第8話 至福

 若干気恥ずかしい会話を乗り越えた後、もう夜が更けていたため、アナスタシアは戻っていった。また仕事をするらしい。長く引き留めてしまったことを悔いながらも、彼女が奮闘している最中に自分だけのうのうと眠っている気にもなれずベッドには入らなかった。


 豪華なこの部屋には見合わない行動だとは分かっていながら、腕立て伏せや素振りなどの体力作りを始めた。長らく習慣として続けてきたことだ。最近は無駄に体力を消費するわけにもいかず抑えていたが、それが終わった今、我慢する必要はない。


 腕が悲鳴を上げてき始めたところで腕立て伏せを止めた。久しぶりだったからか、全体的に体力が落ちているような気がする。戦いに向けて緊張感を保っていたとはいえ、それで体力が万全でないというのはいただけない。遠征中はと思って控えていたのは失策だったか。


 息を整える。風呂の場所でも聞いておけばよかった。流石にこんな汗まみれのままベッドに潜り込む気にはなれはなれない。


 部屋を出ると、少し離れた場所で護衛らしき人が直立していた。


「すいません、浴場は何処にありますか」

「今使用人をお呼びいたしますので少々お待ちください」

「ありがとうございます」


 護衛の方が廊下の奥の方へと消えていき、使用人を伴って帰ってきた。アナスタシアからの伝言を取り次いでくれた使用人の方だった。


 そう言えば、使用人を呼ぶときはどうするかについても話を聞いていたのだった。態々護衛の方の手を煩わせることをしなくても良かったか。若干反省しつつ、使用人の方へ会釈をする。


「ご入浴されるとお伺いしましたが、ご用件はそれでよろしいでしょうか」

「ええ」


 承知いたしました、と静かに告げたその青年に導かれながら魔王城の中を歩いていく。入り口とは違う方面で、こうして内装を見れるのは面白かった。


 使用人の青年は相変わらず綺麗な姿勢で歩いている。


「すいません、名前を教えていただいてもいいでしょうか」

「ルカでございます」

「ルカさん、ですか。ありがとうございます」


 数分も経たずに、浴場に着いた。ルカはいつの間にか部屋を去っていて、脱衣所に一人取り残される。やはりこの時間で浴場を使う者は中々いないのだろう。


 服を脱いで、風呂場の中に入っていく。湯を浴びて汗を流し、全身を洗ってから、浴槽の中に浸かった。


 一日の疲れが抜けていくような気がする。浴槽内の豪華さも相まって気分が良い。むやみやたらに装飾してあるわけではないが、落ち着いた高級感があった。こんな広い浴槽を独り占めとは。これ以上の至福はない。


 幸せな気分に包まれながら、今後のことを考える。明日からはどう過ごそうか。基本的に自由にしては良いと言われたものの、何もしないで過ごすことは自分の性分には合わない。かと言ってアナスタシアの許可も得ないままに変に行動するのも気が引けた。


 いっそのこと仕事でも貰おうか。今の好待遇には釣り合わないかもしれないが、少しの罪滅ぼしぐらいにはなるだろう。何の対価もなくここまで良いものが用意されているこの状況では中々落ち着けない。


 そうして呆けていると、脱衣所の方からルカの声が聞こえてきた。普段より若干張った声だった。


「外から失礼します。召し物を用意いたしましたので、ご入浴後はこちらに置いておきますものをご着用なさってください」

「ありがとうございます」


 そう言えば、着替えの服を用意していなかった。脱衣所で服を脱ぎ始める前にルカが直ぐにどこかに行ってしまったのは、自分が着替えの服を持っていなかったからだったということか。それは申し訳ないことをした。野営中は着替えることなど滅多にできない。そのことも災いしていた。


 流石にそろそろ辛くなってきた。ふら付くとまではいかないが。長湯は嫌いではないが、得意でもない。


 風呂を上がって、脱衣所に行く。ご丁寧に、着替えの横にはタオルまで置いてあった。ありがたい。


 タオルの柔らかさに驚きながら、用意された服に着替えていく。もともと野営用の動きやすい服装でいたから、それを考慮してくれたのかもしれない。見た目の割には可動性のある服だった。


 着なれない服への違和感を持て余しながら、脱衣所を出る。そこではルカが待っていた。


「個室までご案内いたします」

「ありがとうございます」


 ルカに連れられて来た道を戻っていく。進む向きが違うとやはり景色も違って見えた。楽しいことには楽しいのだが、こうも広いと個々の部屋の場所を覚えられない。浴場までの道一つですら怪しいのだから、今後はどうなることやら。


 これからは自分で風呂まで行こうと思っていたが、ここまで色々と支えらえれているようでは無理そうだ。着替え然り、浴場までの道のり然り。少し落ち込みながら自室へと戻った。


「では、おやすみなさいませ」

「色々とありがとうございました」

「それが私たちの仕事でございますので」


 一人になった部屋の中で、ベッドに倒れ込む。


旨い飯を食って、体を動かして、風呂に入って、良いベッドで寝る。これ以上に幸せな状況は考えられなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る