No.4 君に再生を捧げよう 作者:しろほし さん

 少年は、中年の男性の背後から手を伸ばす。顎を持ち上げて押さえ付けると、露わになったその喉元へナイフを突き立てた。


 一切の余分のない動き。その標的となった男性は、膝から崩れ落ちて事切れた。


「へえ、見事じゃないか」


 ふいに聞こえた感嘆の言葉と、拍手の音。少年はすぐに音の元へと距離を詰める。


 その一瞬の間に、考える。こいつをどうしたらいい?今まで殺人の現場を他人に見られたことはない。少年は、殺さない口止めの方法なんて知らなかった。


 その躊躇によって、ほんの少しの隙が生まれた。


 少年に詰め寄られた妙齢の女性は、その刹那に武装解除の一撃を叩き込む。少年の右手から弾かれたナイフはレンガ敷きの地面に落ちて冷たい音を鳴らす。少年が次の一手を考える間に、気付けば彼の体は宙へ浮いていた。


 女性は少年を背負い投げた。宙に弧を描いた細身の体が、地面に叩きつけられる。少年はすぐに体勢を立て直そうとするも、ねじ伏せられた体は動かない。


「今の殺しが初めてじゃないだろ? どうして殺す」


 頭上から降る声に、少年は無理やり顔を上げた。頬が地面で擦れ、口に砂利が入る。見上げた女性の顔は、月明かりの逆光に照らされていた。


「生きるため」


 少年のあまりに簡潔な答えを聞いて、女性は肩をすくめた。


「人を殺さないと死ぬのか、お前は。どんなビックリ人間だ?」

「そういうことじゃない」

「わかってるよ、んなこたぁ。大体想像はつくさ。言われた通りに標的を殺せば、毎日飯にありつけて、屋根の下で眠れると?」

「そうだ」


 女性はため息をつく。肯定されてしまうと、つまり逆に考えればそうしないと食事も睡眠もままならないってことだ。


「そりゃ、本当の意味では生きるって言わねえな」

「何でもいいから離せ」


 少年が女性の手を振りほどこうとすると、よりいっそう力をこめられる。腕の骨がギシリと音を立てる感覚に、少年は顔を歪めた。


「まぁ落ち着け、少し話そうぜ。お前、最近嬉しかったことあるか?」

「……ない」

「悲しかったことは?」

「ない」

「怒ったこと、楽しかったことは?」

「ない。どれもよくわからない」


 「だろうな」とこぼして、女性は落ちているナイフに目をやる。血が付いている。少し離れた場所に倒れている男性のものだ。男性の首から広がった血溜まりは少しずつ地面に染みて、少年の罪を刻んでいく。


「なぁ、私と一緒に来いよ」

「行かない」

「帰る場所があるのか?」

「ボスが待ってる」

「お前のボスが待ってるのはお前じゃなくて、都合のいい結果だけだよ」

「何でも構わない。お前とは行かない」

「どうしても、私の頼みを聞かない?」

「ああ、聞かない」

「そりゃ残念だ」


 女性が呟いた、次の瞬間だった。少年は思わずくぐもった声を洩らす。腕の骨が軋む。苦痛に歪む少年の顔を覗き込みながら、女性は力をこめるのを止めない。


「お願いじゃなくて命令にするとしよう。悪いな、少年」


 ゴキリといやな音を伴った瞬間的な鈍い衝撃の後で、痛みの波が少年を襲う。女性によって少年の腕の骨が折られたのだ。


「――くっ……」


 痛みに叫べば幾分か楽になるかもしれない。しかし少年はそれをしなかった。そうしたところで事態は好転しないことを予測した。どうあがいても女性に敵わないことを、この数分間で理解していた。


「おーよしよし、大人しくしてな。変に動かさなければ綺麗にくっつくぜ」

「お前……何が目的だ」

「ガキの保護だ」


 女性は口角を上げながら、少年を解放する。


「その怪我が治るまででいい。私に着いてきな」


 そう言って歩き出す女性は、少年に背を向けて歩き出す。少年は力の入らない左腕に目をやる。もしかしたら逃げることはできるかもしれないが、そうだとしてもこんな醜態を引っ提げて帰るわけには行かない。少年に残された選択肢は女性に付いていくことだけだった。



 目が覚めると、朝になっていた。カーテンを閉め忘れた窓から眩しい日差しが降り注いでいる。


 決して柔らかいとは言えないベッドの縁に座り、少年は昨晩のことを思い出す。変な女の家に連れられて、手当てをされた。そして無理やり風呂に入れられて、温かいスープとココアを飲まされて、ベッドに押し込められて――気付けば、今だ。


 左腕の波状の痛みに顔をしかめながら、立ち上がって部屋を出る。すると、ソファの上で眠り込む女性が目に飛び込んできた。


「……おい」


 何の気なしに声をかける。しかし女性は起きる気配もなく、すやすやと寝息を立てている。


 手持ち無沙汰な少年は、部屋を見回す。端的に言えば、荒れていた。文字が印刷された紙と写真が散らばっている。積み上げられた本の山を避けながらキッチンに行くと、小鍋にスープの残りがあるのを見つけた。ふいにぐう、と腹の音が鳴って、思わずその出所を押さえる。


「腹減ったのか?」


 背後からの声に、咄嗟に振り向いた。そこにはいつの間にか目覚めた女性が立っていた。寝癖のついた髪を手で漉きながら、あくびをしている。


「いや、そういうわけじゃない」


 少年の言葉とは裏腹に、腹の音は止まない。嘘をついたわけではなかった。ただ、少年は自分の体との対話が下手なだけだ。


「遠慮すんなって! ソファで待ってろ、今用意するから」

「……すまない」

「面白いこと言うなぁ。腕の骨を折った相手に何を申し訳なく思う必要がある?」

「未熟な俺が悪かった」

「未熟なのは当たり前だ、ガキなんだから。ほら、座っとけ」


 ソファへ向かう少年を尻目に、女性はキッチンへ立った。ガスコンロに火をつけ、トースターへ食パンをセットする。鼻歌交じりに朝食の準備をこなす女性に、少年は声をかける。


「昨夜のお前の身のこなし、普通じゃない」

「ああやって人と組み合ったことないのか?」

「ない。今まで標的は一撃で仕留めてきた」

「なるほどな。私は少しばかり護身術に長けてる自信はあるが、それでも一般人の範疇だよ」

「ゴシンジュツ?」

「護身術、わからないのか? お前のボスはどんな教育してきたんだよ」


 女性はテーブルに二人分のスープとトースト、サラダを並べる。


「まぁ、使い捨ての駒の一つってとこだろ。それじゃあいちいち護身術叩き込んだりしないよな。もし捕まった場合はどうしろって?」

「自害だ」

「ほうほう、ところでお前は私に捕まってのうのうと食卓を囲んでいるわけだが、それはいいのか?」

「捕まったわけじゃない」

「なるほど、意外と屁理屈がうまい」


 女性がカトラリーを渡して食事を促すと、少年はテーブルに手を伸ばす。


 湯気のたつ食べ物を口にするのは昨晩ぶりだが、その前はいつだったか覚えていない。スープを掬って口に運ぶと、温かさが喉を通って胃に落ちていくのがわかる。焼き目のついたトーストに乗せたひとかけらのバターは瞬く間に溶けて染み込んでいく。サラダの瑞々しいレタスは噛むたびに小気味良い音を鳴らした。一口ずつをこんなに味わって食べたのは初めての経験だった。


「おいしいだろ」


 少年の瞳に光がさしたのを見て女性は得意気に言った。少年ははた、と手を止めて首を傾げる。


「……わからないが、いつものとは違って、味がする。それに、また食べたいと思う」

「それがおいしいってことだよ」

「そうなのか」

「そうだよ」


 少年は納得したように小さく頷いた。


「……怪我が治ったら施してもらった分は返す」

「はぁ? 何言ってんだお前」

「誰を殺してほしい?」


 少年がいとも当たり前のことであるかのようにすました顔で放った言葉に、女性はむせ込んだ。


「誰も殺すなよ! どんな恩返しだ」

「俺にはそれしかできないが、それじゃお前は喜ばないのか?」

「喜ばねーよ!」

「ボス含め皆は喜んでいたが」

「ボスねぇ……」


 用意された食事がすべて二人の胃袋に収まったことで役目を終えた食器を片付けながら、女性は呟いた。眉をひそめて、言葉を続ける。


「お前のいた組織、アルマだろ?」

「そうだ。何故知ってる?」

「仕事上さ。私はジャーナリストでね、アルマの動向を探ってた」

「ジャーナリスト?」

「わからねえか。世の中のあれやこれやを取材して記事にする仕事だ。その辺に散らばってるのは仕事の資料なんだ」


 少年は女性の視線を追い、部屋中に散乱する紙と写真の正体を知った。少年にとって文字は飾りだった。世間に溢れる造形や模様の一部。それでもこの部屋に膨大な量の文字が存在していることだけはわかる。


「お前、ラッキーだったな。アルマはその内、クソみてーな実態を暴いてやる予定なんだ。私のところに来なければ、組織ごと明るみに出てお前も逮捕だった」

「……よくわからないが、やはり俺はお前に借りがあるんだな?」


 女性はため息をついて、淹れたてのコーヒーを啜る。


「バカ野郎、そんなもんはねーよ。私はガキであるお前を保護しただけであって、そりゃ大人の義務だ。何なら怪我させてる分、私は罰されるべきかもな」

「俺なんて何人も殺してる」

「そりゃそうするしかなかったからだろ。とにかく、借りだのなんだのくだらねーことは気にすんな! ガキは食って寝てさっさと怪我治せ」


 肩から吊った左腕を軽く叩かれて、少年は思わず目を瞑る。次に目を開くと、マグカップを突き出されていた。受け取ると、甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「ココア。昨日、気に入ってただろ」

「俺が? そんなこと言ったか?」

「目の輝きでわかるんだよ」


 女性の答えは腑に落ちないが、ココアを飲み、確かに気に入っていないと言えば嘘になると思い直す。


 少年は不思議に思う。何故俺のことがわかるのか。何故俺を匿ったのか。女性の思考、行動の意味、すべてが新鮮で理解できない。今まで周りにいた大人達とは全く違う。


 女性は少年のそんな思いを知ってか知らずか、少年を見つめて口を開く。


「お前見てると昔を思い出すんだ」

「昔?」

「私もクソみてーな大人の元で生きてた時期があるってことさ。――そういえばお前、名前は? 今さらだけど」

「1番」


 少年の躊躇いのない返答に、女性は呆れ顔を浮かべる。


「なんだそりゃ、名前じゃないだろ」

「そう呼ばれてた。一番殺した数が多いから」


 ――反吐が出る。女性は少年の背景を思い浮かべて、同情にも似た感情を抱く。


「……そういうこと。じゃ、お前の名は今からロビンな」

「ロビン?」

「そうだ。ついでに一つ、約束しよう。もう二度と人を殺すな」

「……それじゃ困る」

「なんでだよ」

「怪我が治ったら俺は組織へ帰る」

「あのなぁ、さっき言ったけど、アルマは私が壊滅させる。お前の言う帰る場所はもうなくなるんだ」

「……それは、もっと困る」

「これから私が何でも教えてやるよ。違う場所での生き方も。帰る場所は怪我が治ってから考えな」

「……わかった」


 少年は、女性を信用することに決めた。他の生き方があると言うならば、アルマに執着する理由はない。偶然、孤児であった彼が拾われて、偶然、殺しの才能があっただけ。少年は、自分の行く末に大して興味がなかった。


「いい子だ、ロビン。私はサラ。よろしくな」

「ああ」


 二人は握手を交わす。笑うサラに、少々戸惑いを見せるロビン。二人の短い共同生活の始まりだった。



 ――月日は流れ、半年後。ロビンの左腕は元通りになっていた。にも関わらず、二人はまだ一緒にいた。


 この半年間したことは、休養、リハビリ、そして学習。文字の読み方、食事の作法。社会に溶け込むために最低限必要なことを、ロビンはサラに教わった。


 他に誰も住んでいない古いアパートの一室。そこは、ロビンにとって初めて家と呼べる場所に変わっていた。


 すっかりロビンの日課となった棚の掃除中、ふと目に留まる写真。湖のほとりに立つ小さな家が写っている。その一枚だけが額装されていることに気付き不思議に思う。


 そこへ丁度、着替え終えたサラがやってきた。


「ロビン、今日は街へ出掛けるぞ」

「街へ?」


 今まで、外出はほとんどしていない。近所への買い出しへ付き合ったことはあるが、市街へ赴くのは初めてのことだ。


 それにしてもサラは、見慣れない格好をしていた。普段はシャツにジーンズが多いが、どういうわけか華やかなワンピースを着ている。


 つい最近習った、時と場を考えろというサラの言葉を思い出す。街というのはそういう格好をするものなのかと納得した。


「お前も昼間の人混みに慣れた方がいいだろ? 映画でも観に行こう」

「エイガ?」

「観りゃわかるよ! ほら行くぞ」

「待て。俺はこの格好でいいのか……?」


 ロビンは躊躇いがちに訊ねるが、それをサラは鼻で笑う。


「いいわけあるか。ボサボサの髪にラフすぎるシャツ! 私の横を歩くのにふさわしくねーな」

「す、すまない」

「まぁ任せな。これから私が見立ててやるからよ」


 そうしてロビンは、不適な笑みを浮かべるサラに半ば強引に外へ連れ出されたのだった。



「よしよし、いい感じだ」


 サラに全身をまじまじと見られ、居心地の悪さを感じる。ロビンは半端な長さだった髪を流行りのスタイルにカットされ、皺ひとつないシャツとスラックスを着させられ、ピカピカの革靴を履かされて、立ち尽くしていた。


「そうなのか? 動きづらいが……」

「心配するほど動くことはないから安心しろ。ほらこれ」


 サラに紙製のバケツを突き出されて、受け取る。バターの香りを吸い込みながら覗き込むと、ロビンの知らない食べ物が入っていた。


「映画といえばポップコーンだろ」

「ポップコーン……そういうものなのか」

「そういうもんだ。じゃ、中入るぞ」


 サラと過ごすと、知らない経験ばかりだ。それにどれも心が躍る。もっと色々知りたい――そんな風に思うことが来るなんて、ロビンは想像もしていなかった。


 サラに手を引かれて劇場へ入る。また一つ、新しい体験が増える。映し出されるヒューマンドラマを、ロビンは真剣に観賞した。



「で、どうだった? 初めて観た映画は」

「悪いが、よくわからなかった」


 二人は、汽車に揺られていた。帰るべき場所の最寄り駅に近付くに連れて、車内の人はまばらになっていく。


「なにぃ? 私イチオシの感動大作なのに! なんか他に感想ないのかよ」

「そうだな……出番の多かった男が、俺と同じ名だった」

「そりゃ、ロビンはあの主人公から名付けたからな。というかお前それ、感想じゃねーよ」


 サラはため息を落とした。あの名作を観て感動しないなんてと、心の中で大げさに落胆する。


「ほら例えば、ヒロインの弟が死ぬところ、泣けたろ?」

「サラは泣いたのか」

「そりゃもちろん。あんなに悲しくて切ない話あるかよ」

「悲しい……悲しいか……」


 いまいち煮え切らない様子のロビンの頭を、サラは軽く叩いた。ロビンはそれに応えるように、サラの瞳を見つめる。


「――お前さ、私が死んだら悲しいだろ?」


 サラの試すような物言いに、ロビンは暫し考えた末に口を開いた。


「……悲しいというのはよくわからないが、今、サラが死ぬのを想像してみた。どうにか死体を家に持ち帰るだろう。すぐ夕飯の時間になるが、きっと何を食べても味がしないし、眠りにつこうとしても寝付けない。ありえないことだが、二度と朝がやって来ない……不思議とそんな気がする」

「なんだそりゃ、よくわかってんじゃねーか」


 サラの手のひらでこねくり回され、整っていたロビンの髪はくしゃくしゃになった。サラはよく笑う。ロビンがよく知る大人たちの笑顔とは違う、純粋な表情。表も裏もない笑顔。それを見て、ロビンは自分の心が解けていく感覚を知った。


「ラストシーンの花、綺麗だったろ? 主人公がヒロインに、生きてくれと渡すやつ」

「花……ちょうどこんな色だった」


 窓を見つめる二人の輪郭は、黄金色に輝いている。窓から差し込む夕日が、すべてをその美しい色で縁取っていた。


「私の夢なんだ」

「夢?」

「ああ。あの花を咲かせること。あの花、珍しくてさ。古い映画だから、当時は流通してたみたいだが、今じゃなかなか手に入らねーんだ。その上、五年に一度、満月の夜にしか咲かねぇときやがる」

「それは難しそうだ」

「だろ? でもだからこそ夢なんだよ。私はある程度金を貯めたら、あの花をどうにか手に入れて、五年に一度咲くのを楽しみに、湖のほとりの家でのんびり暮らすのさ」


 ロビンは、サラの言葉に引っ掛かるものを感じた。記憶を探って思い当たったのは、今朝見つけた額装された写真だった。


「湖のほとりの家……家に飾ってある写真のか?」

「お、そうそう。実はあの家、数年前に売り出されてて、当時の貯金はたいて買ったんだ。いいところだぞ。人が寄りつかなくて」

「それは静かでいいだろうな」

「あの良さはロビンにもわかるか! 今度掃除しに行くとき連れてってやるよ。そう遠くはないんだ。今日行った街とは正反対の、駅ひとつないクソ田舎だけどな」

「そうか……それは楽しみだ」


 そう言ったロビンの口角がわずかに上がるのを、サラは見逃さなかった。やっとそういう表情ができるようになったのかと安心して息をつく。ロビンはもう、出会った頃とは違って、サラの言う本当の意味で生きていた。



 家に帰ると、ロビンは夕食の準備を申し出た。彼なりの、ささやかな礼のつもりだった。


「料理なんて教えてねーぞ」

「大丈夫だから任せろ」


 先にシャワーを浴びることにしたサラは「しゃらくせぇ」と文句を言いつつも、その頬を少し緩ませていた。


 サラが部屋から出たところで、ロビンは袖をまくり気合いを入れる。密かに勉強した料理を振る舞う、初めての機会だ。


 文字を勉強しながら、料理雑誌の記事内にある大量のレシピから、あらかじめサラの好みそうなものを抜粋しておいた。


 包丁の使い方、コンロの使い方、食材の処理――実践こそしたことはないが、毎日サラの手元を観察していたロビンには、最低限料理の体裁をなすものを作る力は備わっていた。


 見栄えしなくとも、味はまずまずだ。仕上げに鍋を煮込む音と、扉を隔てたシャワーの水音が部屋に響く。そこへ雑音が交じるのを、ロビンは聞き逃さない。


「誰だ」


 コンロの火を止める。部屋同士の扉は薄く、シャワーの水音は相変わらず響く。それと、外から微かに聞こえた、砂利を踏みしめる音。二人、三人――いや、もっといる。金属のぶつかる音も耳が拾う。


 緊張感が走る。こんな気分は久々だった。平和で穏やかな生活を知ったはずのロビンが、歩んできた暗い道のりへ振り返ろうとしている。


 包丁の握り方を変える。食材を切るためではなく、人を切るために握る。


 刹那、玄関の脆い木製ドアは吹き飛んで、それとほぼ同時に五人の男たちが押し入ってきた。顔見知りだった。とてもよく知る、ロビンの人生で一番見た顔だった。


「1番、探したよ」

「ボス……」


 アルマのボスである初老の男は、不適に微笑んだ。その一歩前で四人の若者が各々武器を構えてロビンを睨めつける。


「なかなか帰らないから迎えにきてしまったよ。どうしてこんなところへ?」

「……それは――」


 ロビンが言いかけたところで、続きはドアが勢いよく開かれた音に遮られた。


「そりゃ、ロビンの帰る場所はテメーらのところじゃないからだ」


 髪が濡れたままのサラが、ドアの向こうに立っていた。男たちは、構えた武器をサラに突きつける。


「そこのお嬢さん、見覚えがあるなぁ。ここ数年、うちの周りをうろついているネズミによく似ているようだね」


 初老の男は、サラを値踏みするように嘲笑する。そして突如として冷たい視線でロビンを射抜いた。


「ところでロビンって誰だい? 1番、君にそんな名前はないはずだ」

「……俺は……」

「ロビン! 耳を貸すな」


 サラが叫ぶと、初老の男は肩をすくめる。彼が手のひらをサラの方へ向けたのを合図に、若者四人はサラへ襲いかかった。


「サラ! ――ボス、やめさせろ!」

「おや、止めたいなら自分で止めたらいい。君はそういう人間だったはずだよ、1番」


 ロビンは、自分の爪が食い込んで血が滴るほどに左の拳を強く握る。その間にもサラは、自分より明らかに体格のいい男四人を鮮やかな身のこなしで翻弄する。


 ロビンはサラの体術が優れているのを身をもって知っていた。だからこそ手出しするのを躊躇したが――形勢は、一瞬で逆転した。


 初老の男が、懐から取り出したピストルをサラに向けたのだ。それに目をとられたサラは、すぐに男たちに捕らわれてしまった。


「さぁどうする、僕が殺そうか? ……それとも、君が殺すかい? 1番」

「クソ、ふざけんな……テメーらみたいなのがいるから、ロビンは……何も悪くないのに!」


 吠えるサラに向かって、初老の男はつまらなそうなため息交じりで口を開く。


「うるさいよ」


 乾いた音の後に、絶叫が響く。ピストルの弾はサラの腹部を撃ち抜いた。


「サラ!」

「1番、君が早く決めないと彼女は余計に苦しむことになるんだ」

「……俺……俺が――」


 ロビンの手と声は、震えていた。初老の男はそれをさも愉快そうに目尻に皺を寄せながら見つめる。男たちに捕らえられたまま痛みに悶えるサラの言葉は、うまく音にならずに不規則な呼吸となって宙に消えるだけだった。


「……俺が殺したら、喜ぶか?」


 そう呟くように溢したロビンの声は、もう震えていなかった。その様子に、初老の男は満足げな表情を浮かべる。


「ああ、それはもう嬉しいね。僕たちは心待ちにしてたんだ。帰っておいで、1番」


 ロビンの瞳に、冷ややかな光が宿る。それは半年前――殺人を生業にしていた頃と同じ目つきだった。


「ロビン、おま……やめろ……約束、しただろ……!」


 息も絶え絶えのサラを一瞥し、ロビンは一度、瞼を下ろす。


 ――次にロビンの視界が明るくなったときには、一瞬で部屋中が赤く染められた。


「……バカやろ……」


 嘆きが、涙と共に溢れる。五人の死体の中に立つロビンは、サラを抱えて立ち尽くした。


 ロビンの力の抜けた右手から、包丁が滑り落ちる。目を合わせようとしないロビンの胸を、サラは弱々しく叩いた。


「ロビン……なんで……」 


 ロビンはサラを優しくその場に下ろし、電話の元へ歩く。受話器の向こうで、救急隊員が事情を訊ねる。ロビンは少しも感情がこもらない声で機械的かつ正確に答え、受話器を置いた。


 外へ向かう。ドアが破壊された玄関からは、風が吹き込んでいる。


「……行くな……」


 背後から囁かれたサラの懇願に、ロビンは振り返らなかった。


「――スープ……作ったんだが、ダメになった。悪い」


 そんな言葉だけを残して、ロビンはサラの元を去る。


「ロビン……」


 誰もいなくなった部屋に、サラの振り絞るような声が虚しく響いた。





 五年前に半年間だけやめたタバコをふかしながら、サラはソファで項垂れる。サラはひとりぼっちの部屋で脱け殻になっていた。


 同居人がいなくなって五年が経つ。別れたあの日から、感じるものすべてに靄がかかったような気持ちを抱えていた。


 ガタン、と郵便受けから何かを無理に突っ込もうとしたような音が響く。隙間ひとつないくらいに紙の束が詰まっているそこに、また新聞でも届いたのだろう。


 そう思いながらも確認しに行く気力もなく、くゆる煙をぼうっと眺めていた。そこへ、ドアをノックするけたたましい音と共に、聞き覚えのある声が響いた。


「ちょっとぉ、サラ先輩! いますよね?」

「あー……鍵、開いてるよ」


 そう返した途端に部屋に押し入ってきたのは、後輩のエマだ。「煙たい」と文句を言いつつ、ズンズンとサラに歩み寄ってくる。


「もう! ポストくらい毎日見てくださいよ! 自分が新聞社の一員なのわかってます?」

「はいはい、悪かったよ」

「カーテンも開けずに、いい加減病気になりますからね? なんなんですかそのタバコの量!」


 エマの視線の先にある灰皿には、吸い殻が山になっている。サラはそこへ新たな一本を押し込みながらため息をつく。


「じゃあ、いつ病気になるかお得意の占いで見てくれよ」

「私のはそういうのじゃないんで!」

「そうかよ。それで、何の用で来た?」

「今頼んでる記事の締め切り、明日までですけどどうなってます?」

「ああ……そうだっけ」

「そうだっけじゃないですよ! まったく、サラ先輩が昔は仕事の鬼だったなんて信じられない。ほらこれ、ポストに貯まってた新聞と、私が毎日届けてた締め切り通知です!」


 投げ捨てるように机に置かれた紙の束に目を向ける。エマの言う通り、新聞とエマ直筆のカウントダウンが書かれたカードがくしゃくしゃになっていた。サラは何気なく手に取った新聞の一面に、目を奪われることになる。


「おい、これ……」

「え? ああ、名無しの殺人鬼!」


 そこには、ロビンが写っていた。警官数名に囲まれるロビンは、サラの知っている頃より大人びていた。しかしその瞳は出会った頃のままで、幼さと危うさを孕んで辺りを射殺すかのような視線を向けている。


「五年くらい前でしたっけ、犯罪組織のアルマを壊滅させたとか? そういえば先輩も昔、そういう事件追ってましたよねぇ」

「アルマを壊滅……?」

「先輩、その頃から引きこもってるから知らないんでしょ。一人でやったみたいですよ。組織全員皆殺し。けど、五年も経って、なんで今さら自首なんかしたんですかねぇ? 死刑に決まってるのに」


 どういうことだ。理解が追いつかない。サラは鼓動が早まるのを感じる。ロビンがそんなことをしていたなんて、知らなかった。


 ――それに、自首? 死刑?


 エマの言う通り、五年も前にやったことを、どうして今になって自首なんて。まとまらない思考に冷や汗をかきながら、写真の中のロビンを見つめる。


 そして、気がついた。左腕の、見覚えのないタトゥーの存在に。


「LAKE……」


 湖。五年。――唯一、サラだけがロビンの行動の意味を理解する。新聞の日付は、三日前。間に合わないかもしれない。


「――エマ、お前、月齢とか詳しいよな?」

「え? まあ、占いで使うので……」

「次の満月って、いつだ?」

「えーと、確か今日ですね」


 それを聞いた途端、サラはソファから飛び起きて慌ただしく着替える。窓に目をやると、日が傾いて、その美しい色で雲を染めている。


「悪いが、仕事はキャンセルする!」

「えっ? ちょっと先輩!」


 戸惑うエマを尻目に、サラは部屋を飛び出した。近くの停留所で、走り出そうとするバスを停めて乗り込む。揺られながら黄金色を見つめる最中、脳裏に浮かぶのはロビンと過ごした日々の思い出ばかりだった。



 辺りはすっかり夜の帳が下りている。サラはランタンを片手に、暗い森の中を早足で進んでいた。バスを降りて、もう三時間が経つ。タクシーのひとつも捕まらず、サラは自らの足で目的地へ向かっていた。


 木々を抜けると、小さな湖が広がる。水面に反射する満月が、風に吹かれて輪郭を揺らす。


 湖の畔に建つ小さな家は、かつて購入したものだ。長らく掃除にも来ていない。見回すと、玄関の前に何か置いてあるのがわかった。


 近付くたびに、それが何か理解していく。


 鉢植えに、一輪の花が咲く。華奢な葉と茎の上で、雄大な花弁は誇らしく開いている。微かな明かりの中でも確かにわかる黄金色は、サラが憧れた花そのものだ。


「バカ野郎……」


 サラはその場に泣き崩れる。流れる涙を止めようともせず、漏れる声を抑えようともせず、ただただ、泣く。


 静かな森へ響いて消えるそれは、まるで産声のようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る