最終話 後編『真実に隠された愛の形』

1


静寂の中、低いモーター音だけが響いている。

人に気付かれずに舩に近ずくことなど、どう考えても不可能なことである。

「オヤジさんからの差し入れ、頼まれたから持って来てあげたわ!」

綾乃は、わざと大きな声を出すと、自ら自分の存在を明らかにした。

「お前は、誰だ! 秋山は、どうしたんだ?」

「いま、向こうの浜で女の子の到着を待ってるところよ!」

「そんな事聞いていないが・・・、」

「とりあえず、舩に上げて…、じゃないと、後であなた後悔することになるわよ」

後部デッキには、男二人がいた。あとの三人の姿は見えない。

船尾に取り付けられた『スイムフラップ』が下ろされた。『Reebok』が予想通り役にたった。革靴では、いかにも不自然であり、舩の上での安全を考えれば心許ないものであったのだ。


「随分と大きな舩ね。普段からこんなに大きいの必要なのかしら?」

「そりゃあ、外洋に出て、パーティを開くことも多いしな・・・」

「その場合、当然、クスリが必要となるわね…」

「余計なことを言うんじゃない!それより、何を持って来てくれたんだ?」

背の高い方の男が、吠えた。

「これよ‼」

綾乃は、素早くホルスターからS&WM686を引き抜くと、男達の眉間に交互に照準を合わせた。

「私は、最近威嚇の練習はしていないの…、一発で致命傷を負わせる実践訓練ばかりなの…」

「お、お前は、何者なんだ?」

「自己紹介が、遅れたわ。私は、加賀町署強行犯係 成宮綾乃…」

「け、警官だと? こんな女警官がいるものか? 俺たちを甘く見るなよ!」

左側の背の低い男が綾乃の左腕を掴もうとした時には、すでに綾乃の長い左足が宙を舞っていた。容赦なく男の顎に食い込むと、鈍い音を立てた。

「甘く見たのは、どちらかしら?」

右側の男の眉間に、銃口を突きつける。

「あとの三人は、何処なの?」

「キャ、キャビンに二人と・・・、あとの一人は・・・」

男の眼が、不自然に上を見上げている。


突然! フライブリッジ(上部の操舵席)から銃声がすると、綾乃の足元に着弾した。チーク材で出来た床が弾けると、細かく飛び散って行く。

リボルバーを片手で構える男まで、20mはありそうだ。ライフルであれば、勝ち目はなかったのだ。綾乃は、身体を安定させるため大股を開くと、両手でグリップを握り男の右肩に照準を合わせた。その間、またもや銃声音が響くと、綾乃の左耳横を空気を切り裂くような音をたてながら、鉛玉が突き抜けて行った。チャンスは一度切りしか残されていなかった。綾乃は、男の動きが止まった一瞬を逃さず、トリガーを引いた。男の身体が、スローモーションのように無様に後方にのけ反っていく・・・。 


綾乃は、もはや戦意を失っている目の前の男に手錠をかけると言った。

「キャビンの扉を開けたら、警官は死んだって言うのよ。分かった! そうしたら、 あなたの命までは奪わないから…。家族のために、生き伸びたほうがいいと思うけど…」

「わ、分かりました・・・、」そして、男はキャビンの扉を開けると言った。

「け、警察官は死んだ・・・。だから、 出て来ても・・・」

その声に安心したかのように、痩せた背の高い男がゆっくりと出て来た。月明かりが届かず、男の顔を見ることが出来ない。


 2 


「やはり、綾乃だったな・・・」

綾乃は、男の声に覚えがあった。懐かしい声である。

「…柏木さん?………」

「ああ、『逗子マリーナ』以来、半年ぶりだな・・・」

「元気だったの?…」

「お陰様で、こうしてね・・・。中の一人は、眠らしておいたから、応援部隊がやって来るまで、全員下のベッドルームにでも入れて置いたらどうだ?」

「ええ、そうするわ………」

二人は、協力し合って作業を終えると、キャビンで向かい合った。長い沈黙が続くが、二人は見つめ合ったままである。

綾乃が口火を切った。

「…この舩の所有者は、誰なの?…」

「たぶん個人ではなく、法人扱いにしてあるはずだよ。経費で落とせるからね」

「じゃあ、その法人って…」

「ハマシングループの何処かだろうな・・・」

「柏木さんは、あまり詳しいことは知らないってことかしら……」

「そうだな。こいつらを単に監督するのが、俺の役目だから・・・」

「黒田の幹部から、あなたが足を洗いたがっていると聞いたけど…」

「ああ、綾乃とあの一件があってからは、俺はそれだけを考えていたんだ」

「どうしてなの?…」

「好きになった女が警察官なんだから、迷惑を掛ける訳にはいかないさ・・」

「私も…、あなたとの事は忘れていないわ……」

「この歳になって、こんな気持ちになるなんてな・・・」

「歳は関係ないと思うけど…、私たちには、障害が多すぎるわね」

「ああ、確かにそうだ。若い頃のように、はずみで、一緒になる訳にはいかない」

「堅気に戻るためにオヤジさんが出した条件は、私の命を奪う事だったって?」

「そうだよ。出来ないことを承知で条件を出して来たんだ」

「だったら…、私がそのオヤジさんを絶対捕まえてあげると言ったら?…」

「そんな、無理はさせられない。銃とか肉体で解決出来るものではないんだ。この国の持つもっと構造的な問題なんだよ」

「そのオヤジさんの正体って…、『ハマシンG』の総帥であっているわよね?」

「いや、綾乃は誤解しているよ。綾乃の想像している人物は、もしかしたら小谷光秀じゃないのか?」

「えっ、違うの⁉…」

「ああ、もっと、上の人間だよ。確かに俺は、直接指示を受けてはいたが、それは一方的なもので、顔を見たことさえないのさ」

「ほんとに?……。ショック過ぎて、言葉も出ないわ…」

「ところで、綾乃はどうして今回『マトリ』がやりそうな捜査をしているんだ?」

「警察官として捜査内容を話すのは憚れるけど……、川端捜査官が遺体で見つかったことは、当然知っているわね。あなたも、当事者の一人だと聞いているから…」

「ああ、確かにその現場にいたのは確かだよ。しかし、俺じゃない。これは誓って言えることだ。何故、警察に知らせなかったと、言われればもちろん道義的な責任はあるさ。でも、闇の人物に囚われている身にとってこれは、現実的ではないんだ。

そこは、分かって欲しい」


「分かったわ。責任は問わないから、何が起きたのか正直に話してくれるかしら」

綾乃は、信じていたのだ。柏木の眼を見れば、明らかである。それは、野島耕介も宿している弱者に対する愛ある光であった。いつしか、二人が同一人物のように綾乃には見えていた。

「あの日、俺がオヤジに指示されて、夜の10時ごろマリーナに着いた時には、  すでに、オーナーの滝本と黒田組の幹部がクルーザーの上で待っていたんだ。そして、キャビンの中には、川端捜査官が結束バンドで後ろ手に縛られ寝かされていた。

「川端さんに、結束バンドをしたのは誰なの?」

「多分、黒田だろうな。もともと舩にあったらしいが、俺には滝本がそんなことをするような人間には見えなかったからな」

「捜査官の殺害命令は出ていたのかしら?」

「出ていないはずだ。少なくとも、俺は、聞いていない。                  人間なんてよっほど追い込まれていなければ、平気で人を殺すなんてできない相談だよ。そもそもオヤジの目的は、捜査官から捜査状況を聞き出すことだった。結局口を割らなかったがな。川端捜査官には、覚悟が出来ていたんだろう。膠着状態が続いて、これ以上は、無駄だと判断した俺は、何とか口実を付けてバンドを外してやったんだ。黒田の幹部だけは、反対していたけどな・・・」


「川端捜査官と、麗香さんとの本当の関係は?…」

「これは、滝本オーナーもしつこく聞いていたことだが、川端さんは、自分が捜査官であることさえ、最後まで認めなかったんだ。これは、組織を守ろうとしたと同時に、麗香さんを守るためでもあったと思うよ」

「じゃあ、麗香さんは、マトリに利用されたのではなくて、川端さんに本当に愛されていたのね」

「そうだ。麗香さんは、真実の愛に包まれていたと、言っていい・・・」

綾乃の眼から突然涙が溢れ出した。それは、頬を伝うと白いシャツに透明な染みを作って行った。

「だったら、どうして川端さんが亡くなることに………」

「それは、我々が目を離した一瞬の出来事だった。手足が自由になった彼は、自ら水の中に飛び込んで行ったんだ。自分が泳げないことを、知っていながらね。

不思議なのは照明が暗いせいでもあったかも知れないが、結局は、彼をいくら探しても見つからなかったことだよ」


綾乃が初めて知る真実であった。

「…、…自分から……………」

言葉が、出ない。涙だけが熱く流れると、やがて、嗚咽に変わった。

「………、麗香さんを守ったのね………、真実の愛の力で…」



 3


 浜辺には、すでに赤色灯を点けた数台の車が集まっていた。何本かのヘッドライトの光りがこの舩を照らしている。

柏木が両腕を、綾乃に差し出した。

「綾乃、俺のせいだよ。彼を自由にさせたことで、結局は命を奪うことになってしまったんだからね」

「…それは、川端捜査官の意思を尊重してあげた方がいいと思うの。少なくとも麗香さんの命を救うことになったのだから…」

「綾乃・・、強制されたとはいえ、覚醒剤が入っているらしい荷が無事回収されることを監督した俺の罪が消えることはないよ」

「う~ん、私は、マトリでも、県警の薬取でもないし…、加賀町署の強行犯係だから…、でも、分かったわ…。私の職質に対する答えによっては、逮捕するわよ。    覚悟して!」

「・・・まあいい、質問してくれ」


「あなたは、別れた奥さんに、手を挙げたことがあるのかしら?…」

「う~ん、たぶんないだろう。いい夫だったとは言えないけどな・・・」

「次の質問よ、あなたは、娘さんのいい父親だったの?…」

「ああ、そう思ってくれていると嬉しいけどな。自分なりに頑張ったつもりだよ」

綾乃は、柏木の手を強く握りながら言った。

「合格だわ。私には、あなたを逮捕する理由が無くなったわ…」

「綾乃・・・」

「いい? 約束して! 一年後の今日、大桟橋の入り口にある『Blue』っていうbarで会いましょ。ボトルを入れて置くから、あなたの名前でね…」

「分かった。綾乃、約束しよう。それまで、お互い無事で居ような・・・」


綾乃が、空に向かってトリガーを引くと、乾いた音が海の上を流れて行った。

その流れの中に、柏木は身を投じると、海はすぐに何事もなかったかのように穏やかさを取り戻していた。


綾乃の携帯が鳴った。古畑巡査部長からである。

「警部補、いま銃声がしましたけど・・、大丈夫ですか?」

「大丈夫よ!一人取り逃がしたけど、こっちで4人捕まえているから……」



 4


 『エンジェル』のオーナー滝本崇継は、同日の午前中『横浜海上保安部』での簡単な取り調べが行われると、午後から県警『国際薬物取締り課』に身柄を移された。これは、『エンジェル』を中心とした覚醒剤の流れを暴く本部が県警に作られていたからであった。この段階になっても『麻薬取締部横浜分室』の参加はなかったのだ。したがって、滝本の取り調べは、やはり城之内警部補が中心となった。

「滝本オーナー、そもそもあなたが薬物の仲介を始めた原因は何なんですか?」


「・・・10年ほど前からかな・・、すでに店の方は赤字経営だったのです。それでも、黒田組は単なる用心棒的な存在で、ただ酒と少額のみかじめ料を払うだけで共存してきた存在だった。こういう商売だと、用心棒は必要だし、関係を絶つには難しかった。しかし、黒田がクルーザーの購入を持ち掛けて来て、私がその口車に乗ってしまってからは、それこそ火の車となってしまった。最初は、ホステスたちの気晴らしにでもなればと考えていたんだが・・・。だが実際は、ローンの返済と、維持費に莫大なお金が必要となったのです。結局、黒田組の息のかかった街金から、さらに高金利で金を借りる様になってしまった・・・」


「滝本さん、我々の調べたところでは、その街金は、『ハマシンファイナンス』のダミー会社だと、判明しているのですが・・・」


「ええ、刑事さんの言う通りなんだ。最初から仕組まれていたという事だよ」

「仕組まれていたとは、どういう意味ですか?」                    城之内は、証言を引き出すためにあえて質問した。


「・・それは、クルーザーを使って私に覚醒剤の仲介的な荷渡しである『瀬取り』を

やらせることですよ」

城之内は、いよいよ核心に触れるため身を乗り出すと、滝本に聞いた。

「滝本さん、確かにあなたは利用されたのです。それは、間違いない。その構造的流れを明らかにするために、誰からの指示であったのか、話してもらえませんか?」


「・・・それは、無理だ。黙秘するしかない」滝本は、はっきりと断った。

「滝本さん・・・、直接的には、黒田組の指示で動いたのでしょうが、『ハマシンファイナンス』が絡んでいることを考えると、もっと上に黒幕と言える人物がいるはずですが・・・」        


「・・・仕方がないのですよ。この関係を明らかにしたなら、私の命が奪われることになるんです。私の店自体も無くなってしまう。クスリの仲介役ぐらいで捕まったとしても、たかだか数年でしかない・・・。刑事さん、分かって下さい・・・」


「分かりました。今日のところは、これで良しとしましょうか。あなただけを責める訳にはいきませんから・・・。黒田組の幹部の回復を待って、県警はこの点を厳しく追及していくつもりです。   

滝本さん・・・、これから、水上警察の方へ行ってもらいます。あなたには、横浜分室の川端捜査官に対する監禁および暴力行為、そして死体遺棄の容疑が掛かっていますので・・・」 

「死体遺棄だって・・・、どこに、そんな証拠が、嘘もいい加減にしてくれ!」

滝本は、強く否定をした。


 5


夕方になると滝本は、『大桟橋埠頭殺人事件捜査本部』と看板が書き換えられた横浜水上警察署に護送された。当初、取り調べ担当官は、刑事課長水島雄介の予定であったが、水上署長からの通達で捜査進展の功労者である加賀町署強行犯係警部補成宮綾乃が水島に代わって担当することになった。これは、加賀町署に配慮したものであると噂された。



「滝本さん、成宮です…」

「あっ、あなたは・・・」

「そう、ベイサイドマリーナで会ったわね」

「何が聞きたいんですか・・・」

「…私は、あなたを誤解していたわ。覚醒剤に手を染めたのも、自分に対する強欲からだと思っていた…。でも、話を聞くほど、実像は違っていた。                                   あなたは、従業員であるホステスさん達を、とても大切に思っているオーナーだった。10年前から赤字だったにも関わらず、誰一人、辞めさせることはなかったわね」


「なぜ、そんなことまで・・・、」

滝本の虚勢が崩れると、眼に涙が溢れだしている・・・。


「それは、あなたの生い立ちが関係したのだと思うわ。東北の寒村育ちだったあなたが横浜で初めてついた仕事が、キャバレーのボーイだった。そこで見たものは、都会に出て来た地方出身の女の子の使い捨てられていく現実だったそうね。

本来、あなたは優しい人間なんだわ。自分が、経営者になった時には、絶対従業員を大事にするんだと言っていたらしいわね。これは、6年前に辞めた渡邊亜里沙さんから紹介された先輩ホステスさんから先ほど聞いた話なんだけど・・・、」


 *


実際、水上署の水島課長から、滝本の取り調べを依頼された際、綾乃は滝本に関して何も知らないことに気が付いたのである。川端捜査官の死の真相を、多面的に捉える必要性を感じたのだ。柏木から聞いた証言が、背中を押したのであろう。


「亜理紗さん、成宮です…」

「あっ、先日はごちそうさまでした。また、よろしくお願いします。

ところで先輩、どうしましたか?」

「…私が先輩? まあいいわ、。それがね。滝本オーナーを夕方から聴取するんだけど…」

「えっ、逮捕されたんですか?」

「そうよ。で…、私は、滝本オーナーが殺人の出来る人格か、どうか、を予め調べておきたくて…、それで電話をしたの」

「…それでしたら、長くお店のママをやっていた早春(さはる)ママが適任だと思いますよ。私は、オーナーとあまり関わることがなかったから…」

「助かるわ、亜里沙さん」

「直接綾乃さんからだと、びっくりしそうだから、私が電話するように伝えます」

「ありがとう。恩に着るわ…」

その後、早春ママからの電話で、綾乃は詳しい話を聞いたのであった。


 *


「現場は、『ベイサイドマリーナ』で間違いは、ないわね?。これは、県警の城之内捜査官が採取したマリーナの海水と、川端捜査官の肺の中から見つかったプランクトン量が一致しているから、すでに証明はされているけど…。

そして、監禁場所は、クルーザー『エンジェル』内だわ。これも、クルーザー内にあった結束バンドのカット辺から捜査官のDNAが発見されているから、明らかね」

別室で、綾乃の取り調べを見守っていた水島を含む水上署の捜査員たちから、思わず

ため息が漏れている。


「滝本オーナー、あの日の夜、何が起きたのか…、あなたの口から正直に話してくれるかしら?」

滝本は、取調室の小さな机から顔を上げると、綾乃の眼を見ながら話し始めた。


「私はあの夜、黒田組の若頭佐野高志から運転手の川端直樹くんをマリーナに係留してある『エンジェル』まで連れて来るように、言われたんだ。

川端くんも『エンジェル』には興味を持っていたようだったし、ここまではいたって普通の行動だよ。しかし、佐野が現れてからは、状況が一変した。

佐野は、すでに川端くんが潜入捜査官であるとの情報を知っていたから、後ろ手に結束バンドをはめると、執拗に自白を迫った。私は正直、そんな姿を見たくはなかったから、デッキに上がったんだ。だが、佐野の大きな声は聞こえていた・・・」


「滝本さん、確認するけど…、私が初めてあなたに『マリーナ』であった時に、川端さんがマトリの捜査官であることは、すでに知っていたと話したわね。それは、誰からだったの?」

「・・・佐野だよ」

「私には、県警の『薬取り』のタレコミからだと、言っていたけれど……、」

「それは、佐野から言われていて、捜査の攪乱を狙ったものだった。申し訳ない」

「滝本さん、本当のことを話してね。でないと、あなたを救えないわ」

「ありがとう、成宮刑事。あなたには、嘘は付けない・・・」


「そのあと、誰かが来たのね」

「そうです。佐野からオヤジさんと聞かされていた謎の人物からの使者だった。彼の役目は、川端くんが秘匿捜査官であるかどうかの真実を知るためだったように私には見えた。そのうち、彼が拷問まがいの行為を受けていることを知ると、酷く我々を叱責したんだ。

『なんてことをするんですか? ここまでする必要が何処にあるんです!』

私は、この言葉を聞いて、自分が恥ずかしくなったんだよ。川端くんだって、好き好んで、こんな仕事をしたわけではないからね。あくまで、彼の尊厳は守ってやるべきだったんだよ」

「その使者の名前は分かるのかしら?」

「いや、名乗らなかった。でも、彼がなぜこの世界に足を入れているのかが、疑問だった。そういう人間だった・・・」

「ありがとう…、かしわぎさん……」綾乃の自然な感情が、思わず出ていたのだ。


「私が、川端くんに聞きたかったことは、ただ一つのことだった・・」

「それは、何だったのですか?」

「それは、麗香を騙してまで、捜査を続けるつもりでいたのかという事だった」

綾乃が知りたかった、核心であった。

「彼は、捜査は続けると断言をしたのさ。でも、麗香を愛しているのは、嘘偽りのない真実だとも言った。私は、これを聞いて心から安心したんだ。自分の子供とも言える彼女らが、幸せになることが私の望みだからね」

滝本は、取り調べ室の小さな窓から注ぐ光を見ると、少し眩しそうな顔をした。


「川端さんが、亡くなった状況を教えて………」

「それは、わずかな瞬間だった。休憩のつもりで我々が酒を飲み始めてから気が付くと、彼の姿はなかった。泳ぎは得意ではないと聞いていたから、まさかこんなことになるとはね。マリーナの周辺を捜したが、大分照明も落とされていて姿を見つけることは、出来なかった。翌日、大桟橋埠頭で見つかったと、報道で聞いたこと生は、本当に驚いたよ。泳いで岸に辿り着いた可能性も考えていたからね。

あそこで、見つかったのは、よっぽど麗香に会いたかったんだろうな・・・」

滝本は、机に顔を伏せると泣いた。嗚咽がいつまでも、狭い部屋の中で続いていた・・・。



  epilogue  霧雨の夜



 綾乃は、水上署を後にし、眼の前の大桟橋通りを横切ると、象の鼻のように海に伸びている防波堤に立った。みなとみらい地区のビル群や対岸の赤レンガ倉庫が霧雨の中に滲むように浮かんでいる。

今夜も、相変わらずの『DRIZZLE NIGHT 』であった。しかし、決して厭な感じではない。これも、昼間とは違った港街の姿ではあるのだ。受け入れるしかない。


運行中止の遊覧船が何艘か岸壁に係留されているを右手に見ながら、歩いて行く。

左手に、見覚えのある蔦の絡まった港町特有の異国的な建物が見えて来る。

『Blue』である。なぜか、遠い昔に引き戻される懐かしい記憶のようだ。

綾乃は、躊躇わず木製の重い扉を引いた。

「いらっしゃいませ・・・」カウンターの奥から声が掛かった。客は、いない。

バーテンダーが近づいて来ると、綾乃の顔を見た。目踏みをしているようだ。

「あれ! アマデカさんじゃないですか?・・・」

「そう、アマデカですけど、それが何か?…」

「一週間ぶりですね。という事は、殺人事件が解決したってことで・・・」

「まあね。殺人ではなかったけど…、」

「はあっ‥‥?」バーテンダーは、綾乃の顔を見ながら奇妙な声を出した。


「ねえ、相談があるんだけど…、」

「はい、アマデカさんなら、何なりと・・・」

「ボトルを入れたいんだけど…、キープの期限は、どのくらいなの?」

「・・そうですね。最後から、半年くらいですかね」

「一年じゃ、駄目かしら?」

「良いですよ。アマデカさんなら、特別に一年で・・・」

「ありがとう…、」

「何を入れましょうか?」

「そうね。whiskyのうんと高いやつね…」

「それだと、バーボンの方が横浜の夜には似合いそうですが・・・」

「そこにある、七面鳥の絵が書いてあるのは、どうかしら…」


「It`s a 13-year-old wild turkey. 」

( それは、ワイルドターキーの13年物ですよ )

「OK! I decided on that.」

( いいわね! それに決めたわ )

「What do you white your name on the bottle?」

( ボトルの名前は、何にします? )

「Of course ! It`s Kashiwagi.」

( もちろん! カシワギよ )



突然、扉が開く気配がすると、この季節には似合わない心地よい風が入って来た。

綾乃は、思わず振り返ると、照明に照らされ闇の中に浮かんだ男の顔をいつまでも見ていた。




 終わり

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女刑事 成宮綾乃 笹岡耕太郎 @G-BOY

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