、私が生きているのと同じように生きていたり、あるいは私にとっては信じられないような人生を送っている人が居たりして。そういう普通に生きていたらたぶん一生知ることもなかった情報みたいなものを、なんだか一気に、浴びるように実感しました。



私はふと、死ぬことについて考えました。


いや、その時私はもう死んでいたんですけれど。


私が死んだら、みんなが私との思い出を振り返ってくれているような気がして。

私が死んだら、みんなが私の音楽から何か大きなものを受け取ってくれている気がして。

私が死んだら、でもみんなの生活は変わらなくて。

私が死んだら、でもみんな、段々と色々なことが大丈夫になっていって。

私が死んだら、でもいつかみんな、私が死んだことを、私がこの世界にいないことを受け入れてくれて。


そうなってくれることが、私もとっても嬉しくて。


死ぬことの意味はあったのだろうか。


いや、死ぬことには意味なんてないと思うんですけど。


でも死んでしまった後で初めて、生まれるということの意味が、少しだけ分かった気がしました。』



***



「燈子マジであいつとつるむの止めろよ」

「え~なんで?」

「知ってんだろ、あいつ去年葵と宮子を騙してクラスでハブられてたんだよ」

「それは知ってる」

「じゃあ何であいつとつるむんだよ」


 霞美は本気の言葉で私にそう言う。狐塚傘音(こづか かさね)は嘘つきで、自分のことが一番大切で、自分が先輩に気に入られたくて葵ちゃんと宮子ちゃんに嘘を吐いて、結果的に誰からも避けられて、そうやって嫌われるべくして嫌われた嘘つき者だと。だから燈子、悪いことは言わないからあいつと仲良くするのは止めろ。霞美は何度もそう言った。


「だって、傘音ちゃんがどんな子か、気になるもん」

「は?」

「傘音ちゃんがどうして嘘をついたのか、知りたいじゃん」


 霞美はいい友達だ。私を本気で心配してくれているし、葵ちゃんと宮子ちゃんを本気で気にかけている。だからこそ傘音ちゃんの事が本気で許せないし、心の底から憎いんだろうなと思う。

 

「頼むよ燈子、あたしはあんたまで傷つく姿を見たくないんだよ」

「霞美ちゃん、ありがとう」


 私は彼女の心配を他所に、精いっぱい彼女に笑顔を向ける。もしその笑顔を自分で見ることが出来たら、もう少し違う自分になれたのかもしれない。


「……でも霞美が思ってくれるほど、私は自分を大切に思えないかなぁ……」


 私は霞美のことをとても素敵で、大切な友達だと思う。それとは別に、傘音ちゃんのことももっと知って、彼女と仲良くなってみたいとも思う。その気持ちはどちらも私の本心で、私の心の中にある数少ない本当の想いだ。霞美は友達のことになるといつだって本気だ。本気で誰かのことを想っているから、時には誰かと衝突したり、誰かと嫌い合ったりしてしまう。正しいことを正しいままに言ってしまうから、彼女の言葉は時に強すぎる。傘音ちゃんもたぶん本気だ。自分が大切で、自分の想いに真っすぐで、だから周りの誰かよりもよっぽど本気で生きていると思う。きっと傘音ちゃんは自分に嘘がつけないんだろう、だなんて、私は嘘つき者の彼女を印象付ける。二人とも羨ましい。私はいつだって本気じゃない。いつだって乾いた笑顔で、自分の見栄えが一番いい表情を取り繕って、そうやって嘘みたいに生きている。だから本気で生きる意味を知りたいのかも。


「彼女と仲良くなってみたいの。それに、一人って意外と寂しそうじゃん」

「一つ聞くけど、それって善意なの?」

「いいじゃない、偽善でも」

「悪いけどあたしは協力は出来ないから。あいつの顔見るだけで気分悪いし、関わりたくもない」

「分かってるよ、私は大丈夫」


 私はもう一度霞美に微笑みかける。張り付いたような笑顔。自分でも分かるような、嘘つきがする顔だ。


「そうやってへらへらしちゃって、あんたが言うなら良いけど別に。何かされたらすぐ言えよ」

「はいは~い!」


 教室の後ろ側の扉が開く。がらがらと鳴る引き戸に霞美は力強い視線を投げた。傘音ちゃんはゆっくりと教室に入ると、黙ったまま自分の席に座って、机の中の荷物を鞄に仕舞い始めた。


「お前、燈子まで傷つけたらマジでただじゃおかねえからな」


 霞美は傘音ちゃんを睨みながら教室を去って行く。力強く閉まる扉の音で、霞美と傘音ちゃんとの空気がぴしゃりと押し潰される。窓から差している日差しは既に西側に傾いていて、その眩しさに傘音ちゃんは目を細める。私は彼女を見てついにやけてしまう。


「傘音ちゃん、一緒に帰ろ~!」

「……あいつは良いの?」

「いいのいいの!霞美とはいつでも帰れるし~!」


 私は傘音ちゃんにも笑顔を向ける。その表情は果たして彼女の目にはどう映っているのだろう。

 私はいつだって、偽りの善意で誰かと向き合う。でも偽善者だっていいじゃないか。私は彼女との友情を偽善から始めるんだ。


「ねえねえ傘音ちゃん。見た?」

「何が」

「『シタキリキツネ』のSNS、投稿されてたよ!死んだのに!」


 傘音ちゃんは心臓を掴まれたように一瞬身体を強張らせる。そしてその直後には、耳に蓋をするようにイヤフォンを付けた。きっとまたあらゆるものを遮断してシタキリキツネを聴いている。私の声が彼女に届いているのかは、私には分からない。


「ねえねえ、聞こえてる?」


 傘音ちゃんは答えない。もしかしたら聞こえていないのかもしれない。聞こえているのに聞こえないふりをしてるのかも。


「『シタキリキツネ』本物だと思う?」


 傘音ちゃんは俯いたまま、荷物をまとめて帰ろうとしている。私の言葉が彼女に届いているのかどうか、そんなことはどっちでもいい。


「そんなはずないよね!だって死んだもん!」


 傘音ちゃんは私の言葉に返事をしない。

 そういう頑なさを持っている彼女が私はちょっとだけ好きで、とても素敵だと思う。


「でも『シタキリキツネ』が本物かどうかなんて、私たちには分からないよね!誰かがアカウントを乗っ取ってみんなを騙してるのかな!」


 傘音ちゃんは足を止めない。私はその後ろをついて歩いてゆく。

 私を振り返らない傘音ちゃん。いつも真っすぐに生きている。こういう人と一緒にいたら、私も少しくらい、私に真っすぐ生きられるかもしれない。そういう淡い偽善に頬を緩めさせて。


「傘音ちゃん、今度私のこと騙してみせてよ?」

「うるっせえな!」


 私はなんだか楽しくなって、嬉しくなって、そしてこの気持ちが本物であればいいなと思う。


「あ、やっぱり聞こえてた〜!」

「聞こえてない!」

「矛盾してるよ〜」





「なあ」


 繁華街の夜更けはいつだって煌びやかで、人工的な灯かりが見境なく輝いている。大通りですれ違う大勢の雑踏は僕の周りを忙しなく行き交い、その誰一人とも僕の前では立ち止まらない。遠のいていく誰かの背中をぼんやりと見る。と、その僕の背中に向かって哲人は言った。


「お前さ、それいつまで続けるの?」


 この入り組んだ街の真ん中、周りの人が意識の外に外れてゆく。沢山の人は立ち止まらずに歩き続けて、それはすなわちどこかに向かって進み続けているということで。この世界にはこんなにも多くの人が生きているのに、彼女はもう死んでしまっている。それはすなわち、彼女はもう生きていない。


「どうだろう。終わりが決まっていればいいと思うけれど」


 僕はポケットに入れた右手の掌でスマホしっかりと握っている。ポケットの中の小さな機械、その中にあるちっぽけな一つのSNSのアカウント。ごく僅かなデータの中の、ほんのわずか一つまみ。今や彼女はそこにしか存在していない。


「俺は別に、お前を止めたりしないよ。納得するまでやればいい」


 哲人の声は夜の重さを受け止めたように、しっかりとした音で僕の耳に届く。彼女の作った曲も、そう言えばこういう逞しさをいつも持っていた。彼女の曲は決して華やかではなくて、人を感動させるような素敵な音楽でもなくて、心躍らすような軽快さもなくて、だけど確かに彼女の曲は、今でも僕の胸の一番脆いところに残っている。行き交う雑踏と照りつける無粋な光に包まれながら、僕が一番好きだった彼女の曲のフレーズを思い出す。


「優しいね」

「なんだよ、悪いか」

「いや、悪くないよ」


 シタキリキツネの『存在と時間』

 孤独なベースと合成音声。生まれることとやがて死ぬこと。彼女の言葉と微笑んだ顔。彼女の真っ黒な瞳と青空に降った雨。その一つ一つを詳らかに思い出す。


「僕の方がよっぽど悪だ。だって死んだ彼女と偽って、みんなに嘘をついているんだ」

「だからそれが悪いとは思わないし、止めたりしないよ。俺は、お前を」


 繁華街の光はきらきらと揺れ、行きかう人々は嬉々として生きる。人は今しか生きられないのに、未来という時間に希望を持って生きようとする。この街を行き交う人々も皆、どこかに向かって歩いている。帰る場所、行く場所、在るべき場所と、在りし場所。漠然とした目的地を生きとし生きる誰もがみんな持っている。


『生まれ落ちた瞬間に、私は私であることを知る。

そうして私は膝をついて、命の果てに向かって歩きだす。』


 頭の中に響く合成音声の女性の声は、なぜだか全然違うのに、彼女の声に重なっている。


「止めてくれないんだね」

「止めない。止めるのはお前だから」


 僕は哲人に背中を向ける。溶けいるような夜の風。滲むような人の音。胸をかき鳴らす光の束。僕は世界から取り残されたまま、僕と彼女の存在を問う。


『命が落ちた瞬間に、あなたがあなたであることを知る。

そうして私は眠りについて、あなたの明日の朝になろう。』


 彼女のアカウントで投稿するようになって、いつの間にか沢山の時間が過ぎて、それはつまり彼女が死んでからも世界は回り続けているということだけれど、僕はまだ、瞳を閉じて彼女のことばかりを思い出そうとしてしまう。時間は等しく折り重なって、誰しものを等しく前に進ませる。いつか迎える死に向きあって初めて人は生きている。だけれど僕は知っている。時間は生きている間に流れるものだと。死んだ彼女の時間はもう進みも止まりも巻き戻ったりもしない。僕だけが、死んだように生きたまま、遺された時間ばかりを漠然と浪費している。

 

 みんな、どうやってそんなに逞しく生きていけるんだろうか。

 みんな、誰かとの別れや死や悲しみや、そういったものを抱えて生きていくのだろうか。

 みんな、心に負ったものも、時間と共に少しずつ大丈夫になっていくのだろうか。



「お前らが始めたんだから、終わらせるのもお前らだ」

「誰かが僕を悪者にしてくれたらいいのにな」

「そうだな」


 哲人は夜霧のように微笑んで、僕は震える指でスマホを握り込む。哲人は僕に寄り添わないでいる。ただ、僕が再び歩き直すのを見守っている。

 秋の夜は二十三時に近づく。今日が終わるまであと二十四分の一。まだ一時間が残されている。だけどもう、たった一時間きりしかない。



***



『生まれ落ちた瞬間に、私は私であることを知る。

そうして私は膝をついて、命の果てに向かって歩きだす。


命が落ちた瞬間に、あなたがあなたであることを知る。

そうして私は眠りについて、あなたの明日の朝になろう。


舌を切られた雀は泣いて、あなたの事を待っている。

欺かれた狐は笑って、そうして自分を殺すのだ。


言葉を重ねた瞬間に、私はあなたでありたいと願う。

そうしてあなたは私になって、まだ命は土には還らない。

瞼を重ねた瞬間に、私はあなたと生きたいと願う。

そうしてあなたは一人になって、晴れ空の下に雨が降る。


切られた舌は治らない。

泣いた雀はもう笑っている。

狐は今日も誰かを騙す。

あるいは、自分自身も。


私はあなたを知っている。

あなたが私と共にいた時間を知っている。

あなたは私を知っている。

あなたを見つけて笑う私の表情を知っている。

私はあなたを知っている。

私のいない時間を生きる、あなたの世界を知っている。

あなたは私を知っている。

あなたの頭の中でいつまでも、変わらない私の背中を知っている。



あなたを思った瞬間に、私は私であったことを知る。

そうして私は一人になって、私が死んだその先も、笑いながら生きていこう』



***



「この曲、好きなんだ」

「私も好きだよ」


 燈子は八重歯を向けて笑う。その表情は和やかだけれど、彼女の心の中の全てを知ることはできない。どれだけ推し量っても人の心の中にある本当の気持ちなんて、ほんの僅かさえ知ることはできないのかもしれない。彼女が私に向ける笑み。彼女が私に投げかける善意。そのどれもを私はただ、本物だと信じることしかできない。


「シタキリキツネのまだ初期の頃の曲だ~」

「そう。『存在と時間』哲学書から名前を取ったって」

「『生まれ落ちた瞬間に、私は私であることを知る』か〜」


 夏休み、の最後の日が終わりかかっている。蝉と鈴虫の立場が段々と入れ替わって、夏の日差しがその鋭さを和らげているようだった。

 燈子と私は二人で一つのイヤホンを耳に付ける。河川敷はゆっくりと西日を受け入れつつあり、私たちの影がだんだんと細く、長く染まっていく。彼女の善意が私と彼女を友人にして、最初の夏が終わろうとしている。


「これは別れの曲なんだってことは知ってたんだけどさ、実感としては分かってなかったというか、理解してなかったというか」

「うん」

「シタキリキツネが死んで初めて、この曲をちゃんと知れた気がするんだ」


 河川敷に夕日が落ちて、青い草木は息を潜める。虫の声は遠のいていって、私の右耳と彼女の左耳に、シタキリキツネの言葉が響く。ギター不在、言葉の羅列を浴びるように聴き入る。


「シタキリキツネのアカウント、こないだも更新されててさ、自分の葬式のことを投稿していたんだ」

「知ってるよ。私も見たもん」


 燈子は目を瞑ってシタキリキツネの曲に聴き入る。私も同じようにして、同じ曲に身を染めようと努力する。


「そんなことあり得ないって分かってるんだけど、死んだ人がまだ投稿をしているなんて、そんなのあり得ないって分かってるんだけどさ。でも自分が死んだことを、こんな風に自分で眺められたらどんな気分なんだろうなって」

「うん」

「もし自分が死んでしまったら、悲しいよりも悔しいよりも、『ああ、やっぱりな』が、勝ってしまうような気がするんだ」



 死んでしまった私を端から眺める私を想像してしまう。ぎゅっと目を瞑って押し殺そうとしても、虚しさばかりが焼き付いて。



「……私、葵にも宮子にも、嘘なんて吐くつもりはなかったんだ」

「うん」


 夏の鋭い日差しが勢いを弱めて、隣に座る彼女の香りだけが私に寄り添う。私の右耳と彼女の左耳、流れている曲は同じなのに、響いている音はきっと違う。燈子は目を瞑ったまま、静かに私の声を待つ。


「……私はみんなといるのが楽しくて、先輩といるのも楽しくて、でも段々自分の気持ちが分からなくなって、気持ちを押し殺せなくなって、嘘を吐いて、裏切って、私が欲しいものを全部手に入れようとして、それでみんな失っちゃった」



 燈子はまだ目を瞑ったままでいる。シタキリキツネの曲は静かなテンポのまま、私の心をきりきりと締め付ける。どうして彼女はこの曲を作ったのだろうか。別れの曲なのに、泣き出してしまうような切なさも、胸を打つような悲しさも、晴れやかな爽やかさも無い。ベースの音は淑やかに響き、合成音声の声はただ、誰かとの別れを少しだけ楽しんでいるようだ。



 私はまだ、自分の吐いた嘘に縛られたままだ。自分で自分のために吐いた自分勝手な言葉が、誰よりも自分自身を責めている。どうして人は孤独になって初めて、自分が幸福だったことを知るのだろう。いつだって私は過去を振り返っては、取り返しがつかなくなった未来を生きるしかない。


「後悔してる?」


 燈子の声は蝉の声よりも静かで、鈴虫の声よりも細やかだ。私は限りなく小さく頷いた。


「後悔してるなら、まだやり直せるよ。やってやれないことはないよ」

「無理だよ」

「どうして無理だと思うの?」


 私は組んだ両腕に顔を埋める。シタキリキツネの曲は厳かなアウトロを保ったまま終わってゆく。横に長く伸びた夕日が私の睫毛を濡らしていく。

 どうして無理だと思うの?それは私が卑怯者で、自分だけが先輩に気に入られたい一心で友達に嘘を吐いて、裏切って、その上それを隠そうとして、そういう身勝手を今更になって後悔して、それでもまだ孤独な時間に押し潰されてしまいそうで、私という存在が嘘みたいに無くなればいいと思ってしまっていて、なのに私に燈子が向ける優しさに、泣いてすがりついてしまいたくなるような私だからだ。


 シタキリキツネの曲は終わる。最後までベースの音は孤独に響く。


「帰ろっか、傘音ちゃん」


 燈子はすっと立ち上がる。イヤフォンは片側だけが私の右耳に、もう片方は、孤独に宙ぶらりんに揺れている。


「置いてかないでよ、どこにも行かないでよ燈子」

「そうやってみんなにも素直に言えばいいのに」

「だから無理だよ。私はもう無理なんだ」

「傘音ちゃん」


 私は彼女に手を引かれ、おもむろに立ち上がる。

 その反動で、私の右耳からもイヤフォンが落ちた。

 宙ぶらりんの私の腕は、燈子の手に支えられて。


「またね!」


 そうやって燈子は笑って言った。いつもみたいに八重歯をちらつかせて。




 次の日、燈子は学校に来なかった。親の都合で転校すると、ホームルームで誰かが言ったのが聞こえた。




 またね!って、いつもみたいに笑って言ったのに。

 嘘つきはお前じゃないか。

 私は教室を飛び出した。



***



『二〇十七年十二月十九日 今日は私の二十五歳の誕生日です。突然ですが、このアカウントはこの投稿をもっておしまいにします。


私が死んでしまう前、私はたくさん、私の事を考えていました。


もし私が生きていたら、私の音楽を誰かが好きと言ってくれるかな、とか。

もし私が生きていたら、私の言葉で誰かがつい笑ってくれないかな、とか。

もし私が生きていたら、私に向かって怒ってくれる人もいたりして、とか。

もし私が生きていたら、私は泣きながら誰かを想う時もあるのかな、とか。

そういう事を、私はたくさん、考えていました。


だけど私は、死んでしまいました。


もう生き返りません。

もう新しい音楽は作りません。

もう取り留めのない言葉は綴りません。

もう夢のような日々を思い返したりしません。

私はこの世界に、さよならをしてしまったのです。


皆さんはいま、どんな顔をしているのでしょうか?


たくさん笑っていますか?

怒ってますか?

悲しいですか?

楽しいですか?


私は死んでしまったので、皆さんが、どんな顔をしているのか分かりません。

だから皆さんも、好きな顔をして生きていてください。


死んだ私は、どこにもいません。

あなたの背中を押すことも。

あなたの右手を取ることも。

あなたの言葉を聞くことも。

あなたの傍にいることも。


狐は嫁に入ります。

燦燦と輝く青空に、しとしとと雨を降らせながら。


だから皆さんお元気で!


お元気で!そしてまたいつかお天気雨の狭間で!


きっとまた会いましょう。』



***



「燈子!」


 傘音ちゃんは息を切らせながら、必死に、それはもう本当に必死な表情で私の前に現れる。私の家のあらゆるものを乗せたトラックは今にも発車しようと言うのに。引っ越しなんて慣れたもので、誰かとの別れなんてありふれたもので、旅立ちなんて日常的なもので。だから傘音ちゃんとはもう会う事も無いと思ったのに。


「あれ、上手く傘音ちゃんを騙せたと思ったのに!」


 天邪鬼な私はまた、張り付いた笑顔でそう言った。嘘つきな傘音ちゃんは偽りのない表情でそこにいる。偽善者の私は彼女が来てくれたことがこんなにも嬉しくて、彼女と離れてしまう事がこんなにも苦しくて。そういう気持ちを全部騙して押し殺して、そうやって生きていこうと思っていたのに。


「なんで黙って行っちゃうんだよ」


 傘音ちゃんは振り絞るような声で話す。まるで雨に濡れた動物みたいで可愛い。晴れた日が良い天気だなんて誰が言ったんだろうか。今日は残酷なほどに青空だ。


「ごめんって、でも傘音ちゃんだって嘘つきじゃん。仲間だね!」

「ばか!」


 傘音ちゃんはやっと顔を上げたから、よせばいいのに私は彼女と目が合った。ほらやっぱり、涙と汗で、酷い顔。ぐしょぐしょに濡れた彼女の顔に、私はつい、ほんの短い時間、唇を噛んだ。傘音ちゃんの瞳の色はとても綺麗な黒色で、その中にぼんやりと私が写って。


「傘音ちゃん、私が居なくなったらまた一人ぼっちになっちゃうもんね!寂しい?」

「うるさい」

「うるさい話し相手も居なくなっちゃうね!ねえ今どんな気持ち?」

「知らないよそんなの」

「自分の気持ちなのに知らないなんて変なの~!やっぱり傘音ちゃんは変なやつだ!」

「だからうるせえっての!」

「じゃあ私から、良いこと教えてあげるよ傘音ちゃん!」


 晴れた日に降る雨の事を、狐の嫁入りと誰かが言った。


「私はとっても寂しいよ傘音ちゃん!傘音ちゃんとさよならするのがとっても寂しいよ傘音ちゃん!こんな気持ち初めてだよ傘音ちゃん!」

「私もだよ!」

「あはは!傘音ちゃんそんなに泣かないでよ~」

「その言葉、そっくりそのままあんたに返す!」


 輝く空はどこまでも青く、朝日はいつまでも暖かい。狐の涙は頬を濡らして、この世界の片隅で、私たち二人だけに降る。


「私、ちゃんとみんなに謝るよ。もう嘘は吐かないで、頑張ってやり直してみるよ!すごく怖いけど、そうやってこれからがんばって生きてみるよ!だから燈子!またね!またね燈子!また会おう!」


 鮮やかに照る太陽が、私と傘音ちゃんの頬を照らす。

 雫に沿ってきらきらと、輝いては、雨粒のように落ちてゆく。


「うん。また、また会おう。約束しよう、また会おう!またね傘音ちゃん!」


 降りしきる雫は緩やかに。この世界には永遠なんてものはない。流れた涙は土に還り、やがて新しい雨になる。生まれた人は死んでいき、出会ったあなたとはいずれ別れる。それだけがこの世界の本当だ。

 そういう本当の感情を持って、人は人として生きていくんだ。




***




 今日はすごくいい天気だ。君と最後に会った時と同じ、よく晴れた雨空だ。あの日の君はいつにも増して楽しそうで、いつものように楽しそうに笑っていた。耳をすませば君の曲が聴こえてくる気がする。もう口ずさめるほどに聴き慣れた君の曲ではなくて、君の頭にだけ流れている新しい音が、僕にも少し聴こえた気がした。そうやって君の音は続いていくんだ。誰かの中に響いて残って、誰かの背中を今日も押す。僕も君に背中を押されて、周りのみんなに腕を引かれて、やっと歩き始めるよ。



 僕はやっと少しだけ、大丈夫になったよ。

 君がいなくなった後も、色々なことが少しずつ、頑張っていけるようになったよ。


 今度あったら、ニュージーランドの話を聞かせてほしい。どんな景色を見て、どんな風に君が感動したか。何に触れて、何を綴りたいと思ったのか。そういうたわいのないことを楽しそうに話してよ。


 でもそれはいつか、ずっと遠い先でいい。

 でもいつか必ず、約束しよう。



「もう行っちゃうの?ゆっくりしていって?」

「いえ、今日は線香をあげにきただけなので」


 ゆらゆらと揺れる煙が、雨の香りに混じってゆく。遺影の彼女は笑ったまま、幸せそうに生きている。


「また来てね」

「はい。また」

「手代木くん!」


 彼女のお母さんに呼び止められて、僕は振り返る。


「あの子のわがまま、聞いてくれてありがとう」

「こちらこそです」


 僕は笑って歩き出す。

 そうして、一つの季節が終わってゆく。

 

 僕はやっと、彼女のいない季節を迎える。


 人は何のために生まれて、どうして死ぬんだろう。僕は自分に問うてみたけれど、明確な答えは分からない。でも僕は今日この瞬間のために生きていたいと思えるし、彼女はこの時間を遺して死んだのではないかとも思う。だなんて、格好つけたことを彼女が聞いたら彼女はどんな表情をするだろう。笑われるだろうか。きっといつものようにきゅっとした表情で笑うんだろうか。


「舌を切られた雀は、お爺さんが来るのを待っているの」


 笑ってそう言った彼女を思い出す。どうしてシタキリキツネなの?と僕が尋ねた時のことだ。彼女がSNSを始めたての頃、彼女がまだ生きていた頃。


「じゃあ狐は誰を待っているの?」

「さぁ、誰だと思う?」


 彼女はその時、そうはぐらかしたまま答えなかった。


 彼女はその答えを知っていたのだろうか。知らなかったとしても、信じたい答えがあったのだろうか。その答えは僕には分からない。その答えは彼女の中にしかなくて、それを僕が確かめる術はない。


 だから僕も待つことにしよう。


 いつか彼女がいない世界で、僕があらゆることが大丈夫になって、彼女のいない人生を全うして、その遥か先の未来で。


 いつかまた、笑う彼女に会える日を。

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