閑話 アルステインの婚約者(中)  ブレン視点

 毎日浮かれていたアルステインだがある日、真剣な顔付で軍務省の執務室に入って来た。そしてこの世の終わりを告げるような口調で言った。


「イルミーレが帰国するそうだ」


 ああ、さもありなん。アルステインがあれほど情報をべらべらしゃべったのなら、早々に必要な情報が集まったのだろう。自業自得だ。何しろあいつらはスパイだ。用事が済んだなら長居は禁物だと思ったのだろう。


「どうする?スパイ容疑で全員拘束する事も出来るが?」


 私が言うとアルステインは目を吊り上げて怒った。


「馬鹿な事を言うな!」


 分かってる。言ってみただけだ。しかしさて、どうするのか。あれほど執着していたイルミーレ嬢をアルステインがあっさり諦めるわけが無い。こいつは諦めが悪く頑固で目的のためなら手段を選ばない男だ。知ってる。イルミーレ嬢を手に入れるために何をしでかすのか予想も付かない。


 案の定、アルステインは自分で夜会を開催してそこにイルミーレ嬢を招くと言い出した。招いてどうする?盛大なお別れの宴を開くのか?こいつがそんな事をするわけが無い。


「そこで私はイルミーレに求婚する!」


 ・・・馬鹿なのか。いや、こいつは勝算の無い事はしない。いや、あんまりしない。何か考えがあるのだろう。それにしても他国のスパイのしかも公爵とは天と地ほども身分が違う男爵令嬢を嫁にもらうなど出来る出来ない以前の問題だと思うのだが・・・。大体、スパイなのだから一人だけ帰国しないなどという事は許されまい。スパイ仲間に始末されかねないだろう。


 だが、私の役目はアルステインの希望を最大限叶える事だ。こうまでアルステインが決意しているならもう反対は出来ない。私はアルステインの言う通り、帝都の城門にシュトラウス男爵一家が密かに逃げないように期日まで出門を禁止する通達を出し、監視している諜報員にも伝えた。


 そして夜会で、アルステインのプロポーズは見事玉砕したらしい。それを知ったのはシュトラウス男爵一家が未明に帝都を出て物凄い勢いで街道を逃げて行ったという報告を聞いた後だった。俺はこの後起こる事を想像して頭を抱えた。


 案の定、昼頃に一応は出勤して来たアルステインは死人の様な顔で、おまけに私がシュトラウス男爵一家の逃亡を報告したら愕然とし、慌てて追い掛けようとして私に止められ、椅子に崩れ落ちた。机に伏せてデロンと溶けてしまいそうになっているアルステインに私は言った。


「あのな。シュトラウス男爵一家はスパイだと言ったろう?送り込んだスパイが一人、裏切って帰って来ない、なんて事になったら残りのメンバーはどうなるか、なんて事が分からないのか?」


 それを聞いてアルステインは驚いたような顔になった。どうやら本気でその事を考慮していなかったらしい。あるいはスパイである事を忘れていたのかもしれない。

 

「イルミーレ嬢一人残して他の家族が帰国したら、裏切りを疑われて家族は厳しく処罰されるだろう。普通に考えたら証拠隠滅の為に処分だな」


 私が言うと、アルステインの表情に納得の色が浮かんだ。そして、ぶつぶつと「それなら私は振られたわけではないのだな」などと言っている。


 私は呆れながらもようやく生気が戻って来たアルステインに言った。


「分かっただろう?結ばれようが無い相手だったんだって。諦めて仕事しろ。スパイが帰ったんだからワクラ王国の侵攻は近いぞ」


 するとアルステインは一瞬硬直し、何だか知らないが爛々とエメラルドグリーンの瞳を輝かせ始めた。う、こ、これはダメな奴だ。無茶苦茶な作戦を考案して暴走して私達部下を振り回し始める前兆だ。嫌な感じで笑うアルステインを何とか止めようとするが、もう手遅れだった。


「至急『忍者』を派遣してイルミーレを守らせよ!」


「に、忍者だと?!」


「そうだ。シュトラウス男爵一家を追跡し、そのまま守らせろ。あらゆる危険からイルミーレを守れ。ワクラ王国に帰り着いてからもだ!」


 とんでもない事を言い出した。忍者とは帝国の中でも皇帝陛下に近い一部の者しか知らない上級諜報員で、おいそれと動かせる存在ではない。しかし、確かに軍務大臣で皇帝陛下の代理として軍権を全て任されたアルステインなら忍者に命令する事が出来る。しかし勅許はあるのか?


「問題無い。勅許は既に頂いている」


 アルステインに止まる気は全く無さそうだ。


「それから、国軍の動員計画を立てよ。員数は戦闘部隊だけで3万」


 3万?多過ぎるだろう。ワクラ王国が総力を挙げても2万くらいしか動員出来ない筈だ。そんな戦力を揃えてワクラ王国を占領でもするつもりか?・・・まさかな・・・。


 愕然とする私の前で、入って来た時から一転、アルステインは上機嫌で仕事を始めた。私はどうしたものか、どうにかできないかと逡巡して立ち尽くしていたが、アルステインはそんな私を見て形容しがたい笑みを見せた。それはもう言葉は通じないだろうと思えるような狂気を孕んだ笑顔だった。アルステインのそんな顔は長い付き合いの私でも一度も見たことが無い。


「何をやっている。今すぐ手配しろ」


「り、了解いたしました!」


 こいつに今逆らったら大変な事になる。私はそう直感し、跳ね上がるように敬礼した。



 アルステインの言う通り忍者に命を与え、シュトラウス男爵一家を追わせて半月ほど後。ワクラ王国の王都から忍者の最初の報告が届いた。書面ではなく忍者は必ず口頭で報告する。情報流出を防ぐためだ。それを私が書き留めた。書き留めつつ私は困惑が深まるのを感じた。


「間違い無いのか?」


「もちろんです」


 忍者が間違った事を言う訳が無い。私は忍者に詫びて報告を続けさせ、全て書き留めると、忍者を待機させてアルステインの執務室に向かった。果たしてこれを報告して良いものか・・・。


「そのな、イルミーレ・ナスターシャ・シュトラウス男爵令嬢だが、実は男爵令嬢というのは真っ赤な嘘だった。どうも敵の軍務省に当たる役所の下働きをしている平民の女だったらしい。名はペリーヌ。歳は多分16歳。聞き込みをした結果誰に聞いても間違い無く平民で、貴族とは縁も所縁も無いそうだ」


 衝撃の事実だ。流石の私も驚いた。あの見るからに貴族然としたイルミーレ嬢が平民だとは、正直忍者の報告でも信じられない。


 しかし、私が恐る恐るそう報告するとアルステインは少し目を見開いただけだった。疑う言葉も出て来ない。あれ?リアクションが薄いな?しかし、彼女が平民だと分かった以上、彼女とアルステインが結婚出来ない事は明白になった。これでアルステインもイルミーレ嬢を諦めるだろう。私はある意味安心し、忍者の撤収を提案した。なのに。


「馬鹿なことを言うな。彼女が平民な事ぐらい、とっくに私は推察していた。その上で私は彼女に求婚したのだ。いまさら身分など関係無い!」


 とんでもない事を言い出した。マジか。こいつ本当に頭がおかしくなったのと違うか?確かにアルステインが他人の評価で身分よりも個人の資質を重視する事を私が一番良く知っているが、それにしても嫁は話が違うだろう。


「馬鹿で結構だ!彼女を手に入れるためなら私は何でもするぞ!イルミーレの護衛は続行!むしろ彼女に男共を近付けるな!」


 アルステインは叫んだ。駄目だ。これはもう止まらない。私はこの時点でアルステインがイルミーレ嬢のために何かとんでもない事をしでかすだろう事を覚悟した。



 ワクラ王国が軍を動かし、帝国との国境に向けて進撃を開始したのはイルミーレ嬢か帰ってから3カ月後の事だ。それを聞いたアルステインは喜び勇んで帝都を出征した。・・・一応は止めた。たかが7千の軍を迎え撃つのに軍務大臣の出征は必要あるまいと。しかしアルステインは聞かなかった。ああ・・・。私はこの時点でアルステインの狙いが読めてしまった。これは、ちょっと他の将兵には聞かせられないな・・・。


 ワクラ王国軍なぞ正面からでも相手ではあるまいに、アルステインは敵の伏兵を念入りに潰し、堂々進撃して戦う事無く敵を追い払った。そしてそのまま進撃して国境を越えようとした。参謀のフリッツ大佐もスラッグ大佐は訝しんでアルステインを止めた。そりゃそうだ。小競り合いでいちいち国境を侵していたらきりがない。国境を越えれば地の利は無く、補給は困難になる。万が一敵が策を弄していたら危険である。


 だが、私は知っている。アルステインはこの3カ月、ワクラとの国境近くに物資集積所を3つも造って大量の兵糧や武具を溜め込み、イルミーレ嬢を護衛するために潜り込ませた忍者を流用してワクラ王国の地理や軍の作戦その他の情報を洗いざらい手に入れている事を。国境防衛のためとは思えないほどの十分過ぎる数の輜重部隊を率いてもいる。準備は万端なのだ。


「問題は無い。私は今回の遠征でワクラ王国を滅ぼすつもりだ」


 驚愕の発言を聞いて、アルステインの腹心の将軍であるファブロン子爵が慌てて引き止めに入った。だがアルステインは聞かない。ファブロンが私の方を見て視線で援護を要請していたが、私は首を横に振った。絶対に止まらない。こういう時のアルステインは。ファブロン将軍だってアルステインがこれと決めた時の頑固さは知っている。溜息を吐いて国境の川に勇躍乗り入れたアルステインに続いた。


 ワクラ王国の王都までは何の障害も無かった。途中で敵の王太子を捕えたが、アルステインは見向きもしない。私はちょっとワクラ王国がかわいそうになって来た。アルステインにとってワクラ王国征服はついでなのだ。イルミーレ嬢を迎えに行くための。そのまま王都を囲んで、アルステインは近くの家を接収するとそこに本陣を置いた。最初から長期の包囲を想定していたので全く慌てる様子もない。


 ファブロン将軍などは「別にアルステイン様が駐留する必要は無いのでは?」とアルステインに進言していたが、アルステインは妙に上機嫌にそれを退けた。それはそうだ。奴の本当の目的のためには奴自身が入城しなければならない。途中、帝国本国からは皇帝陛下や宰相閣下から書簡が届いたがアルステインは皇帝陛下の勅書に一言だけの返事を返し、宰相からの書簡は黙殺した。宰相からの書簡は何度も届き、だんだん問責の文面が長くなったのだが、アルステインは見向きもしない。これ以上宰相との対立が激化すると色々面倒だからとここ最近は融和に努めていた筈なのに。帰国した後の事を考えると頭が痛い。


 ただ、アルステインはワクラ王都の城壁を眺めながら何というのか、切なそうな、どうしても譲れないものを感じさせる表情を見せていた。私もファブロン将軍も参謀たちもその顔を見ると何も言えなくなってしまった。


 アルステインは第二皇子でありながらも戦場に立ち、実績を積み重ね、それはもうアルステインが皇帝になるべきだという意見も物凄くあったのに、兄を皇帝にするために周囲を説得し、宰相の要求に応じてあっさり臣籍に降下した。以前一度だけアルステインは自分が兄である皇帝陛下を立てる理由を話してくれたことがある。そのために自分を律し私欲を抑え、宰相の無礼な要求にも耐えていた。彼が自分のために何かを欲しがるような事はほとんど無い。そのアルステインが初めて自分のわがままを通したのだ。それを叶えるのも私の仕事だろう。


 結局ワクラ王都は一カ月後に開城し、我々は軍を率いて入城した。意外な事にアルステインは直ぐにはイルミーレ嬢を迎えに行かなかった。そりゃ、人目も憚らず駆け付けようものならこのワクラ征服が女を手に入れるための私戦だという事がバレてしまうからだろうが、忍者にこっそり攫わせて自室に連れて来させるなり色々手段はあったはずだ。しかしアルステインはそうしなかった。占領統治が一段落ついてからだと言うのだ。この男はこういうところが妙に真面目なのである。


 しかしながら占領統治は怒涛の様な仕事量を際限なく処理する無限ループに近いものがあり、いつ落ち着くのか見当もつかない有様となった。半月ほど経ち、アルステインは遂に音を上げた。


「何とかならんのか?直ぐそこにいるのに会えないなんて酷いではないか!」


「馬鹿たれが。自業自得だろうが。諦めて我慢しろ!」


 私は言ったものの、アルステインがどれほどイルミーレ嬢と会いたがっているかを知っているのだから、私だって可能なら会わせてやりたい。私は王宮をその日だけ無人に出来るように色々手配した。参謀たちも何かを察したのだろう。協力してくれた。王宮を無人にし、忍者を手配し、シュトラウス男爵を召喚して根回しをし、イルミーレ嬢が万が一帝国軍の人間に見られた時にごまかせるようにあえてイルミーレ嬢が汚れた服でやってくるようにした。そうしてようやくアルステインとイルミーレ嬢を再会させる事が出来たのである。私がそこまでやってやったにも関わらず、アルステインはイルミーレ嬢が泣き出すと私を部屋から追い出した。あの恩知らずめ。


 アルステインは用意周到な事にイルミーレ嬢に「シュトラウス男爵令嬢」の身分をちゃんと用意していた。フレブラント王国の王太子は私達が士官学校時代に帝国に留学していたことがあり、親交があったのだ。その王太子に依頼したのだという。王太子は留学中に羽目を外し過ぎて私たちが色々後始末をやってやったことがある。その借りを返してもらったのだろう。フレブラント王国まで王都から使者を出すと往復に二カ月は掛かる。そのためイルミーレ嬢が帝都に滞在している内には身分証明書が準備出来なかったのだと思われる。


 シュトラウス男爵、を名乗っていた王国の貴族には身分保障の約束と共に、イルミーレ嬢の事を口外しないように言い含めた。消してしまった方が良いのではないかと思ったのだが、アルステイン曰くイルミーレ嬢は彼に懐いていて、イルミーレ嬢の心証を悪くしたくないから消したくないとの事だった。シュトラウス男爵は神妙な顔で口外しないことを誓った。まぁ、帝国軍駐留部隊に配属して監視を付ければ良いだろう。


 イルミーレ嬢が本当にシュトラウス男爵令嬢になった以上、彼女を王国に残して置くわけにはいかない。まさか下働きには戻せないし、どこかに囲っておいても存在が知れたら大変な事になる。何しろシュトラウス男爵令嬢は現在、帝都の公爵邸で療養中だという事になっているのだから。実は今も王国兵部省に出入りしている貴族士官が「あの男爵令嬢を思わせる下働きの女性がいる」と噂していたらしい。色々危なくてこれ以上王国に置いてはおけないのだ。


 私は忍者に護衛と準備を命じ馬車を手配した。王宮の車寄せに出て来たアルステインとイルミーレ嬢は、見ているこちらが恥ずかしくなるくらいベタベタしていた。見ると、イルミーレ嬢の左手薬指に巨大なエメラルドの指輪が輝いている。マジか。本当に婚約したのか。男爵令嬢だってお前の嫁には全然身分が足りないだろうに。


 二人はこっちがもう帰ろうかと思うくらい長いこと別れを惜しんでいたが、漸く身体を離すとイルミーレ嬢は馬車へと向かった。と、イルミーレ嬢は私に気が付き、輝くような微笑を浮かべて私に頭を下げた。


「ワイバー様が色々手配して下さったと聞きました。ありがとうございます」


 顔を上げたイルミーレ嬢の表情は貴族のものではなく、平民の、そこらにいる街娘のものだった。あの得体の知れない輝きでは無く、純粋な感謝が瞳に満ちている。私は思わず言葉に詰まった。


「あ、アルステイン様のご意向に沿っただけの事。感謝されるような事では無い」


「それでも嬉しいです。これからも宜しくお願いしますね」


 笑顔の余韻を残してイルミーレ嬢は馬車に乗り込んだ。ぐ、私はちょっと胸の動悸を抑えるのに苦労した。あの、人の心の中にスルッと入ってくるのは一体なんなのだ。今にも追い掛けて行きたそうなアルステインの背中を押して執務室に戻りながら、私は我が主君が、どうもとんでもない女性を妻に定めたのではないかという直感を覚えていた。



 アルステインはワクラ中を駆け巡ってワクラを帝国に編入する方策を次々と実行して行った。


 アルステインは真面目で、いつだって真摯に物事に取り組む。あいつはワクラが豊かな可能性を持ちながら、体制や投資の不備によって発展出来ていない現状を知ると、本国から経済官僚を呼び寄せて統治機構の充実を図り、自分の資産を使ってまで貿易港整備に投資し、ワクラの貴族や商人に面会して人材の発掘に努めた。


 その結果、ワクラは急速に帝国化し、アンバランスだった経済は是正され、金も物資も回り出して僅か数ヶ月で見違えるような好景気になったらしい。官僚達が目を輝かせてそう言っていた。「アルステイン様は経済もお分かりになるし、政治家の才能がおありになる」大絶賛だ。


 これまでアルステインはあえて政治には関わって来なかった。自分の役目は軍事であると弁えていたからだ。しかしワクラの占領統治は単なる軍事行為では無い。アルステインはうっかりこれまで自分が引いていた枠を踏み越えてしまったのだ。


 アルステインがなぜ政治から距離を置いていたのかと言えば、皇帝陛下がいるからだ。皇帝陛下に政治全般を任せ、自分は軍事でその御代を支える。それがアルステインの望みだったからである。


 アルステインが軍事だけでなく政治も有能であると知れ渡ればどうなるか。病弱でまともに政務が執務出来ない今の皇帝陛下よりアルステインの方が皇帝に相応しいという声が上がるに決まっている。だからアルステインはこれまで政治に手を出さなかったのだ。


 ワクラに来ている官僚や、元々王国に勤めている役人にとって、アルステインは既に「有能な国王代理」と見做されており、彼らは喜んでアルステインにワクラに以前から抱え込まれていた諸問題を持ち込んできた。これまでは王国の政治体制や政府の無能ゆえ放置されていたものである。アルステインなら解決してくれると見込まれたわけだ。そして実際、アルステインは真摯に問題に取り組み、解決、もしくは解決の道筋くらいは付けてみせた。


 その結果、王国の連中は喜び、アルステインに感謝し、更なる課題を持ち込んで来た。それを片付ければまた次の懸案。その内占領統治で改善した為に生じた新たな問題も加わり、アルステインはワクラの統治機構に組み込まれて仕事に埋もれ始めた。


 こいつ、帰る気があるのかよ、と私が内心思ったほど熱心に仕事に取り組んでいたアルステインだが、ある時、ハッと気が付いたらしい。


「もしかして、この仕事は、終わりが無いのではないか?」


「まぁ、そうだな」


 愕然としたアルステインだが既に殆ど手遅れだった。どうやら帝国本国ではアルステインがワクラで独立を図っているという噂すら流れているらしく、宰相からはその真偽を問う書簡が届いていた。


「馬鹿な事を言うな!私は帝都に早く帰ってイルミーレに会いたいのだ!」


 とアルステインは叫んでいるが、何もかも放擲して帰国しないのがアルステインの真面目な所で、ある意味あいつの限界でもある。


 アルステインの焦りを助長したのが、イルミーレ嬢からの手紙だった。最初の内はニヤニヤと気持ち悪い顔で手紙を読み、私に惚気ていたアルステインだが、段々イルミーレ嬢が手紙で寂しさや不安を訴え出したらしく「早く帰らねば!」と慌てている。私は仕方無く、アルステインが抱えている仕事を他人に振り分ける事を提案した。アルステインは自分の仕事を他人に押し付けるのを嫌ったが、この時ばかりはそれ以外に方法が無い事を理解したようだ。


 そうして引き継ぎ作業を続けていたある日、届いた手紙を読んだアルステインが真っ青になった。


「エルグリアが本気で怒っている。マズい」


 エルグリアとはアルステインの侍女だが、あいつの事を赤子の頃から育てたという、事実上の姉とアルステインが言う存在だ。アルステインが頭が上がらない数少ない人間の筆頭である。その彼女が、イルミーレ嬢がアルステインを恋しがって泣いているのに憤激して、アルステインに「もう帰って来なくて良い、来ても屋敷に入れてあげません!」と書いて寄越したらしい。彼女ならやりかねない。それにしても、あのアルステイン原理主義者が、イルミーレ嬢をアルステインより優先するような事を言い出すとは驚きだな。エルグリア女史までイルミーレ嬢の魔力に捕らわれたと見える。私はイルミーレ嬢への警戒を新たにした。


 アルステインはここに来て遂に仕事を放り投げてでも帰国を優先する事にしたようだ。まぁ、粗方引き継ぎは済んでいるし、優秀な官僚もいるのだ。何とかなるだろう。何とかなるという見切りが出来ず、キッチリ何でもやりたがるアルステインには良い経験になるだろう。あいつはもう少し、他人に頼る方法を覚えた方が良い。


 アルステインは一人で帰国するつもりだったようだが、こんなこいつを放置は出来ない。私も強引に馬車に同乗した。伝令用の小さな馬車でワクラの悪い道を出来得る限りのスピードで疾走する。なんと、アルステインは昼夜兼行での進行を指示した。マジか。馬鹿なのか。帝都までの道中には伝令用に駅が設置してあり、そこに替え馬と御者を予め用意させておいたらしい。ムダに用意周到過ぎる。次々馬と御者を替え、私達は小用で降りる以外は馬車から降りない。食事は馬車の中でパンを齧り、睡眠も爆音の馬車の中で取った。寝られるわけが無い。


 正直、私は途中でくじけそうになったが、アルステインは何だか目をギラギラさせて一言も弱音を吐かなかった。兎に角こいつは本当に諦めない男なのだ。


 そして到着した帝都の公爵邸。アルステインは元気に飛び出していったが、私にはとてもそんな気力は無く、半死半生の体でヨロヨロと馬車を降りる。公爵邸のエントランスではアルステインとイルミーレ嬢の感動の再会シーンが繰り広げられており、公爵邸の上級使用人は皆、涙さえ流している。「奥様、良かったですね!」と侍女が感極まって泣き崩れる有り様だ。貴族出身者ばかりの公爵邸の上級使用人が完全にイルミーレ嬢に心酔しているではないか。僅か数カ月でこの有様は一体どういう事だ。


 緑のドレスで嬉しそうにアルステインに抱き付くイルミーレ嬢は、どこからどう見ても貴族令嬢にしか見えない。事実を知っていて、ボロ服着た姿を見ている私でもだ。


 本当にこんな得体の知れない女性を主君の側に置いていて良いのだろうか?私のイルミーレ嬢に対する警戒心は高まるばかりだった。




 


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